不適切な表現に該当する恐れがある内容を一部非表示にしています

わ! かった陶芸 (明窓窯)

 作陶や技術的方法、疑問、質問など陶芸全般 
 特に電動轆轤技法、各種装飾方法、釉薬などについてお話します。

ヨーロッパの陶器 1

2009-11-30 21:50:25 | 世界の陶磁器の歴史
ヨーロッパ大陸の、陶器の歴史に付いて、述べたいと思います。

 1) スペインの陶器

  ① ローマ帝国が衰退してから、数世紀の間、製陶技術は消え、陶器造りは、活動を

    停止していました。

   再び起こったのは、スペインで、アラブ人とサラセン人は、「マジョリカ」陶器を造り、

   領土拡大と伴に、この「マジョリカ」は、周辺に伝わりました。(8世紀頃)

 ② アラブ人は、古代バビロニアで使われていた、酸化錫で造った、ミルク状の白釉を使い、

   タイルや壷等を造っています。

 ③ 作品は、多孔質の素地で、白色不透明釉を掛け、青色のエナメルで彩飾された、金ラスターが、

   有名です。彩飾された、タイルや壷は、「マジョリカ島」で生産され、イタリヤアを始め、

   世界中に輸出されていました。

 ④ 11世紀に成ると、「ヒスペイノ・モレクス陶器」と呼ばれる作品が、「マラガ」で大量に作られて、

   います。これは、石灰質粘土や、赤く焼き上がる粘土に、石灰石を混入した素地で、金属塩を掛け、

   強還元焼成した、ラスター釉です。

 2) イタリアの陶器

  ① イタリアでは、長い期間、スペインから輸入された作品を、模倣した物が造られていました。

    (14世紀~15世紀に、陶器の町であった、「フレンシェ」でマジョリカが、盛んに作られています。)

