この「シリーズ」の最後として、明治以降の、陶磁器の歴史について、述べます。
1) 九谷焼
・ 優れた陶人の輩出や、良質の磁土の発見と共に、小松、加賀、金沢、寺井などで、九谷焼は、
目覚ましく、発展を遂げ、明治に入って、海外への輸出で、さらに進展し、わが国製陶産業の
一翼を担う事と成ります。
・ 再興九谷の諸窯は、江戸末期時点で、ほとんどが民営で、新時代に対応した作品造りに、
努力していた為、明治維新の悪影響は、ほとんど受けず、明治に入って、より活気を、
呈するようになります。
① 名工として、金沢では、内海吉造、阿部碧海(へきかい)、石野竜山、安達陶仙があり、
能美郡では、九谷庄三、松本佐平、松原新介、初代徳田八十吉(やそきち)など、
江沼では、竹内吟秋(ぎんしゅう)、浅井一豪(いちごう)兄弟、初代須田菁華(せいか)、
初代中村秋塘(しゅうとう)らの名工が、よく知られています。
富本憲吉や、北大路魯山人も、作陶に加わった時期がありました。
② 明治政府は、国力増強のため、殖産興業、輸出振興策を打ち出し、それに呼応するように
九谷焼は、国内外で開催される、博覧会へ出品して宣伝します、輸出にも力を入れた為、
輸出陶磁器の、第一を誇るようになります。
③ 作風は、八郎手または庄三風の、彩色金襴手と、細字の密画で、好奇心をそそるものが多く。
これが欧米人の趣向と、一致しました。
) その作風は、青(緑)、黄、赤、紫、紺青の五彩を使い、大胆な構図、のびのびとした、
自由な線書き、豪快で味わい深く、赤色で綿密に人物を描き、その周りを、小紋などで、
埋め尽くし、所々に金彩を加えた、赤絵細密描画です。
) 明治時代に入ってからは、大量の九谷焼が、海外へ輸出されました。
2) 明治以降の京焼(清水焼)
明治以降は、近代的生産手法を導入し、日本の重要な、輸出品となっていきます。
伝統に甘んぜず、積極的に海外からの技術も導入し、新しい京焼の魅力が、生まれ始めます。
しかも、京焼は、創造性や、芸術性を失わず、多品種・少量生産を特色とする、高品質の
陶磁器の伝統も、守り続けています。
3) 洋食器の「ノリタケ」(大倉陶園)の設立
1904年には、輸出貿易を志していた、森村市左衛門が「ノリタケ」を設立し、後の1919年には
日本が世界に誇る、洋食器メーカーである大倉陶園が設立されました。
ここに、日本の近代陶業と、日本の洋食器の、歴史が始まりました。
明治37年(1904)、「ノリタケカンパニー」の前身となる、「日本陶器合名会社」を創立し、
愛知県、鷹場村、大字則武(現 名古屋市西区則武新町)の地に、近代的な設備を備えた
大工場を建設し、洋食器の生産を始め、米国へ輸出された、日本製の洋食器は、大変に売れ、
やがて、「ノリタケチャイナ」の名で、世界中に知られる、「ブランド」へと、成長していったのです。
今回で、「陶磁器の歴史」の話を、終わらせて頂ます。
次回より、別のテーマで、話を続けたいと、思います。
1) 九谷焼
・ 優れた陶人の輩出や、良質の磁土の発見と共に、小松、加賀、金沢、寺井などで、九谷焼は、
目覚ましく、発展を遂げ、明治に入って、海外への輸出で、さらに進展し、わが国製陶産業の
一翼を担う事と成ります。
・ 再興九谷の諸窯は、江戸末期時点で、ほとんどが民営で、新時代に対応した作品造りに、
努力していた為、明治維新の悪影響は、ほとんど受けず、明治に入って、より活気を、
呈するようになります。
① 名工として、金沢では、内海吉造、阿部碧海(へきかい)、石野竜山、安達陶仙があり、
能美郡では、九谷庄三、松本佐平、松原新介、初代徳田八十吉(やそきち)など、
江沼では、竹内吟秋(ぎんしゅう)、浅井一豪(いちごう)兄弟、初代須田菁華(せいか)、
初代中村秋塘(しゅうとう)らの名工が、よく知られています。
富本憲吉や、北大路魯山人も、作陶に加わった時期がありました。
② 明治政府は、国力増強のため、殖産興業、輸出振興策を打ち出し、それに呼応するように
九谷焼は、国内外で開催される、博覧会へ出品して宣伝します、輸出にも力を入れた為、
輸出陶磁器の、第一を誇るようになります。
③ 作風は、八郎手または庄三風の、彩色金襴手と、細字の密画で、好奇心をそそるものが多く。
これが欧米人の趣向と、一致しました。
) その作風は、青(緑)、黄、赤、紫、紺青の五彩を使い、大胆な構図、のびのびとした、
自由な線書き、豪快で味わい深く、赤色で綿密に人物を描き、その周りを、小紋などで、
埋め尽くし、所々に金彩を加えた、赤絵細密描画です。
) 明治時代に入ってからは、大量の九谷焼が、海外へ輸出されました。
2) 明治以降の京焼(清水焼)
明治以降は、近代的生産手法を導入し、日本の重要な、輸出品となっていきます。
伝統に甘んぜず、積極的に海外からの技術も導入し、新しい京焼の魅力が、生まれ始めます。
しかも、京焼は、創造性や、芸術性を失わず、多品種・少量生産を特色とする、高品質の
陶磁器の伝統も、守り続けています。
3) 洋食器の「ノリタケ」(大倉陶園)の設立
1904年には、輸出貿易を志していた、森村市左衛門が「ノリタケ」を設立し、後の1919年には
日本が世界に誇る、洋食器メーカーである大倉陶園が設立されました。
ここに、日本の近代陶業と、日本の洋食器の、歴史が始まりました。
明治37年(1904)、「ノリタケカンパニー」の前身となる、「日本陶器合名会社」を創立し、
愛知県、鷹場村、大字則武(現 名古屋市西区則武新町)の地に、近代的な設備を備えた
大工場を建設し、洋食器の生産を始め、米国へ輸出された、日本製の洋食器は、大変に売れ、
やがて、「ノリタケチャイナ」の名で、世界中に知られる、「ブランド」へと、成長していったのです。
今回で、「陶磁器の歴史」の話を、終わらせて頂ます。
次回より、別のテーマで、話を続けたいと、思います。