茶の湯と女性
明治以降の茶道の大きな変化は、一般庶への普及、特に女性の間に広がり、現在では茶道人口の
大部分が女性がで占められている事です。
その原因として以下の事が挙げられます。
1) 武士階級の没落
廃藩置県によって、藩が消滅し、武士も町民と同じ身分(四民平等)となってしまいました。
主に大名や武士、豪商達の男性に独占されていた「茶の湯」は、それを支える階級の没落で、
一時衰退して行きます。
即ち、茶道は特権階級(大名、武士など)が担うべき技芸ではなくなったのです。
2) 茶道の大衆化
① 女性人口の増加
裏千家十三世圓能斎宋室が、女学校教育に茶道を取り入れた事で、女性の割合が増えたと
言われています。
) 1875年(明治8年)に、跡見学校が創設され、女子教育が行われる様に成ります。
) 1886年には、共立女子職業学校が開校し、茶道が取り入れられています。
) 1891年に、後の女子学習院となる華族女学校が開校し、茶道が取り入れられています。
福沢諭吉は「新女大学」の中で、女子の教育に於ける茶の湯の重要性を説き、家計の許す
限り稽古させるべきと力説しています。茶道は女子教育の実践教科として、生き残っていきます 。
) 更に、昭和になってから女子教育が盛んになる共に、茶道の普及は急激に進みます。
但し、世界大戦後には、米国による財閥の解体や農地解放が行われ、特権階級は消滅して
行きます。
) 特に昭和30年代以降は、 国民所得の増大によって余暇が生まれ、中流家庭の人間にも茶道を
学ぶ機会が与えられます。カルチャーセンター、 茶道教室といった手段を通じて、一般の人々も
茶道を学べる環境になります。
・ 女性が多く参加する様になると、担い手が次第に女性中心に成ります。
② 昭和北野大茶会(1936年:昭和11年)と利休350年忌(1940年:昭和15年)
) 秀吉の「北野大茶会」に倣って、京都北野天満宮で「昭和北野台茶会」が催されます。
五日間の茶会では、北野天満宮や、大徳寺、高台寺など、30箇所の茶席に、延べ一万人が
参加したと言われています。
) 京都の臨済宗大徳寺に於いて、利休350年忌の法要と茶会が行われます。
この模様は、ラジオを通じて中継放送されます。この時の参加者は一日目が700人余り、
二日以降は、5000人を超えたと言われています。又講演会も行われ、聴衆者には、茶人達の
他、学生や会社員風の人が大勢居たそうです。
(尚、利休400年忌は、1990年に行われています。)
3) 家元制度の変遷
家元制度は、江戸時代より以前から存在していました。
① 江戸時代では、大名達の庇護の下で茶道の教授組織を形成し、各藩の政治組織の一部として
取り込まれ、家元自身に大きな発言力は認められていませんでした。
② 明治に入り、大名達の庇護が無くなります。
茶道の権威は地に落ち、家元の生活は窮乏します。彼らは各地を行脚し、旧藩主などに庇護を
求めたり、数寄者たちの援助を受けて、教授組織を復活させます。
これ以降 茶道の発展、普及、革新は財閥などの数寄者によって担われてい行く事になります。
③ 戦後に成ると、財閥が解体され、後ろ盾を失い、家元自ら独り立ちする事に成ります。
戦後の復興と茶道の普及を指導したのが裏千家(十四世家元淡々斎千宗室)を中心とする
家元達です。 家元達は茶道界を復興させ、他者の庇護ではなく、自らの努力によって権威を
確立させて行きます。
以上にて 「お茶の話」を終わります。尚、話が横道に逸れ、陶芸とは余り関係ない記事も多くなって
しまいました。話も思ってた以上に、長くなってしまいましたが、お許し下さい。
次回からは、別のテーマでお話します。
明治以降の茶道の大きな変化は、一般庶への普及、特に女性の間に広がり、現在では茶道人口の
大部分が女性がで占められている事です。
その原因として以下の事が挙げられます。
1) 武士階級の没落
廃藩置県によって、藩が消滅し、武士も町民と同じ身分(四民平等)となってしまいました。
主に大名や武士、豪商達の男性に独占されていた「茶の湯」は、それを支える階級の没落で、
一時衰退して行きます。
即ち、茶道は特権階級(大名、武士など)が担うべき技芸ではなくなったのです。
2) 茶道の大衆化
① 女性人口の増加
裏千家十三世圓能斎宋室が、女学校教育に茶道を取り入れた事で、女性の割合が増えたと
言われています。
) 1875年(明治8年)に、跡見学校が創設され、女子教育が行われる様に成ります。
) 1886年には、共立女子職業学校が開校し、茶道が取り入れられています。
) 1891年に、後の女子学習院となる華族女学校が開校し、茶道が取り入れられています。
福沢諭吉は「新女大学」の中で、女子の教育に於ける茶の湯の重要性を説き、家計の許す
限り稽古させるべきと力説しています。茶道は女子教育の実践教科として、生き残っていきます 。
) 更に、昭和になってから女子教育が盛んになる共に、茶道の普及は急激に進みます。
但し、世界大戦後には、米国による財閥の解体や農地解放が行われ、特権階級は消滅して
行きます。
) 特に昭和30年代以降は、 国民所得の増大によって余暇が生まれ、中流家庭の人間にも茶道を
学ぶ機会が与えられます。カルチャーセンター、 茶道教室といった手段を通じて、一般の人々も
茶道を学べる環境になります。
・ 女性が多く参加する様になると、担い手が次第に女性中心に成ります。
② 昭和北野大茶会(1936年:昭和11年)と利休350年忌(1940年:昭和15年)
) 秀吉の「北野大茶会」に倣って、京都北野天満宮で「昭和北野台茶会」が催されます。
五日間の茶会では、北野天満宮や、大徳寺、高台寺など、30箇所の茶席に、延べ一万人が
参加したと言われています。
) 京都の臨済宗大徳寺に於いて、利休350年忌の法要と茶会が行われます。
この模様は、ラジオを通じて中継放送されます。この時の参加者は一日目が700人余り、
二日以降は、5000人を超えたと言われています。又講演会も行われ、聴衆者には、茶人達の
他、学生や会社員風の人が大勢居たそうです。
(尚、利休400年忌は、1990年に行われています。)
3) 家元制度の変遷
家元制度は、江戸時代より以前から存在していました。
① 江戸時代では、大名達の庇護の下で茶道の教授組織を形成し、各藩の政治組織の一部として
取り込まれ、家元自身に大きな発言力は認められていませんでした。
② 明治に入り、大名達の庇護が無くなります。
茶道の権威は地に落ち、家元の生活は窮乏します。彼らは各地を行脚し、旧藩主などに庇護を
求めたり、数寄者たちの援助を受けて、教授組織を復活させます。
これ以降 茶道の発展、普及、革新は財閥などの数寄者によって担われてい行く事になります。
③ 戦後に成ると、財閥が解体され、後ろ盾を失い、家元自ら独り立ちする事に成ります。
戦後の復興と茶道の普及を指導したのが裏千家(十四世家元淡々斎千宗室)を中心とする
家元達です。 家元達は茶道界を復興させ、他者の庇護ではなく、自らの努力によって権威を
確立させて行きます。
以上にて 「お茶の話」を終わります。尚、話が横道に逸れ、陶芸とは余り関係ない記事も多くなって
しまいました。話も思ってた以上に、長くなってしまいましたが、お許し下さい。
次回からは、別のテーマでお話します。