   15世紀頃から、イタリア独自の作品を、造る人達が現れます。
   
  ② 1400年、フローレンスで生まれた、最も偉大な陶芸家の一人、「ルカ・デル・ロビア」は、

    多孔質の素地に錫釉を掛け、多色の顔料で、彩飾してあり、彼の代表作品に、浮き彫りを施した、

    直径327cmの作品が有ります。

  ③ もう一人の著名な陶芸家に、「ジョルジオ・アンドレオリ」がいます。

    彼は、ルビー色と、黄色の金属ラスター釉を発明します。そして、それを独占せず、他の人に、

    技術を、公開したと言われています。

 3) フランスの陶器

  ① フランスで、壷や甕、施釉煉瓦などの、陶器が造られたのは、12世紀頃です。

    当時パリには、陶器の工場が、沢山存在していました。

  ② フランスで最も著名な、陶芸家は「バーナード・パリシー」で、彼は16年の間苦労を重ね、

   自分の作品に合う、釉薬を発明したと、言われています。

   この釉薬は、酸化錫を入れた、マット釉で、施釉した上に、彩色して更に、薄く鉛釉を

   掛けた物です。 彼の死後、フランス全土に陶器の工場が、造られています。

  ③ 18世紀の中頃から、本物の磁器を作ろうと、多くの努力をしましたが、全て失敗に

    終わっています。

    しかしこの失敗から、「フランス軟磁器」(軟質人工磁器)が発明されました。

    厳密には、磁器ではなく、「フリット」を微細粉砕した物に、少量の粘土を混ぜ、

    可塑性を持たせ物です。 製陶は、かなり難しく、焼成技術も、苦労した様子が、伺えます。

    尚、ヨーロッパで最初に磁器を造ったのは、ドイツで、1768年に、磁器の原料である、

    良質の「カオリン」が、発見され、焼成に成功しました。

    その技術がフランスに伝わります。

以下次回(ヨーロッパの陶器2)に続きます。

 ヨーロッパの陶器



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「ペルシャ」陶器

2009-11-29 21:10:21 | 世界の陶磁器の歴史
引き続き、古代(中世)の陶器に付いて、述べます。

4) ペルシャ時代の陶器

 ① 中国の陶器と同様に、ペルシャ時代の陶器は、世界の陶器に対して、大きな影響を、与えました。

 ② 濃い「コバルト青」や、青銅で彩られた、陶器の水差し等は、優れた造形美で、長い年月、

   ペルシャで、使われていました。

   ペルシャ陶器として、良く見かける作品は、「モハメット教時代」の、初期に造られていました。

 ③ 残念な事は、当時その作品を使用していた人が、死ぬと調度品を壊す風習が有り、完全な姿で、

   発掘される事が、稀だと言う事です。

 ④ 前イスラム教時代(8~10世紀)に「ガブリ」陶器が有ります。

   素地は赤く、その上に、白色の化粧土を掛け、表面を引っ掻いて、模様をつけています。

   化粧土の上に、黄色や緑色の、鉛釉が掛かり、褐色や紫色に発色し、美しい装飾となっています。

 ⑤ ペルシャ陶器で、最も重要な陶器は、11~14世紀に造られた作品で、肌理が粗い白い素地に

   透明釉が掛かり、白色、淡青色、或いは、緑色をしています。

   又、不透明な「トルコブルー」が、掛かった作品も、見受けられます。

 ⑥ 8~14世紀に、「シリア」の「ラッカ」は陶器の、一大産地でした。

   特に8世紀終わり~9世紀初めにかけて、「ラッカ陶器」と呼ばれる、形と意匠の素晴らしい

   作品が造られています。

   長い年月、土に埋もれていた為、釉が腐食し、虹彩を生じ、一段と魅力的な作品となっています。

 ⑦ 「ラスター釉」は、14世紀以降に、発明された物と、思われます。

   この時代に成ると、現在、我々が使用している、顔料は殆ど造り出されています。

 ⑧ 16世紀以降に成ると、中国から、陶工を招き、中国の製陶技術を学んだ様子が、伺われます。

 以下次回(ヨーロッパの陶器)に続きます。

 ペルシャ陶器
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「ギリシャ」、「ローマ」の陶器

2009-11-28 21:44:17 | 世界の陶磁器の歴史
引き続き、古代の陶器について、述べます。

2) 「ギリシャ」時代の陶器

 ① ギリシャ時代の陶器は、壷や鉢、甕などに、現在「ラスター釉」と呼んでいる、わずかに光沢のある、

   薄い釉薬が掛かり、「エジプト」や「ペルシャ」のタイルやレンガに掛かっている、厚い釉薬とは、

   明らかに違い、施釉製陶技術は、「ペルシャ」から、受け継いだ物とは、思われません。

 ② この釉薬は、珪砂に少量の粘土と、アルカリを加え、水で練った物で、「ラスター」の黒色は、

   酸化鉄を加え、粘土中の酸化金属と、反応して、発色した物と思われています。

 ③ 古代ギリシャの陶器の特徴は、形が美しく、装飾も、華やかな事です。

   素地の粘土も現在の様に、篩(ふるい)を通し、粒子をの大きさを、揃えていました。

   素地は低温で、焼成してある為、ナイフなどでも、傷が付く程です。
   
 ④ 色彩は、赤褐色、黒、黄色の三色で、紀元前10世紀~6世紀にかけて、「スリップ釉」が、

   全盛を極めています。

   色彩は、粘土に含まれる、着色金属酸化物が、窯の中で反応し、発色したと、考えられています。

 ⑤ 「ギリシャ」の陶器は、装飾性に特徴があり、製陶技術は、余り発展していません。

3) 「ローマ」時代の陶器

 ① 「ローマ」の施釉陶器は、「ギリシャ」の影響を、色濃く残しています。

   「ローマ」では、「煉瓦」と「タイル」を製造し、その「煉瓦」は主に建築材料に成りました。

   「ローマ」帝国は、周辺を征服し、植民地化により、「スペイン」、「ドイツ」、「フランス」にも、

   この技術が、伝わりました。

   「煉瓦」は最初、屋根材に使われたが、やがて、壁材料にも使われ、煉瓦建築が栄えます。

 ② 「ローマ」の陶器は、赤色素地(サミアン)と、黒色素地(エトラスカン)の、二種類があります。

  ) 前者は、独、仏、英国でも、発見されています。

   造り方は、素焼した素地に、微細の赤色粘土の「泥しょう」に浸し、乾燥後表面を研磨して、

   光沢を出してから、焼成したと考えられています。

  ) 後者は、粉砕した木炭の粉を、素地に混入して、強還元焼成した物です。

    表面に、泥しょうが、掛けられています。

 ③ 焼成温度は、800℃~1000℃程度で、表面の泥しょうが、やや熔けています。

 ④ 「古代ローマ」で作った、水道管や風呂桶は、水を通さない、「せっ器」で、水道管は仏、伊まで延び

   今日でも、十分水を送る事が出来ます。

   (注:せっ器の「せっ」は、火偏に石と書きますが、変換できませんので、仮名で表示します。)

