7) 日本の赤絵。
江戸前期~江戸中期(1672~1772年頃)の約100年間に肥前磁器の生産は黄金期を向かえます。
内外の需要に答える為、有田内山、外山、大外山(杵島、藤津地方)等の広範囲で磁器が製造
されています。
④ 西洋への輸出品。
オランダの東インド会社の磁器貿易が一段と活発化し、品種も多様化して行きます。
中国風な意匠の文様と、和様化された意匠文様、更に、ヨーロッパへの輸出として洋風化製品
(コーヒーカップ等)が作り出され、各々量産体制が採られます。
) 鎖国中の輸出。
江戸幕府は寛永16年(1639年)に鎖国令を出し、寛永18年にオランダ人に限り長崎出島に滞留
させる条件で、貿易に従事する事を許可します。
) 東インド会社の磁器の交易は、承応2年(1653年)頃から軌道に乗り、1660年前後から良質の
磁器が大量に輸出される様になります。この流れは、1775年までの間続けられます。
a) オランダが磁器の交易を手掛かけた理由は、1658~1682年の25年間、中国の磁器が輸入
出来なく成った為で、その代替品とし伊万里(有田)の磁器が選ばれらたとの事です。
b) オランダは国策として、南アフリカのケープタンを経由して、東インド諸島や東支那海、
日本への海路を開き、交易を活発化する政策を採っています。
c) 長崎出島は上記海路に近く、東インド会社の需要を満たす事が出来る体制が整えられた、
肥前磁器は打って付の品物と成っていました。
) オランダ貿易の国内の影響。
予想を超えるオランダ貿易の成功は、次第に我が国の国内需要を増す事になります。
当時の有田近辺や城下町、街道筋の武家、商家、町衆の間にも、磁器を使う様に成ったと言わ
います。
) 万治2年(1659年)東インド会社より、56,700個の大量の磁器の買い注文を受けます。
この注文を、わずか3ヶ月で無事納める事が出来ました。
磁器の内訳は以下の如くです。
a) コーヒーカップ(高台の無い物) 35,000個
b) コーヒーカップ(高台の有る物) 15,000個
c) 碗又は鉢 6,000個
d) 瓶(6リットル入) 100個
e) 大皿(大、中、小) 600枚
尚、各品物には、細部に渡り注文があり、見本も有ったとの事です。
例えば、コーヒーカップの文様には「内外ともに青い花文があるもの」「青い花文がある
もの」「白磁の底裏に日本字が六つ書かれたもの」「外側は瑠璃釉で内側は白釉のもの」の
四種類あり、各々文様が図面で指示されていた様です。
大皿は、「青い文様」とありますので、芙蓉手と呼ばれる染付けです。
その後、1635年からは、「赤と緑で描いた文様のある」大皿、大鉢、中皿、碗の注文が続き
ます。1637年には有田から堺の商人に売り渡すした磁器は、39,282個で、内訳は染付磁器が
3,500個で残り全てが「赤と緑の文様のある」磁器との事です。これは「呉須赤絵」ではないか
と思われています。尚、この製品がどの様に流れて行ったは不明です。
) オランダ商館の帳簿によると、一人の商人が十万個の「呉須赤絵」の色絵磁器を買い取る
事も珍しい事ではなかった様です。オランダのみでなく、当時出島に来ていた中国人や
ポルトガル商人も、同様な取引が行われていたと思われています。
) オランダ東インド会社との磁器製品の取引に関する記録は、1757年以降見受けられなく
なります。オランダは三度に渡る英蘭戦争等で、国力は次第に衰退し、イギリス東インド会社
に植民地帝国の座を譲り渡し、英国が海上覇権を確立する事になります。
1795年にはフランス革命軍により本国(オランダ)が占領され、この混乱の中で1799年、
オランダ東インド会社は解散します。
8) 古伊万里様式と柿右衛門様式。
