わ! かった陶芸 (明窓窯)

 作陶や技術的方法、疑問、質問など陶芸全般 
 特に電動轆轤技法、各種装飾方法、釉薬などについてお話します。

お茶の話23(小堀遠州)

2011-11-30 21:14:15 | お茶と「茶の湯」と茶道具(茶陶)
古田織部亡き後、織部に茶の湯を学んだ、小堀遠州が第一人者として活躍します。

遠州守小堀正一(小堀遠州)の父は浅井長政に仕える武将で、後に秀長(秀吉の弟)、秀吉、家康に

従いました。父の跡を継いで家康に使え、作事奉行として、駿府城、名古屋城天守、伏見城本丸書院、

大阪城本丸、二条城、水口城などの造営に力を発揮します。茶人 、建築家、造園家でもあり、大徳寺

孤篷庵、南禅寺金地院、江戸城西の丸庭園などは、代表的な庭園です。

備中松山藩二代藩主、後に近江小室藩(一万二千石)の初代藩主と成ります。

 ① 遠州(1579~1647年)の茶の湯

  茶の湯は、古田織部に習い、利休とも一度会っている様です。

  織部に続いで、茶道の本流を受け継ぎ、徳川将軍家の茶道指南役となります。

  生涯に四百回余りの茶会を開き、大名、公家、旗本、町人などあらゆる階層の人々で、延べ人数は

  二千人に及ぶそうです。(遠州茶会記集成)

  織部の歪んだ(ヘウケモノ)美はすっかり姿を消し、新しい安定した時代にふさわしい

  優美で均衡のとれた、「きれいさび」と言われる茶の湯を創造します。

  ・ 「綺麗(きれい)さび」とは、さびた中にも、華やぎのある風情を指します。

  王朝文化の理念と茶道を結びつけ、独自の美意識で「書院茶の湯」など茶の湯の和風化を、

  完成させ、遠州流茶道の開祖となります。

 ② 「中興名物」の選定

  小堀遠州の鑑識によって選ばれた茶道具は、一般に「中興名物」と称しています。

  形の整った優美で品格の高い物を好み、茶入その他の銘に、優雅な古歌を歌銘として選びました。

  和歌や藤原定家の書を学び、王朝文化の美意識を茶の湯に取り入れ、彼の選定した茶道具は

  和歌や歌枕の地名、伊勢物語や源氏物語といった古典から取った銘 が多いです。

 ③ 遠州七窯:(遠州七窯という名称が江戸後期ごろ道具商により言われ始めます。)

  志戸呂焼(しどろ)、近江膳所焼(ぜぜ)、豊前上野焼(あがの)、筑前高取焼、山城朝日焼

  摂津古曾部焼(こそべ) 、大和赤膚焼(あかはだ)の七窯を、遠州好み七窯と呼びました。

  (他説には遠州七窯に、古曾部焼のかわりに伊賀焼を含める人もいます。)

  その他、高取、丹波、信楽、伊賀など、国焼の茶陶の指導にも当たっています。

  茶陶の指導に当たり、自らの意匠による茶道具の注文を行なっています。

  それは遠州切形と呼ばれ、型、色、陶土質まで細やかな指導がされていました。

  遠州好みを代表するものとして、面取、瓢箪、耳付、前押、七宝文、菱、箆どり等が挙げられ、

  茶入、茶碗はもとより、茶道具全般の多岐に渡り作らせています。

  ・ 利休が「黒」を好んだのに対し、遠州は「白」を好んで使用します。特に「鳥の子手」と

    呼ばれる、細かい貫入のある白磁の茶碗や食籠(じきろう)を、茶会で使います。

  また、祥瑞(しょんずい)や染付け磁器類を、中国に注文しています。

 ④ 遠州の茶室

  利休は二畳、三畳という小間(こま)の茶室を最上としましたが、遠州は十畳以上の茶室を

  作っています。遠州の菩提寺大徳寺孤篷庵(こほうあん)に作った茶室、「忘筌 ぼうせん)」は、

  書院風の茶室で、侘びた様子ではなく、面取りされた柱や、長押(なげし)などがあり、出入り口も、

  「躙口(にじりぐち) 」ではなく、縁側に明るい障子を用いています。

  大名の社交や 文化の場として書院あるいは「鎖の間」の明るい気分を加えました。

  注: 「鎖の間」とは、書院風の飾りを茶室に取り入れた座敷で、茶の湯を行う座敷と繋がった

    座敷の一種です。

 こうした織部と遠州という大名茶の系譜は、後に片桐石州に受け継がれ、武家方の茶道として

 江戸時代を通じて継承されています。

 小堀遠州の美意識は華道の世界にも反映され、ひとつの流儀として確立され、江戸時代の後期に

 特に栄えます。 その流儀は、正風流・日本橋流・浅草流の三大流派によって確立されました。

以下次回に続きます。
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お茶の話22(織部焼)

2011-11-28 21:39:50 | お茶と「茶の湯」と茶道具(茶陶)
織部焼: 極端に変形され、緑釉などが掛けられた、斬新なデザインの茶陶で、自由奔放な趣ある