   衛生陶器の製造も行われ、高度に完成されていました。

 ⑤ 紀元4~6世紀の、ヨーロッパの民族大移動で、製陶の技術は、衰退、消滅していきます。

以下次回(ペルシャ陶器)に続きます。

 参考資料: 「図解 工芸用陶磁器」ー伝統から化学へー (素木洋一 著)技術堂出版(株)

 古代ギリシャ、ローマの陶器
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

焼き物の始まり

2009-11-27 22:34:08 | 世界の陶磁器の歴史
 粘土質の土は、太陽に当て、乾燥させると、硬くなりる性質が有る事は、大昔(有史以前)より、

知られていました。そこで、天日干しの「レンガ」が、一般的に造られ、建物等に使用されていました。

 更に、火で焼く事により、水に対しても、強度が増す事が、解かる様になり、焼成の技法も、発展します。

この粘土質の土で、器を造る様に成ったのは、氷河期の紀元前15,000年頃と、言われています。

 日本以外でも、「北アフリカ」、「北アメリカ」、「南アメリカ」など、各地に同時発生的に、出現し、

何処か一箇所の、発明が、全世界に広がったのでは無いと、考古学的に検証されています。

1) エジプトの陶器

  ① 世界で最も古い陶器は、ナイル盆地の墓から、発掘された、「テラコッタ」製の壷で、

    赤と黒の模様があり、表面が磨かれていました。時代は、紀元前5,000年頃と、言われています。

  ② 紀元前3,500年頃には、釉薬が掛かった「タイル」や、陶製の棺桶なども出現しています。

  ③ その技法は、型を使った作品や、精巧な轆轤(ろくろ)も使われていました。

    又、焼成も、野焼きではなく、専用の「窯」も存在しています。
   
  ④ 轆轤は、男性の仕事で、手細工(手ひねり)の作品は、主に女性が担当していて、この現象は、

    面白い事に、世界共通の事柄の様です。

  ⑤ 釉薬の発見は、珪砂とアルカリ類(Na,Ka,Ca,Kなど)の混合物が、火の作用で、「ガラス」質になり

    偶然発見された物と、思われます。

    当時は、粘土質の素地と、「ガラス」との関係の知識が、有りませんでしたので、

    多量(90%以上)の珪砂が、入った素地に、施釉し焼成し、多孔質な素地に、釉が浸透し、

    強度を増す働きが、ありました。

  ⑥ 初期の色釉は、銅を使った青色で、中近東の代表的な色と成ります。

    以後、「マンガン」を使った、黒と紫の色が、造り出され、長い年月使われ続けます。

  ⑦ 「エジプト」で発明された、製陶技術(轆轤など)は、北方と西方に伝わり、「ギリシャ」、

    「メソポタミア」、「ペルシャ」へ広がり、やがて「中国」にも届きます。

 以下次回に続きます。

 エジプトの陶器

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

j縄文土器(まとめ)

