わ! かった陶芸 (明窓窯)

 作陶や技術的方法、疑問、質問など陶芸全般 
 特に電動轆轤技法、各種装飾方法、釉薬などについてお話します。

現代の陶芸181(兼田昌尚2)

2012-08-31 22:21:16 | 現代陶芸と工芸家達

② 兼田昌尚氏の陶芸

 ) 「刳貫(くりぬき)」技法とは。

    a) 土について: 兼田氏が使う土は、大道土 3 :金峯土 1 の割合で混ぜ合わせ、更に1割

      程度の見島土を配合しています。金峯土(みたけつち)は耐火度を、見島土は鉄分量を

      調整します。

    b) 作る作品は、鉢、茶碗、花器など多彩です。

      作り方で大切な事は、土をいかに締めるかです。一塊の土から作り出しますので、

      どうしても締めが弱く、「割れ」や「ひび」が出易いです。塊が大きければ大きい程、

      しっかり締める必要があります。

    イ) 茶碗など比較的小さな作品では、塊も小さいですが、花器などの場合にはそれなりの

      方法が必要です。

    ロ) 小さな塊の場合には、土を机に叩きつけたり、上から土を落として締めた後、更に掌や

       角材を使って叩き締めます。締める際には、少しづつ全体の形を作って行きます。

       (角材は、薪を削って自作した、長さ40cm程度で、断面は長方形に成っています。)

    ハ) 大きな塊の場合には、大まかな形にした後、角材を使って全体を叩き締めます。

       叩く場所も考慮する必要があります。即ち角のある作品ならば、角が出る様に叩く必要が

       あります。又、兼田氏の作品には、叩いた痕を上手に生かしています。

       逆に、意図的に段差が出来る様に叩いている様にも思われます。叩いていると自然に

       正面が決る様に成るとの事です。

     ニ) 中を刳り貫く。 一日置いて、乾燥させてから作業に取り掛かります。

       使う道具は主に「掻きベラ」です。先端が丸や角のもので、作品に応じて使い  

       分けいます。塊の中央から彫り進み、先ず穴径を大きくしながら、深さも彫り込みます。

       肉厚はある程度(2~3cm)厚くしておき、翌日の仕上げ削りで薄くします。

     ホ) 口の小さな花器などは、底の方から彫り進み、最後に底になる板を貼り付けます。

        底板は底に合わせて形作り、底の大きさよりやや大きくします。合わせ目に引っ掻き傷を

        付けて、指で底板を本体にならしてから、角材でかるく叩き接着させます。

     ヘ) 肉厚を整える。慣れないとこの作業は難しいようです。

        特に段差のある作品では、同じ厚みにする事に苦労するそうです。

        手による厚みの測定や、「掻きベラ」の手応え、それに添えている手の感覚、削る時の

        音などを頼りに、厚みを判断するとの事です。

     ト) 肉厚は作品に応じて変化させます。

        どっしりした、鉢や花瓶などはやや厚めにし、茶碗などは、口縁をやや肉厚にしますが、

       全体的には、やや薄めに削ります。又、無骨な茶碗にしたい場合には、やや厚めにします。

  ) 釉について。「ざっくり感」のある萩土には、白釉や藁灰釉を掛け、白やグレーに時には

      ピンク色に発色させます。釉は流れて作品を叩いた時に出来る角や面に応じて濃淡が

      つきます。これがまた見所の一つになります。

  ) 焼成は三室からなる、登り窯で行っています。   

     焼成された器肌は、灰被りをはじめ、白萩釉が繊細で複雑な表情を見せます。

  ) 兼田 昌尚氏の作品

   ・ 白萩刳貫茶碗 : 高 10、 口径 11.5 cm。 白萩窯変刳貫茶碗: 高 10.2 、口径 13 cm。

     灰被刳貫茶碗 : 高 8.8、 口径 9.8 cm。

   ・ 灰被刳貫水指 : 高 20 、22 X 22 cm。

   ・ 灰被陶筥(とうばこ): 高 12.5、 22.5 X  14 cm。

   ・ 灰被刳貫花器 : 高 38.5、 43.5 X 23.7 cm。などの作品があります。

次回(瀧田項一氏)に続きます。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

現代の陶芸180(兼田昌尚1)

2012-08-30 21:34:13 | 現代陶芸と工芸家達

山口県萩在住の、兼田昌尚氏は、「刳貫技法」と言う、独自の方法で作陶を続けています。

 尚、「刳貫(くりぬき)」とは、土の塊を板で叩き締め、中を刳貫いて成形する技法です。 

1) 兼田 昌尚 (かねだ まさなお): 1953年(昭和28)~ 

 ① 経歴

   1953年  山口県萩焼の窯元(天寵山窯)の七代兼田三左衛門の長男として萩市に生れます。 

   1977年 東京教育大学教育学部、芸術学科 彫塑専攻を卒業します。

   1979年 筑波大学大学院、芸術研究科 彫塑専攻を終了し、帰郷して父三左衛門につき

     轆轤の腕を磨き、作陶全般についての修行に入ります。

    1985年 日本工芸会の正会員になります。(91年 同会を脱退します。)