焼き物が、織部焼です。「織部」の名前の付く器が、最初に記録に出るのは、1642年頃の茶会記から

です。これは、織部切腹後半世紀以上経ってからの事です。

 ① 「ヘウケモノ」の茶碗。 (ひょうきんもの、おどけるの意味)

   「織部焼」は慶長年間(1595~1615年)に出現した、斬新なデザインの茶道具(茶陶)です。

    茶碗、茶入、香合、向付等の他、蜀台や煙管(きせる)まで、多肢に渡っています。

 ② これらの焼き物は、岐阜県土岐市の元屋敷窯の、連房式の登窯で大量に焼かれたものと、

   言われています。この期間は20~30年で終了しますが、短期間に多くのデザインが着けられ、

   京都、大阪、江戸などの消費地に運ばれます。

   古田織部が直接指示して、作らせたと言う事実は明白ではありませんが、織部が世に出た頃と

   時期が一致している為、織部の関与が考えられています。

 ③ 織部焼きには以下の種類があります。

  ) 織部黒: 全体に鉄釉を掛け、瀬戸黒同様の「引き出し黒」の焼成によります。

     多くは、轆轤成型ですが、口縁を歪ませ左右非対称で、沓茶碗になっています。

  ) 黒織部: 一部分窓抜きにし、その部分に鉄釉で文様を描き、更に透明釉(白釉)を掛けた

      物です。絵文様は身近な自然風景や、幾何学文様が一般的です。

   ) 総織部: 器全体に、銅緑釉が掛けられた物で、変形ものは少なく単純な皿や鉢類が多い。

   ) 青織部:  一部に織部釉を掛け、残りの部分に鉄釉(鬼板など)で絵を描き、更に白釉

      (透明系の釉)を掛けた物。織部釉は銅を加えた釉で、酸化焼成します。還元では辰砂に

      成り、赤や赤紫に成ってしまいます。青織部の青はブルーでなく、グリーンの意味です。

      絵模様は、抽象や具象的て、非対称に描かれている物が多いです。
   
      型抜き成型がほとんどで、様々な形状が見られ、環足、半環足と呼ばれる足が付くのも

      特徴です。 主に鉢、向付などの食器が多いです。

  ) 鳴海(なるみ)織部: 釉薬、文様は青織部と同じ技法ですが、素地に収縮率の近い

      白土と赤土を張り合わせて成型します。

  ) 赤鳴海織部: 赤土を素地に使い、鉄絵文様や白化粧土で装飾されていす。
 
      主に平向付、平向付型の茶碗、皿、鉢などに多くみられます。

  ) 志野織部 :  大窯で焼かれた志野(古志野)に対して、登り窯で焼かれた志野を

      志野織部と呼びます。薄作りで焼成時間も短縮され、釉下の鉄絵が鮮明に浮び、繊細な

      線で表現する様になります。ロクロ成型から、型抜き成型が主になって行きます。
 
  ) 唐津織部:  織部の窯で焼かれた唐津風の焼き物です。唐津よりも柔らかい雰囲気です。

      主に、向付などの食器が多く焼かれました。

以上の様に、多種類の織部焼があり、現在でも作られ、人気のある焼物ですが、「織部」と言うと、

青織部と、総織部がほとんどです。

以下次回に続きます。    
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お茶の話21(古田織部)

2011-11-27 22:06:26 | お茶と「茶の湯」と茶道具(茶陶)
吉田織部(1544~1615年): 美濃の茶人、織部流茶道の開祖

 信長の美濃平定により、信長に従い本能寺の変後は秀吉に仕え、山城西岡に三万五千石を与えられ、

 更に、秀吉没後には徳川家に茶人として仕える事に成ります。

 ① 利休との出会い

   1582年頃、利休と知り合い、利休が没する直前までの10年間を、門下生(弟子)として、

   密接な関係を保ち、茶の湯を学びます。この10年間は利休が「新しい茶の湯」作り上げた

   時期でもあります。

 ② 茶の湯の名人(多門院日記)