2009-11-18 22:24:15 | 縄文土器の話、骨董の話
縄文時代は、約1万年程続き、縄文土器と言う、独自の焼き物を造り出しました。

土を焼き、器を造り、主に「煮炊き用」に使い、今の釜や鍋の用に、使用しました。

又、食器用や、貯蔵用として、縄文人には、欠かせない、大事な実用品でした。

時により、祭祀の用具として、使用されたと、思われます。

縄文時代の気候は、現在より寒く、動植物の分布も、現在と、大きく変わり、生活様式も、

(類推するしか有りませんが、)或る意味、豊かな時代だったのかも、知れません。

1) 発掘された、住居跡や、貝塚などには、必ず土器が出現します。一家に数個の土器が、

   使われていた事が、解かります。この状態は、日本全国に及んでいます。

2) 土器の発明により、狩の生活(労力)や、食料の料理方法、保存方法、その他、健康や寿命にも、

   大きな変革がなされました。より生活が、豊かになった結果、人口も増加したはずです。

3) 時代により、土器の形、文様が変化しています。或る時期では、全国的に、同じ様式が、

   流行しています。文物の交流も、活発に行われていた、証拠です。

4) 土器造りは、女性が、主たる造り手ですが、「野焼き」などは、の一大、「イベント」だったと

   思われます。

5) 中期以降、土器を造る、専門家が、出現した可能性が有ります。

   あの精巧な、形や文様は、現代においても、斬新な感覚を感じます。

6) 土器は600~700℃程度で、焼成されている為、脆くて弱く、水を通し易い物ですが、

   色々工夫して、使用に耐える、用具に仕上げています。

7) 「野焼き」の際に出る灰は、温度が高くなれば、釉薬(ガラス質)となり、より強く、美しい色の、

   土器に成るのですが、縄文時代では、今だ、釉薬の概念はありません。

   釉薬の発見(発明)までには、「窯」の発達(発明)を待たなければ、成りません。


縄文土器について、色々述べて来ましたが、ここでひとまず、終わりにしたいと思います。

 次回から、別の「テーマ」を、取上げたいと思います。

縄文土器



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

野焼き(縄文土器の焼成)3

2009-11-17 21:16:48 | 縄文土器の話、骨董の話
5) 野焼きの手順
                                   
  ① 地面の水分を蒸発させる(地面を乾かす)

    地面が、濡れていると 焼いた時に、土器の水分が、中々抜けず、割れてしまいます。

    天日干しした後の作品でも、かなりの水分を、含んでいます。(特に肉厚の場合は、顕著です)

    この水分を含んだ状態で、温度を上げていくと、水蒸気が、表面から抜け切らず、

    水蒸気爆発を起し、破裂します。それ故、地面に水分が、残っている様でしたら、焚き火などで、

    地面を乾かします。その際、周りに土器を並べて、器面を暖めます。

  ② 中心に土器を置く

    地面の湿気が、取れたら、中央に土器を、並べます。

   ) 直接地面に、置く方法

      均等に、熱が伝わる事が、第一条件です。又、作品が安定に置ける事も、大切な事です。

      お互い、寄りかかる様にし、焼き上がるまで、安定していなくては成りません。

    ・ 注: 十分乾燥させた作品は、「野焼き」程度の温度では、ほとんど収縮しません。

      作品の大きさ、高さなどを考慮して、詰め過ぎず、開け過ぎ無い様にします。

   ) 作品を少し浮かせる方法

      地面に着いた所の温度は、中々温度が上がりません。

      作品の下に、空間を造る為に、石などの上に置いたとも、思われます。 
  
  ③ 遠火で、土器を暖める。

   作品の周りを、枯れ草など、着火し易い燃料で囲み、その外側に、枯れ木など、やや燃え難く、

   火持ちの良い、燃料で囲みます。空気の供給も、大切な事ですので、十分空気が入る空間も、

   必要です。全ての準備が出来たら、点火します。

   土器の器面が、充分に熱くならない内に、炎が当ると、割れてしまうので

   段々と遠くから(周囲から)、火を燃やして行きます。

 ④ 炎で全体を包む

   水蒸気が出なくなったら、火力を強めます。

   土器の上の方にも燃料をかぶせて、全体をドーム状にして、熱が蓄積するようにします。

   この段階では、薪の様な、木の燃料を多く使い、「焼きむら」が出ない様に、状況を見ながら、

   燃料を供給し続けます。その際、燃料が、作品に当らない様にします。

⑤ 野焼きの終了

   「焼き見本」を取り出し、焼き加減を見てから、燃料の供給を止め、自然鎮火するのを、待ちます。

   ) 完全に鎮火する前に、落ち葉や、杉の葉等をくべ、黒い煙(煤)を発生させて、

     土器を黒くする(黒陶)事もしました。

   ) 鎮火しても直ぐには、作品は取り出せません。自然冷却で、手に持てる様に成ったら、

      取り出します。冷却は、遅いほど、作品「冷め割れ」を、防ぎます。

 以下次回に続きます。

 野焼き

  