    1996年 山口県芸術文化振興奨励賞を受賞します。

    2000年~2003年 筑波大学 芸術学系 助教授に就任します。

    2002年 岐阜現代陶芸美術館「現代陶芸の100年」展に出品します。

    2003年 茨城県陶芸美術館「現代陶芸の華」展に出品。

   2005年 八代目 天寵山(てんちょうざん)窯元に就任します。

   2006年 八代天寵山窯就任記念「陶’06」を日本橋三越で開催します。

   2003~2006年 萩国際大学陶芸文化コースの教授に就任します。

  ・ 個展も、横浜高島屋(横浜)、伊勢甚(水戸市)、彩陶庵本館(萩市)、目黒陶芸館(四日市市) 、

   ギャラリー器館(京都市)、赤坂游ギャラリー(東京)、うめだ阪急百貨店(大阪市)など、各地で

   多数開催しています。

   又、兼田昌尚氏の作品は、山口県立萩美術館、東京国立近代美術館・工芸館、東京国立近代

   美術館、ブルックリン美術館、 山口県立美術館、 横浜そごう美術館、 岐阜県現代陶芸美術館、

   など多くの美術館に収められています。

  ② 兼田昌尚氏の陶芸

  ) 昌尚氏の出発点は彫刻でしたが、やがて家業の陶芸に専念する様になります。

    西日本陶芸展(山口県知事賞)、日本工芸会山口支部展(朝日新聞社賞)、九州山口陶磁器展

    (毎日新聞社賞)、西日本陶芸美術展(通産大臣賞)などの公募展で、数々の賞を受賞し高い

    評価を受けていました。これらの出品は轆轤成形による作品です。

    しかし、次第に轆轤挽きの作品に限界を感じる様になります。

  ) 「轆轤力」から「かたまり力」へ

     1991年 日本工芸会を脱退し、土を刳貫くと言う新しい技法で、作品を作る様になります。

     (勿論、轆轤挽きを辞めた訳ではなく、平行して続けますが、公募展の作品は刳貫きの作品に

     成っていきます。)刳貫きは、土の持っている力を表現する為「かたまり力」と命名しています。

  ) 「刳貫」技法とは。

以下次回に続きます。 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

現代の陶芸179(木村盛康3)

2012-08-29 21:43:18 | 現代陶芸と工芸家達

 3) 木村氏の陶芸 

   ③ 天目釉を掛ける。

    ) 作品に応じて、一度掛けと二重掛けの方法を取っています。

     a) 釉は金属を含む為に、直ぐに沈殿してしまうので、沈殿しないように攪拌しながら施釉する

       必要があります。釉には接着し易い様に、「ふのり」を入れるそうで、化学糊のCMCは

       入れていないとの事です。(CMCの素性が不明である事が原因です。)

     b) 一度塗りや、二重塗りの一度目は、浸し掛けで施釉します。

       器の内側は流し込みで、外側は底を持って口から容器に浸します。その際器を揺さ振り

       釉がしっかり染み込む様にします。

     c) 二重掛けの際には、施釉の範囲を制御し易い様に、霧吹きを用いて釉掛しています。

       釉の種類は、下地の釉で二十種類程度で、上に掛ける釉はそれ以上との事です。

       更に、同じ釉であっても、濃淡によって出来上がりに大きな差ができます。

   ④ 焼成はガス窯を使い、中性炎~還元炎で1280~1300℃の高温で焼成します。

      焼成時間は16~23時間と長めに成っています。(窯の容量は1立方mだそうです。)

     a) 冷却速度も大切で、速いと結晶は小さくなり、遅いと結晶は大きくなりますので、釉の

       種類や目的に応じて、決めている様です。

     b) 天目釉は不確実な要素が多く、窯を開けるまで解からないのですが、「必ずしも偶然性を

       期待して焼成している」訳ではないとの事です。

     c) 窯には160個ほどの茶碗が入りますが、世に出る作品はほんの数点と、厳しい様です。

   ④ 木村盛康氏の作品。

     鉄釉を研究していた長兄の盛和氏の影響で、天目釉にのめり込んでゆきます。

     釉の調合や焼成を繰り返すうちに、古来からの「油滴」や「耀変」とは異なる、新しい釉調の

     天目釉を開発する様になります。

    ) 「松樹天目」: 松の樹肌を思わせる網目状の銀白色の線が、漆黒を背景に浮かび

      上がった文様に成っています。流れる釉の為、文様は「Uの字」状や下向きで複雑に

      絡み合っています。 銀白色の線は、二重掛けによるものと思われ、文様もある程度、

      意図的に作り出している様に見えます。

       「松樹天目偏壷」: 高さ 23 径 17 cm

     ) 「天目 宙茶碗」: 青、水色、茶色、白、黒などの色彩が見込みに向かって、流れ込んで

        います。あたかも、宇宙の一点から四方八方に多彩な光が、放出されている様な感じの

        する作品です。

        「天目 宙茶碗」: 高さ 8.6 口径 12.8 cm 他多数

      ) 「華炎天目茶碗」: 朱色の器肌の内部から黒い(又は銀色)不定形の線が湧き

        上がってくる感じの作品です。

        この赤(朱色)は金属などの、着色材から取ったものではなく、釉として使う天然の楢(なら)