   織部の名前が世に高まるのは、利休没後で1599年には、「茶の湯の名人」と称される様に成ります。

   又、駿府で徳川家康に、点茶する事により、「千利休宗易が貫首弟子」で「点茶の技、当時其の

   右に出る者なし」と、「徳川実記」に記されています。

   1610年には、二代将軍秀忠に茶法を伝授しています。

 ③ 織部のお茶

  ) 将軍や諸大名などの武家を対象とした、茶の湯と考えられます。

    江戸初期の頃は、茶の湯が大名達の必須の教養とみなされ、武家儀礼の一つとされていました。  

  ) 「数奇屋御成」の様式を作り出します。

    従来、御成門(正門)から、茶室に招き入れていましたが、新たに「数奇屋(茶室)門」を設け、

    飛び石伝いに、庭を通り直接茶室に入り、茶が供された後「給仕口」から出て、「鎖の間」で、

    饗応(飲み食い)が行われ、終了後は「数奇屋門」から帰る様式にします。この様式の利点は、

   a) 大勢のお供(家来)等を必要とせず、「お忍び」の形が取れる事です。

     それ故、度々訪問する事が出来た点です。

   b) 迎える亭主も、負担の軽減が計られます。

  ) 利休好みとの決別

   a) 織部は利休と趣の異なる茶室を作ります。利休が究極の「侘び」を追求したのに対し、

    より明るい茶を追求して行きます。即ち、利休の茶室「待庵(たいあん)」が窓を少なくし、

    光の入るのを制限したのに対し、織部の茶室の「八窓庵」では、窓を多く取り、光を多く

    取り入れ、明るい茶室にしています。

   b) 更に、茶室に相伴席(しょうばんせき)を設け、身分や秩序を重んじる、配慮もしています。

   c) 利休の懐石では、質素な一汁三菜が基本でしたが、織部は品数を増やし、更に見た目も

     華やかな食や、食器(向付など)を使用しています。

 ④ 織部の切腹

   1615年4月、織部の重臣木村宗喜が、京都で捕らえられます。罪状は家康、秀忠の暗殺を

   企てた事とされています。この企てに加わっていたとして、織部に切腹の命が下されます。

   織部は何ら申し開きをせず、京の木幡の屋敷で、切腹して果てます。享年73歳でした。

   実際に織部が暗殺を企てたかどうかは、不明ですが、家臣の引き起こした事件の責任を取ら

   されたのかも知れません。

 尚、次回は「織部焼」についてお話する予定です。
   
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お茶の話20(千利休七哲と織田有楽)

2011-11-26 22:16:20 | お茶と「茶の湯」と茶道具(茶陶)
豊臣秀吉が没した後、関が原の戦い(1600年)に勝利した徳川家康は、征夷大将軍として江戸幕府を

開きます。(1603年)