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

野焼き(縄文土器の焼成)2

2009-11-16 08:11:19 | 縄文土器の話、骨董の話
前回に続き、「野焼き」について、話を進めます。

4) 野焼きの場所

   ① 周りに、何も無い広い場所

     実際に野焼きする場所は、余り面積は取りませんが、数人の人が、自由に動き回れる

     「スペース」が必要です。又、暑い熱を避ける為にも、火との距離が必要です。

     更に、当時の、竪穴式住居の屋根は、萱や草で出来ていますので、簡単に、燃えてしまいます。

     それ故、広い場所で、野焼きし、「飛び火」にも、注意する事に成ります。

     たぶん、皆が集まれる、広い場所は、必ずあったと思われます。

  ② 野焼きの地面の状態

   ) 作品が安定に置ける場所。人が安心して、動きまわれる場所。

      早期の土器は、尖底土器で、底が尖っています。それ故、地面に、突き立てるか、

      寝かせて置くか、寄りかかって置くか、石や砂利、砂などで根元を固定したか、

      何らかの方法を、とりました。

      尚、大きな作品の内側に、小さな作品を入れる事(入れ子)は、何の問題も有りません。

   ) 地面が乾燥している事。又は、地面に石などを敷き、安定化させると同時に、

      熱が地面に逃げない様にします。

      冷め難い石を、下に敷く事は、鎮火後の、冷め割れを防ぐ、効果が有ります。

   ) 作品を地面や、敷いた石の上に置くのではなく、太い木で「井桁」に組んだ上に、

      載せた(又は、中に入れた)かも、知れません。

      炎は上の方が熱いです。なるべく作品の下や、横から、燃やす方が、高い温度で焼く事が、
   
      出来ます。 但し、焼成途中で、「井桁」が崩れると、作品が転がり落ち、壊れます。

      なんらかの対策は、取ったはずです。

   ) 作品は、一段高くなった場所に置く。

      広場の中央を高くし、そこに作品を置き、低い周囲から点火し、遠火で「あぶり」をした

      可能性も有ります。

 5) 野焼きの手順 

                                 
 以下次回に続きます。

 野焼き 縄文土器の焼成
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

野焼き(縄文土器の焼成)1

2009-11-15 14:38:47 | 縄文土器の話、骨董の話
土器は 粘土で形を造った後、充分に乾燥させてから、焼いて完成と成ります。

縄文時代には、窯がなかったので、「野焼き」といわれる焼成方法で、焼き上げました。

 野焼きに付いて、考えて見たいと思います。

 1) 野焼きの温度

    熱を閉じ込める窯が、有りませんので、温度は高くなりません。大体600℃~800℃程度が、

    一般的で、部分的には、1000度位まで、昇温したかも知れません。

  ・ 粘土は、560~570℃位で、結晶水が抜け、質的変化を起し、水を加えても、元の粘土に、

    戻れなく成ります。それ故、土器として使用するには、600℃以上で、焼く必要が有ります。

    現在の陶芸での素焼は、一般に、700~800℃で行います。

    土器の強度は、素焼程度だと、思って下さい。

  ・ 温度が高ければ、高い程、土器の強度は増し、壊れ難くなります。当時の人は、当然その事を、

    知っていたはずです。温度が高くなる方法を、色々工夫したに違いありません。

 2) 野焼きの時間

  ① 野焼きの作業は、ほぼ1日仕事でした。日の出から日没まで掛かり、場合に拠っては、

    夜中や、翌日まで掛かった可能性も、あります。

    その間、燃料を補給し、良く燃える様に、棒で中を、かき混ぜたり、不用な灰を、取り除いたり、

    火の番をする事以外に、かなりの仕事量が、有りました。

  ② 最初の400℃程度までは、ゆっくり焼成します。(現代でも同じです。)

    この間が、一番作品が壊れる温度ですので、土器の内部に残っている、水分を、蒸発させる為、

    6時間以上の時間を掛けます。

    それ以上の温度に成ると、どんどん温度を上げる事が、可能になり、燃料の消費量も増えます。 

  ③ 温度計の無い当時は、どのよう様に、この温度を見分けたのでしょうか?