        灰の中の微量な鉱石によるものとの事です。

         「華炎天目茶碗」: 高さ 9.4 口径 13.2 cm 他多数

      ) 「禾目碧天目」: 青み掛かった黒色を背景に、金色(又は銀白色)の禾目が器の

        中央に向かって流れ込んでいます。口縁の禾目は細く、段々太さを増し、中央では全ての

        禾目が一体化しています。禾目は直線的ではなく、「うねうね」と湾曲しながら複雑に

        枝別れして伸びています。

        「禾目碧天目深鉢」: 高さ 14 口径 35 cm 

        「禾目碧天目茶碗」: 高さ 5.7 口径 13.2 cm 他多数

     ) 「曜黄天目」: 禾目天目と同じ様な文様に成りますが、禾目の色が黄色、又は黄褐色を

        した釉です。 「曜黄天目茶碗」: 高さ 7 口径 12.8 cm 

      ) 「極天々目」: 釉の流れが、面状に成って表現された作品です。

         木村氏は、点(油滴)から線(禾目)へ変化し、更に面(極天使)へと発展して行きます。

         オレンジ色、褐色、緑、青緑、黒などの色彩が複雑に絡み合いながら、器肌全体に流れ

         落ちている作品です。

         「極天柿紋壷」: 高さ 27 径 19.8 cm

         「極天花器」: 高さ 45.5 17 X 17 cm 

     尚、近年(平成21年)新しい天目の、「天空」を発表しています。

  追記: 天目釉は結晶釉です。結晶を成長させる為には、流れ易い釉にしなければ成りません。

     釉が棚板まで流れない様にする必要があります。その解決策として以下の方法があります。

     ・ 焼成温度が高過ぎると流れ易く成るため、温度を下げる方法があります。

       しかし、この方法では、温度調整が難しいです。窯の中全体が一定温度には成らず

       「バラツキ」が多い為です。

     ・ 釉を薄掛けにすれば流れは少なくなりますが、結晶が出来なかったり、成長しません。

     ・ ある程度の流れを予想して、高台脇から下は施釉しない方法です。

       これは一般的に行われている方法です。しかしこれでも十分ではありません。

     ・ 高台削りの際、口縁、胴、腰、の線(ライン)と、高台に続く線を分断する方法です。

       即ち、高台付け根の部分をわずかに(1~2mm)膨らませた、幅の狭い庇(ひさし)を

       設ける事です、 流れ落ちた釉は、この庇で堰き止められ、溜まる事になりますので、

       この膨らんだ庇の部分は釉の中に隠れる事になります。

次回(兼田昌尚氏)に続きます。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

現代の陶芸178(木村盛康2)