次いで大坂冬の陣、夏の陣を経て、1615年豊臣氏は滅亡してしまいます。

利休は、秀吉の茶頭であると伴に、全国の大名達にも「茶の湯」の師匠として、君臨していました。

利休の死後、それらの弟子達によって「利休の茶の湯」は引き継がれて行きます。

所謂(いわゆる)「利休七哲」「七人衆」「台子七人衆」などと呼ばれた人々です。

メンバーに若干の相違がありますが、以下の人々を指します。

1) 利休七哲: 蒲生氏郷(がもううじさと)、高山右近、細川忠興(三斎)、古田織部、牧村兵部、

   柴(芝)山監物(けんもつ)、瀬田掃部(かもん)といわれていますが、瀬田に代わり、

   前田利長(としなが)を挙げる事もあります。

  ① 蒲生氏郷: 信長、秀吉に使え小田原征伐後は、会津若松城主に成ります。

     京を追放された、利休の娘婿の千少庵をかくまい、千家復興に尽力します。

  ② 高山右近: キリシタン大名で、信長、秀吉に仕えますが、秀吉の禁教令に反し、国外追放になり

    マニラで没します。

  ③ 細川忠興: 利休の最も忠実な弟子で、後継者とも言われる人です。

    関が原の戦い後は、豊前小倉藩40万石の城主で、和歌や能などに秀でていました。

    古田織部と伴に、利休が堺に送られる時、禁を犯して淀川の港で見送ります。

  ④ 古田織部: 信長、秀吉、家康に仕えた武将で、駿府城で家康に献茶し、江戸城内では、

    二代秀忠に茶の湯を伝授しています。 織部に付いては後日、詳細をお話します。

  ⑤ 牧村兵部: キリシタン大名、信長、秀吉に仕え岩手城主に成ります。

    「ゆがんだ茶碗」を最初に使用した人と言われています。

  ⑥ 柴(芝)山監物: 始め石山本願寺に属し、後に信長、秀吉に仕えます。 

  ⑦ 瀬田掃部: 秀吉に仕え、近江に領地がありました。

  尚、時代を経るに従い、織田有楽(うらく)、千道安(どうあん)、荒木村重、佐久間不干斎、
 
  有馬玄蕃などの名前が、挙がってきます。

2) 織田有楽(おだうらく): 織田 長益(おだながます)、有樂齋如庵と号す。

  織田信長には、12人の兄弟がいたとされます(有楽は11男)。しかしながら天寿を全うした人物は

  少なく、信長を始め、非業な最後を遂げた方が多かったです。

  その中でも信長の実弟、有楽(1547~1621年)は、戦国乱世の中を生き抜きます。それは、戦より

  茶の湯などの文芸を好んだ事と、何よりも危険な場所から逃げた事とされています。
 
  例えば本能寺の変、信長の嫡男の信忠と本能寺に駆け付けますが、すでに遅くやむなく二条城に

  向かいますが、明智光秀の軍に破れます。その際忠信は自刃しますが、有楽は逃げのびます。

  ① 有楽の茶の湯

   有楽は最初無楽と称しますが、秀吉より無楽では侘しいので、有楽を名乗る様に命じられたと

    言われています。

   ) 武野招鷗(たけのじょうおう)の流れを汲む茶の湯

     利休の弟子では有りますが、利休の侘び茶よりも、招鷗の茶に心引かれた様です。

     招鷗のお茶は、おおらかさが有り、伸びやかな明るさの有る茶で、有楽が愛した有楽茶碗は、

     利休の黒一色の楽茶碗より、厳しさがありません。

   ) 「御成(おなり)」と有楽

     「御成」とは、足利将軍家の公式行事で、幕府の寝殿で行われますが、当時は茶の湯は、

      公式行事に入っていませんでした。その後、秀吉も「前田邸御成」や「三好邸御成」を

      行っていますが、本格的には徳川二代将軍秀忠の頃に、盛んに行われる様に成り、

      茶の湯が正式に執り行われる様に成ります。

      目的は、主従関係の確認でしたが、後には儀礼的行事に成った様です。

     ・ 有楽は、「御成」と言う武家の礼式に、茶の湯を組み込み、定型化して行きます。

     ・ 1618年に客殿・庫裡・書院とともに、国宝の茶室「如庵(じょあん)」を建てています。

       「如庵」はその後、移転を繰り返し現在は、愛知県犬山市の有楽苑に移築されています。
     
     ・ 有楽の茶話は、抹茶は「有楽流」、煎茶は「織田流」として現代に伝えられています。

     ・ 蛇足ですが、東京の有楽町(ゆうらくちょう)の地名は、織田有楽に由来しているとの

      事です。

 以下次回に続きます。
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お茶の話19(利休後の千家)