   ) 一番解かりやすいのは、水蒸気の発生状態を、見る事です。

     (現代での窯では、200℃程度までは、蒸気の発生も少ないですが、除々に発生量が多くなり、

      250~300℃で、 最高になり、後は少しづつ減少します。)

      盛んに発生していた蒸気が、段段少なくなり、ほとんど発生が、認められない状態に成れば、

      問題なく、温度を急に上げる事も、出来ます。

    ) 経験側から割り出す

      燃料の消費具合、炎の色や燃え具合、土器の表面の様子、焚いている時間など、

      今までの、経験から割り出したかも、知れません。

    ) 焼き上がりの温度は、粘土片等の「焼き見本」を置き、炎の中から棒等で、取り出し、

       冷却後、強度などを調べて、判断した事でしょう。

       (現在でも、本焼きで、同じ様な事を、行っています。)

 3) 野焼きの時期(季節)

  ① 野焼きをする前に、準備する必要が有る物

   ) 必要量の作品の数(数十個の作品)が、出来上がっている事。

      それらは、天日干しし、十分に乾燥してある事です。

    ・ この段階で、作品に「割れ」や「ひび」が、入っていたら、この作品は、焼けません。

      補修もほとんど、不可能です。水を加えて、粘土に戻し、最初から造り直したはずです。

   ) 燃料が、十分集められている事。

      枯れ葉や、枯れ草、枯れ枝、枯れ木(薪)など、野山で集める事が出来る季節で有る事。

   ) 野焼きは、人手が必要です。女子供だけでは、無理ですので、男手がいります。

      その男達に、手伝う時間が有る事。尚、縄文中期には、野焼きをする、専門の「窯を焚き」が

      存在していたと、思われます。

      彼らは、報酬を得て、「窯焚き」を請負い、村々を巡回していたかも知れません。

  ② 天候に恵まれている事

    ) 野焼き当日だけでなく、数日前から、晴天の事(少なくとも、雨が降らない事)