2012-08-28 22:10:26 | 現代陶芸と工芸家達

2) 「天目」とは、中国福建省の建窯で焼かれた、建盞(けんさん)の事です。 

   ) 国宝「耀(曜)変天目」: 漆黒地に青や銀白色の大小の斑点が、浮かび上がり、周囲を

      瑠璃色の光彩で取り囲み、虹の様な神秘的な作品です。

      釉上の薄い皮膜の作用によるものと、言われています。

      世界に3(又は4)点のみ、存在が確認されています。(それらは、日本にあります)。

     a) 静嘉堂文庫蔵(稲葉天目): 高 6.8 口径 12.0 高台径 3.8 cm

        耀変天目の中でも最高の物とされる茶碗です。口縁には金の覆輪が嵌められています。     

        徳川家光より春日局に下賜し、その子孫である淀藩主稲葉家に伝わり更に、三菱財閥

        総帥の岩崎小弥太が入手したが、現在は静嘉堂文庫所蔵となっています。

      b) 藤田美術館蔵: 高さ 6.8 口径 12.3 高台径 3.8 cm

         水戸徳川家に伝えられたもので、耀(曜)変の斑紋が外側にも現れています。

         1918年に藤田財閥の藤田平太郎が入手し、現在は藤田美術館の所蔵です。

      c) 大徳寺龍光院蔵: 高さ 6.6 口径 12.1 高台径 3.8 cm

         堺の豪商津田宗及から、大徳寺塔頭の龍光院に伝わったものです。

     以上が国宝の耀変天目ですが、もう一点、加賀藩前田家伝来の耀変天目と見られる重要

     文化財の茶碗があります。(「耀変」と呼ぶべきか、議論があり、「油滴」と見る専門家も

     います。) 「耀変」は「油滴」が高温で壊れた状態と見る人もいます。

      d) MIHO MUSESUM蔵: 高さ 6.6 口径 12.1 高台径3.9 cm

  ) 国宝、玳皮盞(たいひさん)天目: 高さ 6.2 口径 11.6 高台径 3.5cm

     釉の調子が鼈甲(べっこう)即ち、玳瑁(たいまい)の皮に似ている事からの命名です。

    ・ 中国南宋時代の吉州窯で焼かれた作品で、松江藩七代藩主である松平不昧公伝来の

      大名物です。

    ・ 鼈甲釉は、黒飴釉に藁白釉を斑に振り掛けたものです。黒飴に各種の文様の型紙を貼り

      付け、その上から白釉を掛けて、型抜き文様を作っています。  

 ) 禾目天目: 加賀前田家伝来の禾目天目。高さ 7 口径 12.6 高台径 3.8 cm

     中国では禾目の釉紋を兎毛に見立てて、兎毫盞(とごうさん)と呼んでいます。

      注: 禾目(のぎめ)とは、穀物の穂の先にある毛の様な物です。

    ・ 光沢のある瑠璃色を帯びた黒地に、銀色の禾目が無数に流れ落ちている茶碗です。

    ・ 紺黒の地に柿色の条(すじ)が入ったものや、柿色の地に黒い条が入ったもの等多様です。

    ・ 禾目釉は他の天目釉よりも、特に流れ易い釉で、最下部には分厚く釉が溜まっています。

 3) 木村氏の陶芸

   ① 使用する土。

     木村氏は、信楽をはじめ全国から原土を取り寄せ、ブレンドして使っています。

     天目釉の種類によって、ブレンドの仕方を変えています。釉と土との相性があるそうです。

     これは、試し焼きの実験によって、会得したものです。但し、これに囚われる事無く、新しい

     組み合わせから、新しい天目の世界が拓かれる事も多いそうです。

   ② 天目釉の基本的調合

    ) 長石、石灰石、珪石を主原料にして、光沢を調整する為、タルク(滑石)やカオリンを混ぜ

       ます。長石は平津長石が良いそうですが、品質にバラツキが多く、実際に焼いてみないと

       解からない様です。主原料の割合も一定ではなく、釉の種類によって、微妙に変化させて

       います。  ・ 特に長石が重要で、その質によって、釉の熔け具合が決るそうです。

    ) 天目釉は主原料に、酸化鉄を主体とした金属類を添加した釉です。

        鉄を5%加えると、飴(あめ)釉になり、7%程度から釉中で飽和となり、結晶化すると

        言われています。

    ) 鉄分の他に、チタン、銅、錫(すず)、クロム、マンガン、コバルト等の発色補助材を添加

        すると、結晶時に色々な色に発色します。更に、各種の灰を使う事により、思わぬ色や

        効果が出ると言います。

    ) 原材料や金属類は、特別に調達したものではなく、市販の材料を使っているとの事です。

   ③ 釉を掛ける。

 以下次回に続きます。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

現代の陶芸177(木村盛康1)

2012-08-27 21:55:01 | 現代陶芸と工芸家達

旧安宅コレクション(現東洋陶磁美術館)の国宝、「油滴天目」を見て衝撃を受け、幻の天目釉の

復活や独自の新たな天目釉を開発し、天目釉の第一人者と成った人物が、京都の木村盛康氏です。

 1) 木村盛康(きむら もりやす): 1935年(昭和10) ~

  ① 経歴

    1935年 京都五条坂に京焼の絵付け職人の四男(末っ子)として生まれます。

    1957年 京都市工芸指導所、陶磁器技能者養成専科を卒業し、兄の木村盛和に師事します。

      (15歳年上の長兄、木村盛和氏と三男の盛伸はともに、陶芸家です。)

    1970年 日本伝統工芸展出品の「天目釉壷」が、外務省のお買い上げになります。

    1978年 日本工芸会近畿支部展で、「松樹天目壷」が大阪府教育委員長賞を受賞します。

    1986年 「松樹天目壷」が故宮美術館に永久展示されます。

    1992年 米国ボストン美術館に「禾目碧天目壷」、「松樹天目茶碗」、「窯変禾目碧天目茶碗」

      が永久展示されます。

    1996年 米国ダグラス美術館に「華炎天目茶碗」、「松樹天目花入」、「禾目碧天目器」が

      永久展示になります。

    1997年 米国ヒューストン美術館に「窯変禾目天目壷」、「禾目碧天目茶碗」が永久展示。

    1999年 大英博物館に「華炎天目大鉢」、「松樹天目茶碗」が所蔵になります。

    2000年 ハーバート大学美術館が「耀変天目茶碗」、「禾目碧天目壷」、「禾目天目壷」を所有し

    国内でも、京都迎賓館、関西大学博物館、京都大学、伊勢神宮等に所蔵されています。

    日本各地でもデパートや画廊などで、個展を数多く開催しています。

 2) 「天目」とは、中国福建省の建窯で焼かれた、建盞(けんさん)の事です。

    注 : 盞とは浅めお椀や盃の事です。

   ① 鎌倉時代、禅の僧侶によって、中国の天目山の禅寺から持ち帰った黒褐色の茶碗が、

     日本で「天目茶碗」と呼ばれます。天目茶碗の特徴は、小振りの喫茶用の茶碗で、高台が

     小さく、口縁が「スッポン口」と呼ばれる、独特の形をしています。

   ② 「天目釉」と呼ばれる、変化に富む鉄釉系の褐色釉が掛けられています。

      種類も「油滴(ゆてき)」、「耀変(ようへん)」、「禾目(のぎめ)」、「玳皮盞(たいひさん)」、

      「木の葉」、「灰被り」天目等が、わが国に伝わっています。

    ) 国宝 「油滴天目茶碗」: 高さ 7.5 、口径 12.2 、高台径 4.2 cm

      黒地を背景に、細かい銀白色の斑点(油の滴状)が、無数に浮いている作品です。

      冷却途中で、一定の温度範囲を保持する事により、油滴結晶を大きく成長させます。

      a) 油の斑文は、時には銀白色、時には金色、又は紺色に見える事もあります。

      b) 斑文の正体は、酸化第二鉄の結晶です。焼成中に熔けた釉の成分の一つである

         酸化第二鉄が、冷却して行く過程で、表面で結晶した物です。黒い釉の部分は結晶化

         せず、流動的な性質があります。

      c) 釉に流動性がある為、結晶は口縁部分では小さく、胴の部分では大きく成っています。

         又、高台脇の部分まで、黒釉が流れて厚く溜まっています。その部分にも「油滴」が

         見受けられます。この事は釉が流れる以前に、結晶が進んでいた事を表しています。

         更に、釉が流れ落ちないで止まる様に、素地の削り角度を工夫しているとの事です。

         尚、素地は建窯特有の、真っ黒い土です。

      d) 油滴天目は、南宋時代に中国各地で焼かれていた様ですが、建窯で大規模に生産

         されていた様です。

    ) 国宝「耀変天目」:黒地に青や銀白色の大小の斑点が浮かび上がった作品で、

       世界に3(又は4)点のみ、存在が確認されています。(その3点は、日本にあります)。

 以下次回に続きます。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

現代陶芸176(大上昇3、大上裕)