2011-11-25 22:03:31 | お茶と「茶の湯」と茶道具(茶陶)
1) 千家一族の追放

 利休が切腹させられた事により、千家の家屋敷、財産など全てが没収されてしまいます。

 利休一家は離散の憂き目に会います。

 ① 利休には二人の後継者がいました。一人は長男道安(どうあん)です。追放処分を受けた道安は、

  飛騨高山の高森長近(ながちか)を頼り、身を隠しますが、跡継ぎの無いまま病没してしまいます。

 ② もう一人後継者は、利休の後妻(宗恩)の連れ子で、利休の娘のお亀の婿になる小庵です。

  小庵(1546~1614年)は利休とは血の繋がりはありませんでしたが、息子の道安同様に遇せられて

  いました。小庵は京を追われた後、「利休七哲」の一人蒲生氏郷(会津藩主)の下に身を寄せます。

  小庵の子宗旦(1578~1658年)は、大徳寺で僧侶として、修行していましたので追放を免れます。

2) 秀吉の千家赦免と千家の復興

 ① 利休切腹の三年後の1595年頃に、秀吉は突然千家を赦免します。宗旦17才の時です。

  「茶話指月集」(久須美疎安著)によると、秀吉より、長持ち三竿分の茶道具が小庵と宗旦に

   返されたと記されています。小庵は、京に戻り千家として「茶の湯」の活動を再開します。

  ・ 千家の復権に尽力したのは、利休の教えを受けた、徳川家康や蒲生氏郷などの

    実力のある大名達でした。

 ② 小庵は京都本法寺門前に住み、茶の湯を指導しますが、やがて、利休の血を引く、子の宗旦に

   跡を継がせます。宗旦は大徳寺の僧であったが還俗します。

   父小庵の元、「茶の湯」を学び、23才の若さで、千家の家督を相続します。

3) 宗旦の「茶の湯」

 ① 家督を相続した宗旦の元には、多くの大名から「茶の湯」の師匠として、声がかかりますが、

  そうした招きに対し、ことごとく断ります。政治的に深入りし過ぎた、祖父利休の悲劇があった為と

  思われます。但し、当時は大名に仕えないと、経済的にも貧窮しますが、秘蔵の掛け軸などを売り

  費用に当てています。清貧の中で、利休の茶を追い求めます。

  ・ 宗旦は又公家や僧侶達とも交流を深めて行きます。即ち、近衛家の人々や、金閣寺の住職

    (鳳林承章)、柳生宗矩(むねのり)、片桐石州、本阿弥光悦など多彩な交流を繰り広げます。

 ② 唐物からの脱却

   茶の湯は唐物(輸入品)中心の茶道具類を使用する事から、始まります。即ち、茶碗、茶入、

   花生け、軸(掛け軸)などを崇拝、鑑賞する事から始まりますが、次第に和物を尊ぶ用に成ります、

   利休の時代では、和漢折衷の感がありましたが、宗旦は完全に和物中心の茶道具に成ります。

   その背景には、鎖国政策により、唐物が入らなくなった結果、和物を使わざるを得なかった事も

   関係していると思われます。

  ・ 宗旦は特に飛来一閑(ひきいっかん)に、棗(なつめ)、香合、食籠(じきろう)などを

    作らせ、一閑張(いっかんばり)を最上の物と考えました。

   注: 飛来一閑(1578~1657年)京都の江戸前期の漆工。「明」から日本に帰化。

     一閑張: 器胎に糊で紙を貼り重ね、漆を塗て棗や香合などの茶道具を作る方法。

     一閑張は和紙の風合の残る膚に、柔らかな姿など雅味が豊かで、千家十職の一つとり成ります。

 ③ 宗旦の茶室

  宗旦の作ったと言われる代表的な茶室は、裏千家一畳台目の「今日庵(こんにちあん)」と四畳半の

  「又隠(ゆういん)」が著名です。

4) 表千家、裏千家、武者小路千家

  宗旦は自らの信念に基づき、生涯仕官はしませんでした。

  しかし、子供や弟子に対しては、積極的に仕官の手助けをした様です。

  宗旦の家督を相続した三男宗左(そうさ)は、紆余曲折を受けた後、紀州徳川家の茶頭になり、

  表千家の開祖に成ります。 四男宗室は、加賀蕃前田家の茶頭になり、裏千家の開祖に成ります。

  次男宗守は、讃岐高松の松平家に仕える様になり、武者小路千家を起こします。

  (長男宗拙、次男宗守は、大徳寺修行中の15~16歳頃に、名も定かではない女性との間に誕生します)

 以下次回に続きます。

  参考文献:「茶の湯事件簿」火坂雅志著 淡交社
  
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お茶の話18(秀吉と千利休3)

2011-11-24 21:41:13 | お茶と「茶の湯」と茶道具(茶陶)
3) 千利休(宗易)の茶の湯

 ④ 利休の茶の湯は、1582年頃から、次第に従来の茶の湯から変化して行きます。

  ) 茶室の草庵化に伴い、茶道具にも変化が現れます。

  a) 楽茶碗の使用: 陶工長次郎(?~1589年)に命じて楽茶碗を作らせ、茶の湯に初めて使用

    しました。室町時代には、青磁や天目茶碗を使うのが慣わしで、侘び茶の流行に伴い

    高麗茶碗が使われ、更に、利休の頃には、楽茶碗が使われる様に成ります。

    1587年秀吉は、京の内野の地に「聚楽第」を築城します。天守閣を持ち二重の堀を巡らせた

    城郭が完成し、その周囲には諸大名の屋敷が立ち並び、利休の屋敷もその北西にありました。

    長次郎の茶碗の「聚楽焼」(楽焼)もこの「聚楽第」にちなんで付けられました。    

  b) 「竹の花入」の使用: 当時は茶会には、唐物の「焼き物の花入」が一般に使われていました。

    又、竹中節(たけなかぶし)茶杓や竹蓋置など、竹製の茶道具が、茶会に登場する様に

    成ります。竹茶杓と竹蓋置の使用は、利休が最初ではありませんが、利休の使用後は、

    一般化していきます。

  c)  利休の禅の師、大徳寺の古渓宗陳の墨蹟(ぼくせき)を茶会に使用します。

    「茶禅一味(さぜんいちみ)」: 禅から起こった茶道は、求める処は禅と同一であるの意味。

     これらの控えめな趣は、利休の美意識の表れであると同時に、今までの茶道具を鑑賞する茶会

     よりも、出席する人物を重視する「一座建立」を強く主張するものと、成っています。

   ・ 一座建立(いちざこんりゅう): 主客に一体感を生ずるほどに、充実した茶会となる事。

     茶会の目的の一つとされ、「一期一会(いちごいちえ)」も同じ意味があります。

   ・ 一期は一生、一会はただ 一度の出会いです。 茶席で、たとえ何度同じ人々が会するとしても、

     今日の茶会はただ 一度限りの茶会であり、 亭主も客も伴に思いやりを持って、取り組む

     べきと教えています。

 ⑤ 利休の切腹

  秀吉の怒りを買った利休は、切腹を仰せ付けられます。

  怒りの原因には色々説がある様ですが、定説はありません。

  1591年、利休は突然秀吉の逆鱗に触れ、堺に蟄居(ちっきょ)を命じられます。

  前田利家 や利休七哲のうち古田織部、細川忠興ら大名である弟子たちが奔走したが、助命は適わず、

  京都に呼び戻された利休は、聚楽屋敷内で切腹を命じられます。享年70才でした。

  秀吉と利休との蜜月は、1585年の「北野大茶の湯」の頃がピークで有ったと思われます。

4) 秀吉の死: 1598年に京都伏見城で没します。

   五大老筆頭の徳川家康や、秀頼の護り役の前田利家に後の事を託して、胃がんの為没しす。

   享年62歳で、秀吉の死を契機に、慶長の役(二度目の朝鮮出兵)は終了します。

 以下次回に続きます。
      
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お茶の話17(秀吉と千利休2)

2011-11-23 22:27:57 | お茶と「茶の湯」と茶道具(茶陶)
秀吉に仕えた茶人は、主に堺の商人達でした。中でも「天下の三宗匠」と呼ばれた、千利休(宗易)、

今井宗久、津田宗及が挙げられます。これら三人は、信長から秀吉の時代にかけて活躍しています。

1) 今井宗久

   武野紹鷗に師事し、茶の湯を学び、後に女婿に成ります。紹鷗没後に、家財と秘蔵の茶道具を

   譲り受けます。 茶人であると伴に、「薬屋宗久」と呼ばれ、鉄砲の火薬を扱う商人でもありました。

   信長が上洛した際には、「紹鷗茄子」や「松島茶壺」を献上し、信長が堺を接収した際には、

   三好家が握っていた、権益(塩座、魚塩座んど)を与えられ、堺五ヶ所の代官を任ぜられ、

   鋳物師を集めて鉄砲の製造も始め、更に、信長の命により生野銀山(但馬=兵庫県)を経営します。

  ・ 信長時代には、茶人や政商として、重要な任についていましたが、秀吉の頃には、やや冷遇された

    様で、「北野社の大茶の湯」では、利休、宗及に次いで三番目と成っています。

2) 津田宗及

  堺の新興商人の天王寺宗達の子として生まれます。家業は廻船や、海外貿易を行っていました。

  ・ 祖父宗柏、父宗達と受け継がれてきた、村田珠光の茶の湯の代表的人物です。

  ・ 信長、秀吉の時代には茶頭、政商として活躍します。特に秀吉の九州征伐の彩には、九州豊後に

    商取引が有った為、博多商人との仲介役として、重用されます。

3) 千利休(宗易)の茶の湯

 ① 堺に生まれた、若き日の利休(1522~1591年)は、茶を北向道陳(どうちん)や、武野紹鷗などに

   学び、更に禅を大林宗套(だいりんそうとう)に学び、頭角を現します。

 ② 信長に仕える茶頭に成ったのは、1575年頃、津田宗及との関係からと見られています。

   信長没後、そのまま秀吉の茶頭を務めます。 

 ③ 大徳寺大茶の湯(1585年)、禁中献茶(11585年)、北野大茶の湯(158年)などの大茶会では、

   茶頭(さどう)として、指導的役目を果たしています。

   茶頭とは、将軍家や大名に仕えた茶の師匠の事で、茶道(さどう)とも称されます。

   茶の事を司る茶人の頭( かしら)の意味との事です。又、亭主に代わって茶を点てる事もあります。

 ④ 利休の茶の湯は、1582年頃から、次第に従来の茶の湯から変化して行きます。

  ) 二畳の茶室を作る

    従来、四畳半(村田珠光の創案)又は三畳であった茶室を、思い切って二畳敷の茶室を造ります。

    (尚、利休は一畳半の茶室を作ったとも言われています。)

   ・ 利点として、狭い空間の中で主客が一層親しみを深めたり、名物の道具類を間近で鑑賞する

     ことができると言う事の様です。

   ・ これは現在「待庵(たいあん)」と呼ばれる、茶室の原型と見られます。

    注: 待庵は柿葺(こけらぶき)切妻造の屋根で、二畳敷の茶室です。     
  
  ) この狭い空間に、「室床」と「躙口(にじりぐち)」を造ります。

    注: 「室床」とは、床の間の一種で、杉材の床柱に三方の壁は土塀で作り、天井は竹材を使い

      立体的な構成となっています。

     「躙口」とは茶室特有の小さな出入り口で、客が部屋に入る時に、にじりながら入る様に、

     したもので、狭い茶室に入るのに、身をかがめて入らなければならず、入った時部屋を

     大きく見せ、床へ眼が向くという効果があるとの事です。

     一説には、茶室に大刀を持ち込めない様にした為とも言われています。

     尚、躙口は客の為のもので、身分の高い人の為には貴人口があります。

   飛び石伝いに、躙口から茶室に入る様式は、後の草庵茶室のモデルとなっています。

 以下次回に続きます。

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お茶の話16(秀吉と千利休1)

2011-11-22 22:07:12 | お茶と「茶の湯」と茶道具(茶陶)
3) 黄金の「桃山文化」と茶の湯

 ④ 御所での献茶(禁中茶会)

   1585年10月に、秀吉は正親町(おおぎまち)天皇の御所で、天皇や親王を招いて茶会を開きます。

   名目は関白任官の返礼とされています。天皇を初め皇太子や親王など六人を招いています。

   この席には、利休居士の号を与えられた、宗易が座敷の隅で、公卿や門跡らに茶を点て勧めて

   います。天皇、親王以外ににも多くの殿上人が参席した様です。

   尚、天皇が公式の「茶の湯」に、参加したのは初めての事と言われています。

   翌年にも、秀吉が作らせた組み立て式の「黄金の茶室」を御所に持ち込み、天皇達と茶の湯が

   行われます。

  ・ 武将や僧侶、堺の商人達の茶の湯が、公家達に広がる切っ掛けとなります。

 ⑤ 北野の大茶会(1587年10月1日)

   京都、北野社で大茶の湯が催されます。大徳寺の茶会を上回る規模で、基本的には、大徳寺の

   茶会の様式(やり方)を踏襲しています。 拝殿中央に前出の「黄金の茶室」(組み立て式)を

   運び込みます。その左右には、「平三畳の茶室」が作られ、数々の名物茶道具が飾れていました。

   更に、その南側には、四つの茶室が設けられ、秀吉、利休、津田宗及、今井宗久が、秀吉所持の

   茶道具類(五十種以上)で、茶を点てています。二畳敷の茶室が、800程建ち並び、北野の森を

   覆い尽くしたと「北野大茶会記」は伝えています。

  ・ 北野社は、学問や芸能の神でもある、菅原道真を祭る神社で、民衆も自由参拝できる所で、

   ここを茶会の地とした事も、貴賎の上下無く、誰でも参加できる様にした為と思われます。

  ・ 大徳寺の茶会を大きく上回る規模で、7月には、この茶会の参加を呼びかける高札が、京都、奈良、

    堺などに、掲げられたとの事です。

  ・ この茶会では、利休が大きな役割を果たした様です。利休自身も、堺衆に参加を呼びかける

    手紙を送っています。

  ・ これら大きな茶会の意図するものは、「名物茶道具」を並べこれを誇示する事もありますが、

    「茶の湯」を新しい文化の一環と捕らえ、その保護者として、又広く一般民衆に普及させる

    事により、天下人として、秀吉の権威付けを狙っていたのかも知れません。

 ⑥ 肥前名護屋城の茶会

   朝鮮への侵攻の前線基地である、肥前(佐賀県)名護屋城で、秀吉は諸国の大名と伴に、能や

   茶会を開催しています。15892年、例の「黄金の茶室」が名護屋城に持ち込まれ、茶会に42人の

   客が招かれました。茶道具も風炉、釜、水指、柄杓立、建水、蓋置、井戸茶碗、棗(なつめ)

   茶杓、瓢(ふきべ)の炭斗(すみとり)まで、全て金製品であったと言われています。

   秀吉だけでなく、名護屋城に陣を構えた諸大名や、堺の商人達も、各々茶会を開いています。

   前田利家、徳川家康、織田有楽(うらく、信長の弟)、浅野長政、高山右近、堺の商人の津田宗凡、

   住吉屋宗無などの面々で、各々自前の茶道具を使い、茶会を開いています。

 ・ 名護屋城は、本丸、二の丸、山里丸を備えた、本格的な城郭で、15992年の「文禄の役」では16万の

   軍勢を、ここから朝鮮に出兵させています。

   名護屋城の発掘調査で、能舞台、茶室、飛石などの他、染付、瀬戸天目茶碗、高麗茶碗などが

   見つかっています。ある時期、桃山文化の中心が、名護屋に集まった感があります。   

 以下次回に続きます。
  
 
 参考文献: 「日本史から見た茶道」谷端昭夫著 (淡交社)
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お茶の話15(秀吉と茶の湯)

2011-11-21 22:36:26 | お茶と「茶の湯」と茶道具(茶陶)
1) 本能寺の変(1582年6月2日未明)