       土器を乾燥させるのは勿論、燃料を乾燥させ、更に野焼きする場所も、十分乾燥させて置く、

       必要が有ります。

    ) 野焼き当日は、絶対に雨が降らない事、及び大風が吹かない事。

       朝は晴天でも、急な夕立等が無いと、確信出来てから、野焼きを、始めます。

       雨が降ると、火が燃え無いばかりではなく、最悪、生の作品が溶け出し、壊れます。

       又、少しの風では、火は燃え易く成りますが、急に大風が吹くと、飛び火し、

       火事や、山火事などを、引き起こす恐れも有ります。

  以上の事を、満足する季節や、日にちを、選ぶ事に成ります。

 4) 野焼きの場所

 以下次回に続きます。

野焼き
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

縄文土器(土器の形)3

2009-11-14 21:47:09 | 縄文土器の話、骨董の話
陶芸の「ルーツ」である、縄文土器の話を、続けます。

 6) 縄文土器の特徴

  ① 土器の形

  ) 後期から晩期までの土器

   a)  後期の形と、文様

     後期に入ると、文様、形に、大きな変化が現れます。器形は、薄手になり、

     厚手の大きな土器は、次第に薄くなり、用途に応じた、土器が造られていきます。

     即ち、深鉢、浅鉢、甕、壷、注口、台鉢等が、一般的に造られています。

     又、釣手形土器、蓋付土器、双口土器など、非実用的と思われる、器も造られ、

     変化に富んでいます。

     文様は、「ヘラ」状の道具による、沈線文のほか、磨消(すりけし)縄文の手法が発達します。

     特に、磨消文様は、後期の中頃に、盛んに作られ、全国に普及しました。

     同じ技法の文様が、全国に広がり流行したのは、これが始めてです。

   ・  注: 磨消文様とは、 土器の表面全体に、縄文を付けた上から、線描で文様の輪郭を描き 、

        そこから、はみ出た縄文を、「ヘラ」等で磨り消して、輪郭内の文様を、

        浮き出させる技法です。

    b) 晩期の形と、文様

     晩期では、亀ヶ岡式土器(青森県、亀ヶ岡遺跡) が、代表的な土器です。

     東日本を中心にB・C10世紀~B・C3、4世紀に栄え、器形を磨いた土器で、

     縄文土器、最後の華と、言うべきものです。

     繊細精緻の造りで、豪快な中期の作品とは、対称的です。

     薄手小型の精製土器と、大型で粗雑な作りの粗製土器があり、後者は、内面に、

     炭化物が付着し、日常的な什器として、使用されたと、思われます。

     亀ヶ岡式精製土器の特徴は、一見理解不能な多様で、複雑怪奇な文様が描かれ、

     赤色塗料が、塗布されている点であり、器種も複雑に分化し、装飾も繁煩を極めています。

     尚、西日本の地域の晩期は、縄文土器の衰退が続き、次の弥生式へと、移って行きます。

  ) 縄文文化(土器)の終末

     縄文土器が終末期になると、段々と無文で、赤焼きの物が増え、器形も整い、穏やかになり、

     弥生(土器)化していきます。

     弥生文化は、大陸から伝来した稲作が、早いスピードで、全国に広がり、農耕生活となり、

     生活が一変した結果、その用具(土器)にも大きな影響を、与えています。

 7) 縄文土器の焼成(野焼き)

 以下次回に続きます。

縄文土器の形 文様

  
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

縄文土器(土器の形)2

2009-11-13 21:54:47 | 縄文土器の話、骨董の話
陶芸の「ルーツ」である、縄文土器の話を、続けます。

 6) 縄文土器の特徴

  ① 土器の形

  ) 前期から中期までの土器

   a)  前期の形、文様
   
     早期の、底の尖った、尖底土器は、次第に消滅し、平底深鉢土器が一般化し、東日本では、

     繊維土器が普及します。
 
     ほかに浅鉢・台付き土器も出現し、前期後半では、土器の種類も増え、甕、鉢、壷、椀も、

     作られて、縄文文様の最盛期に成ります。甕や壷は、食料の貯蔵用に、使われました。

     新たな形の土器に合わせて、新しい装飾も生まれました。

   ・ 東日本では、最初は紐を簡単に、撚り合せた施文具(模様を付ける為の、道具)でしたが、

     次第に複雑な施文具が、考案され、百種類程度が、確認されています。

   ・ 西日本では、繊維土器は無く、やや薄手で、条痕文、ミミズ腫れ貼付文、爪形文が普及し、

     東日本の様な、施文具も無く、発達した模様は少ないです。

   ・ 前期後半になると、東西の交流も増え、お互いの文様にも、影響が出て着ました。

   b) 中期の形、文様

   ・  関東、中部地方では、 縄文土器を代表する、作品群が、登場します。

     口縁部を炎の様に、飾った火焔(かえん)土器(新潟県、馬高遺跡出土)や、

     水焔土器(長野県、井戸尻遺跡出土)と呼ばれる、渦巻き文の、大把手(おおとって)深鉢、

     その他、口縁に鍔(つば)を、はめ込んだ様に、突き出た、有孔鍔付土器が等が有名です。

     ほかに深鉢形・注口土器も作製され、渦巻文など、文様が複雑化します。

     注口土器は、液体を入れた物ですが、酒を入れたかどうかは、不明です。

   ・ 作風は、厚手で大きく、装飾も立体的で、力量感に溢れ、豪華に飾り立てています。

     又、隆起文を全体に施し、人面や、蛇の文様をつけたり、踊る人形文や、三本指文や、

     人頭把手を付けた、大甕など、豪快な作品に、仕上げています。        

   ・ 形も大型化し、高さが50~60cm以上の物も、珍しく有りません。

     この様な大きな作品は、女性や老人の様に、力の弱い者には無理で、文様の複雑さからも、

     男性の土器造りで、専門家(集団)が居たとするのが、妥当です。

   ・ この様な複雑な形の土器は、機能的、実用的とはいえません。

     祭祀の際に、使われた物と見られ、宗教的な意味が、込められていると、思われます。

   ・ 中期も後半には、東日本の土器が、「加曾利E 式土器」(千葉市、加曾利貝塚)に、

     統一されていきます。即ち、派手な隆起文も、曲線化し、把手も小型化して行きます。

 ) 後期から、晩期までの形、文様


 以下次回に続きます。

縄文土器の形
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする