旧満州、奉天市生まれ、長野県長野市で育ちます。長野県長野北高校卒。東京芸術大学への進学
を希望し上京しますが、3度の入試失敗します。その後、当時の前衛美術の先駆者の一人の瑛九
(えいきゅう、本名、杉田秀夫)が結成したデモクラート美術家協会に参加します。瑛九の助言を
得て、版画制作に取り組む事になります。その後も、独学で銅版や木版の技法を修得します。
尚、瑛九に付いては、後でお話します。
3) 作風が大きく変わる。(前回の続きです)
③ 大物の制作方法は、ほとんど手捻りで、板状の粘土を使ったタタラ作り技法です。
高さ1m以上のタタラ(陶板)を使う事も稀ではなかった様です。
日本の文化に余り関心のなかった池田氏は、帰国後に次第に日本の伝統文化に関心が集まる様
になります。縄文や弥生土器などの無釉の焼き物や、楽茶碗、織部等の茶器にも改めて関心を
抱き始めます。日本の絵画を代表するの俵屋宗達や、尾形光琳の装飾技術の影響を受け、版画
でも金色、銀色を使い出します。
④ 死の3年前(1994年)に制作した、「般若心経シリーズ」の作品は、池田の陶芸作品の最高傑作
と言われています。この作品は、2年掛りの大作で、あの有名な「般若心経」を立体的に造形化
したものです。高さ約1.5mもの大佛塔6体、佛塔24体、地蔵42体、心経碑34点、心経碗276点、
心経陶板54点、佛画陶板30点、心経陶片828点と膨大な数で構成されています。
4) 作品発表と「池田満寿夫美術館」「池田満寿夫記念館」
① 平成 7年 (1995) 陶版による「Fuji 100展」開催。富士山の様々な景色を描いた陶板画です
同年 「般若心経の世界展」(京都・大丸ミュージアム他、巡回展を開催)
② 「般若心経」シリーズ(三重県三重郡菰野町大羽根園松ヶ枝町、パラミタミュージアム蔵)
「般若心経シリーズ」の全作品が、第1~第3展示室全室を埋めています。
尚、「パラミタ」は、「般若波羅蜜多」の「波羅蜜多」の事です。
③ 池田満寿夫記念館:長野市松代町(1997年 4月開館)
「古代幻視」シリーズの作品群である。「土の迷宮」シリーズの作品群や「美貌の青空」、
富士山の様々な景色を描いた陶板画を展示。
1997年(平成9年)2月、最後の陶の作品「土の迷宮」をシリーズを焼成する。
3月8日、急性心不全により 自宅玄関前で倒れ死去しました。(享年63年)
④ 池田満寿夫記念館: 静岡県熱海市下多賀(工房の隣接地)に2007年開館します。
記念館は、池田氏と奥様の佐藤陽子氏の名前をとった工房「満陽工房」で作られた陶の作品を
中心に 版画、書、ブロンズなど常時約60点を展示しています。
5) 師の瑛九とは:1911年4月28日 ~1960年3月10日 本名、杉田秀夫:宮崎県生まれ。
画家、版画家、写真 家。戦前より抽象作品を 始め、フォトデッサンやエッチングを創始する。
近年、日本の前衛美術の先駆者の一人として、再評価がされる様になりました。
戦後は、リトグラフ(石版画)などによる版画作品や抽象的な作品(抽象絵画)も多いです。
「フォトデッサン」とは、写真の印画紙に光によってイメージを描き出す技法で、瑛九が
1936年(昭和11年)に命名します。 その他、 油絵、水彩、ガラス絵、 コラージュなどの
多彩なジャンルで活躍しています。この事は池田しにも、多大に影響していると思われます。
1960年(昭和35年)、病気の為48歳の若さで急逝します。
尚、「瑛九(えいきゅう)」とは、「水晶珠がたくさん集まってキラキラ輝く」という意味だ
そうです。
以上で池田満寿夫氏の話を終わります。