2012-08-26 21:35:37 | 現代陶芸と工芸家達
3) 大上昇氏の陶芸
 
  ⑤ 白化粧(丹波白釉)を施す。
 
    赤土部釉と伴に、丹波焼きを代表する技法に、白化粧土を使った装飾があります。
 
    作品には、皿、鉢、茶碗、徳利、壷などがあり、「白丹波」と呼ばれています。
 
  ) 生掛けで、鉢や茶碗などに白化粧土を施す場合は、内側にドロドロした化粧土を掛け、一日
 
     置いてから外側に、柄杓掛けします。こうする事により、作品が壊れる事を防ぎます。
 
     掛け残しも景色の一部に成りますから、あえて補修しません。
 
     白化粧土を掛けた作品は、素焼き後、透明の土灰釉を掛けて本焼きします。
 
   ) 海老徳利。 江戸末期には、丹波焼の半数が徳利であったと言われています。
 
     多くの丹波杜氏が、灘の酒造に従事していた事が大きく関係している様です。
 
     形は、「巾着形徳利」をはじめ「蝋燭徳利」、「傘徳利」、「瓢箪徳利」、「ヘン徳利」(注ぎ口が
 
     細い)など種類も豊富で、装飾技法も、色絵、摺り込み紋、イッチン描き、流し釉、黒釉など
 
     多彩です。
 
    a) 海老(えび)の柄は、江戸時代より描き続けられた文様です。
 
      海老文様の胴体と目玉は、鉄絵の具を使い、足や触覚は白化粧で表現されています。
 
    b) イッチン描き(筒描)が特長の一つです。 生乾きの素地に、直接描きます。
 
      筆にたぷうり白化粧土を載せ、海老の胴体を徳利の胴に描きます。
 
      頭、胴(やや濃度を濃くする)、尾の順で描き、イッチン技法で、触覚と足を描きます。
 
      海老が飛び跳ねている様に、足を描いています。
 
      絵柄は大きく、徳利の天地いっぱいに描かれています。
 
    c) 素焼き後に、透明釉を塗るか、赤土部釉を掛けてから焼成します。
 
 4) 大上昇氏の作品。
 
   ① 赤土部釉壷: 丹波の「丹」は赤を意味し、赤土部釉の赤でもあります。
 
     肩から胴に掛けて薪の灰を被り、熔けて胡麻模様や、灰が流れ落ちています。
 
    ・ 全体に丸い形で、口縁がやや小振りで、器肌は凹凸も無く女性的雰囲気のある作品です。
 
      高 34 X 口径 13 X 胴径 33.5 cm。 高 28.5 X 口径 5.8 X 胴径 23 cm。
 
      高 23 X 口径 11.8 X 胴径 28 cm。などの作品があります。
 
   ② 赤土部釉海老徳利: 高さ 23 cm。
 
   ③ 白丹波花入(狐口細首花入): 高さ20.5  底径 10 cm。
 
   ④ 抹茶々碗: 
 
    赤土部茶碗: 高 6.8 X 口径 13 X 高台径 5.8 cm。
 
    丹波白茶碗: 鉄分の多い赤土に白化粧土を掛けたものです。
 
     高 8.5 X 口径 14.5 X 高台径 6 cm。
 
     高 9 X 口径 12.3 X 高台径 5.8 cm。等の作品が有ります。
       
 5) 大上 裕(おおがみ ゆたか): 1954(昭和29)年~ 大阪豊中に大上昇氏の子として生まれ
 
    ます。現在昇氏の跡をついで、「昇陽窯」を主宰しています。
 
      1978年 同志社大学経済学部を卒業します。
 
   1985年 父昇氏の指導の下で陶芸をはじめます。
 
   1988年 京都市立工業試験場窯業科を卒業します。兵庫県工芸美術展に初入選を果たします。
 
   以後、兵庫県展 、茶の湯造形展(田部美術館)、兵庫県工芸美術展などに出品し、数々の賞を
 
   受賞しています。一方、美苑(伊勢市)、まるこ(岡崎市)、大丸心斎橋店、大丸芦屋店、
 
   桝久(山形市)にて、昇・裕親子展(2002年)などの個展を開催しています。
 
以下(木村盛康氏)に続きます。  
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

現代陶芸175(大上昇2)