 毛利攻めの為、信長は京の本能寺に入ります。6月1日彼の収集した50点余りの名物茶器を披露する

 茶会が開催されています。公家衆や僧侶、堺の商人など総勢40人程度が参集したそうです。

 その為、信長は多くの名物茶道具を、本能寺に持ち込みます。総数は38種と「仙茶集」に記載されて

 います。但し、ここに持ち込まれたのは、信長所持の名物の一部と言われています。

 6月2日未明、明智光秀(1528~1582年)の軍が、本能寺を急襲し、信長は自刃します。

 本能寺に持ち込まれた名物茶道具は、灰燼に帰します。例えば、「九十九(つくも)茄子」茶入、

 千鳥香炉、釣花入などが有った様です。

2) 秀吉の天下統一

 毛利攻めに出兵していた、秀吉は毛利と和睦し急遽京に戻ります。山崎の合戦で、明智光秀を撃った後、

 越前の柴田勝家を滅ぼす等、各地の敵対する武将を、屈服滅亡させ、更に1585年に関白に、

 翌年には太政大臣に就任します。天皇の権威を利用し、自分に刃向かう者を「逆賊」と見なし、

 関東の北条氏などを屈服させ、全国統一を果たします。

3) 黄金の「桃山文化」と茶の湯

  秀吉は、佐渡金山、石見銀山、生野銀山(兵庫)などの鉱山を直轄地にし、伏見、大阪、堺、長崎など

  主要な要所を支配し、更に、全国的に「太閤検地」を行います。その結果、膨大な金銀が秀吉の下に

  集まります。この財力により、「桃山文化」が華開きます。

 ① 秀吉に関する茶の湯の記述は、1576年に安土城に移った信長が、築城を命じられた丹羽長秀に、

   功として「珠光茶碗」を与え、秀吉には、宋の牧谿(もっけい)の「洞庭秋月(月の絵)」の

   大軸が下賜されます、翌年には、但馬、播磨攻略の功績により、信長より「乙御前の釜」を

   拝領しています。(信長公記)以上の事から、この頃には、「茶の湯」に勤しんでいた可能性が

   あります。1581年末に、安土城で信長より、「茶の湯道具十二種の御名物」を拝領します。

 ② 大坂城での茶会

   1583年大坂に、新しい城(大阪城)を築き、ここで秀吉は、「道具そろえ」と茶会を開きます。

   集まった客は、松井友閑(ゆうかん)、荒木村重、千宗易、万代屋(もずや)宗安、津田宗及の

   五人でした。各々茶道具を持ち寄り、展覧と茶会を行います。

   持ち寄った数は四十点で、秀吉は「四十石」「松花(しょうか)」「捨子」など茶壷五点、その他

   「初花肩付」「松本茄子」「打曇大海(うちぐもりたいかい)」「月の絵」「蕪無し花入」など

    十六点であったそうです。尚、秀吉は、茶道具類を収集するに当たり、信長の様に強制購入の

    手段(召し上げる)を採らなかった様です。

 ③ 大徳寺大茶の湯

   1585年秀吉は、信長の菩提寺として、新たに大徳寺内に「総見院」を建立し、法要と同時に茶会が

   開かれます。参加者は、秀吉の家来の他、僧侶、京、大坂、堺の茶人約150人で、一番目の席入は、

   大徳寺の僧侶達、二番目は由緒ある家柄の武将、三番目に堺の商人達、四番目以降は自由に席入

   出来たようです。最終的には400人を超えた可能性があります。

   尚、ここでは、宗易、宗及の他、秀吉自らも、茶を点てています。

  ) この茶会の特徴は、今までの少人数の集まりではなく、大勢の参加者がいた事です。

  ) 身分の枠を取り除いて、各界の人物が一堂に会した茶会であった事です。

  ) 従来の茶室や城内ではなく、大徳寺と言う人が集まりやすい場所で、茶会を開いた事です。

 この結果、京や堺などの狭い茶人の範囲から、より広い人々に「茶の湯」が広がります。

 以下次回に続きます。
  
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お茶の話14(信長と茶の湯)

2011-11-20 22:53:10 | お茶と「茶の湯」と茶道具(茶陶)
1560年桶狭間の戦いで、今川義元を倒した織田信長は、徳川家康らと同盟関係を結び、背後からの恐

れをなくし、周辺の武将や近江を平定して、1568年室町幕府155代将軍、足利義昭を擁して京に上ります。

義昭からの、副将軍や管領の職を断り、堺、近江大津と草津に代官を置く事を望みます。

これらの地が交通の要所でもあったからです。

1) 堺商人を屈服させる。

  信長は、上洛すると直ぐに、堺、摂津、和泉、本願寺に対して、軍資金の供出を命じます。

  堺に対して、二万貫を命じますが、堺の「会合衆」は反発し、浪人を雇い、堀を巡らせて防備を固め

  ます。更に、堺周辺を治めていた、三好一族の助けを借ります。信長が留守にした(岐阜城に戻る)

  1569年に義昭の 居城(本圀寺)を攻略しますが、失敗し翌日、桂川の合戦で敗北してしまいます。

  その結果、「会合衆」は大阪平野に逃げ落ちたと、「天王寺茶会記」に記されています。

2) 信長、堺を支配する 

  1569年2月に、堺の商人、津田宗及は、信長の使者の、柴田勝家や佐久間信盛ら百人余りを、自宅に

  招き、終日饗応します。信長の要求の二万貫も支払います。信長は実質的に堺を、支配下に置く事に

  成ります。

3) 信長の名物狩り

  「信長公記」によると、1569年部下の丹羽長秀らに命じて、京の豪商大文字屋宗観所持の、

   肩衝茶入銘「初花」や池上如慶所持の「蕪無花入」「富士茄子」など六点を召し上げています。

   本格的に名物茶道具の収集に取り掛かったのは、この頃からと見られます。

   それ以前にも、松永久秀から「つくも茄子」茶入を、堺の今井宗久から葉茶壷「松島」と「紹鷗茄子」

   茶入れを献上させています。

   尚、手に入れる方法は、献上させる方法と、強制的に買い上げる方法があった様です。

   翌年1570年に、堺に於いても、名物狩りを行っています。

   天王寺屋宗及所持の、「菓子」絵や、油屋常祐所持の「柄杓立て」なども召し上げています。

   又、奈良正倉院に伝わる名香「蘭奢待(らんじゃたい)」を、切り取っているのも、名物狩りの

   一環と見られます。

4) 名物茶道具の活用

   信長は手に入れた名物茶道具で、何度も茶会を開いていますが、より効果的な方法で、活用します。

   即ち、特別に功労のあった部下や武将に対して、下賜(かし)する事により、自らの権威を高める

   働きにをさせます。

   又、「茶の湯」の開催を許可する事により、より「茶の湯」に権威をもたせました。

   信長の主催の茶会に招かれる事は、信長の信頼が厚い事を意味しいました。

   信長は評価の定まった名物茶道を求めた事は、「詫び茶」とは一線を画す物で、政権の権威付けの

   為に利用したと思います。

5) 信長のこの様な行為は、「茶の湯」が戦国武将の間に持て囃される結果に成ります。

   又、1577年、信長は嫡男忠信に茶道具を譲渡しています。1575年に家督を忠信に譲り、岐阜城を

   明け渡しています。これらの茶道具は織田家の象徴として捕らえていた可能性もあります。

  (天皇家の三種の神器の様に)

以下次回に続きます。

   
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