以下次回に続きます。
江戸前期~江戸中期(1672~1772年頃)の約100年間に肥前磁器の生産は黄金期を向かえます。
内外の需要に答える為、有田内山、外山、大外山(杵島、藤津地方)等の広範囲で磁器が製造
されています。
④ 西洋への輸出品。
オランダの東インド会社の磁器貿易が一段と活発化し、品種も多様化して行きます。
中国風な意匠の文様と、和様化された意匠文様、更に、ヨーロッパへの輸出として洋風化製品
(コーヒーカップ等)が作り出され、各々量産体制が採られます。
) 鎖国中の輸出。
江戸幕府は寛永16年(1639年)に鎖国令を出し、寛永18年にオランダ人に限り長崎出島に滞留
させる条件で、貿易に従事する事を許可します。
) 東インド会社の磁器の交易は、承応2年(1653年)頃から軌道に乗り、1660年前後から良質の
磁器が大量に輸出される様になります。この流れは、1775年までの間続けられます。
a) オランダが磁器の交易を手掛かけた理由は、1658~1682年の25年間、中国の磁器が輸入
出来なく成った為で、その代替品とし伊万里(有田)の磁器が選ばれらたとの事です。
b) オランダは国策として、南アフリカのケープタンを経由して、東インド諸島や東支那海、
日本への海路を開き、交易を活発化する政策を採っています。
c) 長崎出島は上記海路に近く、東インド会社の需要を満たす事が出来る体制が整えられた、
肥前磁器は打って付の品物と成っていました。
) オランダ貿易の国内の影響。
予想を超えるオランダ貿易の成功は、次第に我が国の国内需要を増す事になります。
当時の有田近辺や城下町、街道筋の武家、商家、町衆の間にも、磁器を使う様に成ったと言わ
います。
) 万治2年(1659年)東インド会社より、56,700個の大量の磁器の買い注文を受けます。
この注文を、わずか3ヶ月で無事納める事が出来ました。
磁器の内訳は以下の如くです。
a) コーヒーカップ(高台の無い物) 35,000個
b) コーヒーカップ(高台の有る物) 15,000個
c) 碗又は鉢 6,000個
d) 瓶(6リットル入) 100個
e) 大皿(大、中、小) 600枚
尚、各品物には、細部に渡り注文があり、見本も有ったとの事です。
例えば、コーヒーカップの文様には「内外ともに青い花文があるもの」「青い花文がある
もの」「白磁の底裏に日本字が六つ書かれたもの」「外側は瑠璃釉で内側は白釉のもの」の
四種類あり、各々文様が図面で指示されていた様です。
大皿は、「青い文様」とありますので、芙蓉手と呼ばれる染付けです。
その後、1635年からは、「赤と緑で描いた文様のある」大皿、大鉢、中皿、碗の注文が続き
ます。1637年には有田から堺の商人に売り渡すした磁器は、39,282個で、内訳は染付磁器が
3,500個で残り全てが「赤と緑の文様のある」磁器との事です。これは「呉須赤絵」ではないか
と思われています。尚、この製品がどの様に流れて行ったは不明です。
) オランダ商館の帳簿によると、一人の商人が十万個の「呉須赤絵」の色絵磁器を買い取る
事も珍しい事ではなかった様です。オランダのみでなく、当時出島に来ていた中国人や
ポルトガル商人も、同様な取引が行われていたと思われています。
) オランダ東インド会社との磁器製品の取引に関する記録は、1757年以降見受けられなく
なります。オランダは三度に渡る英蘭戦争等で、国力は次第に衰退し、イギリス東インド会社
に植民地帝国の座を譲り渡し、英国が海上覇権を確立する事になります。
1795年にはフランス革命軍により本国(オランダ)が占領され、この混乱の中で1799年、
オランダ東インド会社は解散します。
8) 古伊万里様式と柿右衛門様式。
以下次回に続きます。