2012-08-25 21:53:49 | 現代陶芸と工芸家達
3) 大上昇氏の陶芸
 
  ① 丹波焼きの土
 
   大上氏の工房のある篠山市の隣の、三田市の土(丹波土=四ツ辻土)を使っているとの事です
 
   鉄分を比較的多く含む赤土ですが、小石の少ない土です。
 
   江戸時代には肌理が細かく、粘りのある轆轤挽きし易い土を使っていましたが、現在では使い
 
   切ってしまった様です。元来丹波には良い土が少なく、周囲から土を運び込んでいたとの事です。
 
  ② 壷などの作り方も、丹波独特の方法を取っています。
 
    その方法は、「底打ち」してから、太い紐を積み上げる方法を取っています。
 
    大物は下部(一番床)に上部の土紐を繋げて形造ります。 先ず、轆轤上に据えた土の中央を
 
    「手のひら」や「拳」で叩いて締め平らにします。これは、底割れを防ぐ為です。次に太い紐を
 
    周囲に載せ、繋ぎ目を指で消しながら、繋ぎ合わせて行きます。更に同じ様な太さの紐を上に
 
    載せて、上下の紐を密着させてから、轆轤挽きにします。
 
   a) 丹波では、大小にかかわらず作品の制作は、最近まで一個作りが基本で、数挽きの方法は
 
      ほとんど見受けられませんでした。現在では小物は数挽きの方法を取っています。
 
  ③ 轆轤挽きの方法。
 
   ) 大上氏の轆轤は左回転で行っています。以前は蹴り轆轤を使い左回転でしたが、現在は
 
     「膝」を痛めた為、電動轆轤を使っているそうです。
 
     (その為、経験上から左回転になっています。)
 
   ) 荒延ばしは、「ハサザ」と呼ばれる細長い布を使います。(水切れ防止にも成ります)
 
     ある程度の薄さに挽き上げたら、木製のこて(タテガイ、ヨコガイ)を使って形を造ります。
 
   ) 一晩乾燥後、一番床の口縁をやや濡らしてから、更に紐を4段重ね、轆轤挽き成形します。
 
      壷の口縁は玉縁で、厚めに残した最上部を布で包み込む様にして球状にします。
 
   ) 製作に三日掛かります。
 
     a) 三日目には、上下の繋ぎ目に段差が発生していますので、この段差を撫ぜて消します。
 
      隙間が有る場合は土を詰め込みます。
 
    b) 「こて」(シリガイ)を使って、内側より張り出して形を整えます。
 
      一般に壷などは、削り作業は行わないとの事です。
 
   ) 桃山~江戸初期に掛けて茶道具類も製作されていますが、底(高台)を削る作業は行って
 
      いなかった為、水指や茶入、花生などが多く、茶碗類は少なかった様です。
 
      大名で茶人でもある、小堀遠州(1579~1647)は各地の窯元に茶道具を作らせて
 
      います。遠州丹波もその一つで、茶碗も底削りが施されています。
 
      大上氏もこの流れを汲み、優しい茶碗を作っています。
 
  ④ 赤土部釉を掛ける。
 
   ) 赤土部釉とは、黄土に灰を混ぜた一種の化粧土で、丹波焼きの特徴の一つです。
 
      釉と同様に水漏れ防止と、装飾を兼ねたもので、朱赤や紫掛かった赤色になります。
 
      温度が高過ぎる場合には、暗い紫色に、低く過ぎると赤く発色しないとの事です。
 
      この色を出すのに苦労するそうです。中々思い通りの色には成らない様です。
 
    ) 赤土部釉を内外に、一度で生掛けします。
 
     水気の引いた、やや乾燥した作品の内側に釉を流し込み、外に捨てた後、素早く口縁を
 
     浸し掛けし、更に口を下に向けて、外側に釉を流し掛けします。
 
     短時間に処理しないと作品が壊れますので、一番緊張する場面です。
 
  ⑤ 白化粧(丹波白釉)を施す。
 
以下次回に続きます。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

現代陶芸174(大上昇1)

2012-08-24 22:19:16 | 現代陶芸と工芸家達
日本六古窯の一つ、兵庫県立杭の丹波焼を代表する作家に大上昇氏がいます。
 
丹波焼の発祥は、鎌倉時代と言われ、鎌倉から桃山時代にかけては、窖窯を使い紐造による壷、
 
甕(かめ)鉢等に、自然釉(灰が熔けたもの)が掛かった作品を作っていました。

 江戸時代より「鉄砲窯」や「蛇窯」が使われ、轆轤成形と変化し、釉も使用され生活雑貨品を大量に
 
 作る様になります。
 
  注: 鉄砲窯とは、横幅約2m、高さ約80cm、 長さ60m程で、煙突は無く、最奥の部屋に蜂の巣
 
     状の穴が開き、煙を逃がしています。
 
 現存する窯は、「日本では、立杭以外には無く、古い様式の窯」で、山麓の斜面を利用して
 
 築かれています。先年、無形文化財に指定され、丹波焼も伝統工芸品の指定を受けています。
 
1) 大上昇(おおがみ のぼる): 1929年(昭和4)~ 平成 ?年(没年不明)
 
  ① 経歴
 
   1929年 兵庫県丹波上立杭にある大熊製陶所に生まれます。
 
   1951年 関西学院大学を卒業し、生家で陶業に入ります。
 
   1966年  日展に初入選を果たし、作品は外務省のお買い上げになります。
 
   1968年 自宅の庭に登窯を築き、「昇陽窯」(しょうようがま)と名付けます。
 
   1970年 日本伝統工芸展に入選します。
 
   1972年 大阪、松坂屋で、個展を開催し、「灰釉手桶水指」が高松宮お買上となります。
 
   1973年 日本陶芸展に入選し、南米巡回展出品となります。
 
   1983年 日本伝統工芸士に認定されます。
 
2) 丹波焼きに付いて。
 
  ① 丹波焼きの復興
 
    明治に入り丹波焼きも、ご他聞に漏れず窯場も衰退して行きます。
 
    当時の窯は共同窯(連中窯と言う)で、5~6軒の窯元が共同で使う長さ40~50mの薪窯
 
    でした。しかし一軒一軒と廃業する窯元が出てきます。
 
    1952年に柳宋悦、濱田庄司、河合寛次郎、バーナードリーチなどの民藝家が丹波を訪れ、
 
    指導を受けてから復興の兆しが芽生え、民藝陶器が主流になり、丹波焼も発展して行きます。
 
  ② 共同窯から個人窯へ
 
    丹波焼きが盛況になるに従い、何かと不便な共同窯より、個人が窯を所有する様になります。
 
    大上氏も「鉄砲窯」の上部を切り煙突を立て、二部屋の「登窯」に改良します。
 
    尚、現在の昇陽窯の工房(兵庫県篠山市今田町)には、登窯が3、窖窯が1、ガス窯2窯を 
 
    使って作品を作っています。
 
3) 大上昇氏の陶芸
 
以下次回に続きます。
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

現代陶芸173(辻村史朗2)

2012-08-23 20:35:52 | 現代陶芸と工芸家達

  ③ 辻村史朗氏の作品。

    辻村氏が使う土は、日本各地の粘土を取り寄せ、目的に応じて使い分けたり、土を混ぜたり

    (ブレンド)して使用しています。

    「どこそこの粘土でなければ駄目だ、地元の粘土でなければ駄目だという人もいるが、私は、

    作りたいものに合わせて粘土を選ぶ」と語っています。

   ) 辻村氏の作品の特徴は、一見して荒々しい表情をしています。

     一部釉が施された作品もありますが、大部分の作品は、自然釉の掛かった、焼締陶器で、

     緋色、ビードロ、ビードロの流れ、焦げ、他の土との引っ付き、更には破裂や割れのある作品

     もあり、堂々とした作品に成っています。肌からは粗い長石の粒子が吹き出ていたり、

     「ぶく」が発生している所もあります。

   ) 自然釉大壷は高さが40~50 cmもある大物です。

    a) 壷の表面に大きな丸い傷跡がみえます。これはこの傷跡を下にして、即ち作品を横倒しに

     して焼いた跡です。(流れた自然釉がこの円に向かっている事から推察されます。)

     又、土の塊や他の作品を肩に乗せたり、側面に貼り付けたと思われる作品もあります。

   b) 大壷は紐作で成形している様です。

     壷の中央部又は肩の部分に、土を繋げたと思われる跡(段差)が見受けられます。

     口は外側に捻り出され、首の部分は比較的短く、底の径も小さくなっています。

     全体に丸っこい形の壷に成っています。  たぶん「ベタ高台」だと思われます。

  ) 花器について。 高さ30~50 cmの背の高い作品が多いです。

    a) 土の塊の中央をえぐり穴を開ける方法で、花器にしたと思われます。

      無釉の焼き締めによる作品で、ビードロや焦げのある、表面が凸凹で大きな亀裂が入った

      作品が多いです。 この亀裂は高温焼成により、偶然発生したものと思われます。

      表面や側面に、釘彫りと見られる人物(羅漢様?)が描かれていますが、大きな亀裂の為

      絵柄がはっきりしません。

   b) 花器の中には、砂を固めて焼成した様に見えるものもあります。

     即ち、器肌が細かい砂の粒子状に成っています。形も縦長で、縦や横方向に大きな亀裂が

     見受けられます。自然釉による青緑の色(還元焼成?)と、緋色や褐色の肌(酸化?)に

     成っています。

   c) 轆轤挽きで成形した作品もあります。高さ29cm程度の作品です。

     伊賀耳付花入は、底が広く安定感があり、上部は筒形で高温により、又は故意に変形して

     います。

  ) 水指の作品。高さ16~24 cmの作品で、共蓋(土制の蓋)に成っています。

     伊賀耳付水指、伊賀矢筈口水指、伊賀三角水指など、伊賀の土を使った水指が多いです。

     緋色、ビードロ、焦げと自然釉の掛かった水指で、大きな歪みや、切れや破裂したものも

     見受けられます。

  ) 抹茶々碗について。井戸茶碗、粉引茶碗、信楽筒茶碗、引出黒茶碗、灰釉茶碗、灰釉

      割高台茶碗、伊賀茶碗、長石割高台茶碗、信楽沓茶碗、志野茶碗、唐津茶碗など、

      あらゆる種類の茶碗を作っています。 辻村氏は今までに茶碗を1万個以上焼いたそうです。

  ) 皿や鉢について。制作個数は比較的少ない様に思われます。

      皿は四方皿(縦横26cm)、伊賀手鉢(径24cm)、粉引鉦鉢(どらばち、径27.5cm)等が

      あります。

  ) 北条羅漢を描いた陶板。(72.7 X 53 cm)

     周囲を茶色又は白色にし、中央の羅漢様を描く部分は黒くして、その中に羅漢を一体又は

     数体を釘彫りで描いています。釘彫りされた部分は、下地の白が浮き上がっています。

    注: 北条羅漢とは、兵庫県加西市北条町北条1293、北榮山羅漢寺にある五百羅漢

     (実数は約450体)の事で、制作者、制作年代不明ですが、慶長年間(1596~1614)では

     ないかと言われています。市指定文化財、兵庫県観光百選指定。

    その他、同じ技法で、羅漢様ではなく、女性を描いた作品もあります。(53 X 33.3cm)

 次回(大上昇氏)に続きます。   

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

現代陶芸172(辻村史朗1)

2012-08-22 21:36:21 | 現代陶芸と工芸家達

奈良の山中で40年余り、師も持たず、賞や栄誉にも囚われず、土と格闘し40年で200トンの土を

焼いている陶芸家に、辻村史朗氏がいます。

1) 辻村 史朗(つじむら しろう): 1947年(昭和 22)~

 ① 経歴

  1947年 奈良県御所市に、牧畜を家業とする家の4男として生まれるます。

  1965年 東京駒場の日本民藝館で、偶然大井戸茶碗に遭遇し、大きな感銘をうけます。

   この事が、今後陶芸に進む切っ掛けになります。 

    1966年 19~21歳の三年間、奈良の禅寺三松寺(曹洞宗)に住み込み、修行を行っています。

   1968年 実家に帰り家業を手伝いながら、独立する為の資金作りに励みます。

  1969年 リヤカーの車輪を利用した轆轤を自作し轆轤による作陶を始めます。同年結婚します。

  1970年 奈良県奈良市水間の山中に土地を求め、民家の古材や廃材を使って自らバラックの様な

    家を建て同時に、自宅近傍に薪窯を築きます。  井戸も自力で掘ったそうです。

    小さな窖窯で焼いた、ぐい呑みや茶碗などを、京都の有名観光地の道端で売って、生計を

    立てていたそうです。

  1977年 30歳の時、今までの修行の成果を披露する為、奈良水間の自宅で、初めての個展 を

   開催し、大成功を納めます。奈良の山奥に面白い陶芸家がいると言う事で、山奥にもかかわらず

   多くの人が見に来たそうです。

  1978年 前年の個展の反響に気を強く持ち、大阪三越にて個展を開催し、古美術商の近藤金吾氏

    の眼に止まります。 翌年にも同じ場所で、個展を開催します。

    その後も、東京日本橋三越、松坂屋本店(名古屋)、丸栄(名古屋)、有楽町阪急(東京)、

    阪急梅田本店(大阪)、その他、たち吉本店(京都)、岩田屋(福岡)各地の画廊で個展を、

    多数開催ています。

  1981年 兵庫県加西市にある北条羅漢を見て感銘を受けます。以後羅漢が主要なテーマの一つ

    となり、絵付けや釘彫りで、作品の表面に施す様になります。

  1982年 京都の近藤金吾氏の店に作品を持参した際、荒川豊蔵氏(人間国宝)を紹介され、

   作品を絶賛されます。

  1993年 海外でも人気を博し、ドイツ・フランクフルト・ジャパンアートにて個展を開催。

    英国・ウエスト・デュポンにて築窯、作陶を行っています。

  1994年 ロンドン・ギャラリー・ベッソンにて個展を開催 。

  1999年 裏千家茶道資料館にて「辻村史朗 壷と茶碗展」を開催します。

  米国のメトロポリタンやボストン、ブルックリンなど、名だたる美術館に作品が所蔵されています。

 ② 辻村 史朗氏の陶芸

  ) 師を持たず、まったくの独学との事です。更にいかなる美術団体にも所属していない様です。

  ) 彼の展示会で見られる作品は、ほとんどが信楽や、伊賀焼きの焼き締めの作品が多い

     です。しかし、抹茶々碗等には、唐津、志野、引出黒茶碗などもあります。

     修行時代には、日本の各地の焼き物以外に、中国や朝鮮の陶器や磁器までも制作して

     います。この多彩な経験が後々大きな収穫として。現れる様になります。

  ) 一回の個展で約150点の作品を出品するそうですが、その為には、数トンの土を使って

     制作、焼成するとの事で、自宅周辺には多くの作品が、放置されています。

     又、「自然に放置した作品は、熟成され更によくなる」と述べています。

     熟成されていく事を、「きれいさび」と呼んでいます。

     屋外に放置する事により、雨風に打たれ長い間には、釉も風化されて古色を帯びてきます。

     更に、貫入(小さな釉のヒビ)に土やコケが入り込み、汚れた様な雰囲気が醸し出されます。

     これらの現象は、見る人によっては、好ましい作品に熟成された物となります。

  ) 窯は7窯(薪、灯油、ガス、電気)所有し、作品に応じて使い分けています。

     壷ならば、1250~1350℃で焼成し、土の塊の様な花入では1400℃を超える高温で焼いて

     います。

  ) 弟子は採らない主義で、陶芸家に成った二人の息子さん(辻村唯、辻村塊氏)も、師匠らしい

     事は何もしなかったとの事です。  但し、例外として元総理大臣の細川護煕氏がいます。

    a) 美術雑誌で辻村氏の作品を見て、辻村氏の作品に惚れ込み、弟子入りを要請しますが

       断れ続けた末、直接奈良の辻村氏宅まで出掛け、口説き落として、弟子入りに成功し、

       辻村氏の横で轆轤の修行に入ります。

    b) 月に1~2回、1回数日間から数週間、別棟に寝泊りして陶芸の修行を行います。

    c) 一年半に及ぶ修行の末、「もうその辺でいいだろう」の言葉でを貰い、師から独立します。

  ③ 辻村史朗氏の作品。

以下次回に続きます。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする