わ! かった陶芸 (明窓窯)

 作陶や技術的方法、疑問、質問など陶芸全般 
 特に電動轆轤技法、各種装飾方法、釉薬などについてお話します。

現代陶芸 264 池田満寿夫 2

2015-09-05 17:57:14 | 現代陶芸と工芸家達
池田満寿夫(いけだ ますお): 1934年(昭和9年)2月23日 ~1997年(平成9年)3月8日

 旧満州、奉天市生まれ、長野県長野市で育ちます。長野県長野北高校卒。東京芸術大学への進学

 を希望し上京しますが、3度の入試失敗します。その後、当時の前衛美術の先駆者の一人の瑛九

 (えいきゅう、本名、杉田秀夫)が結成したデモクラート美術家協会に参加します。瑛九の助言を

 得て、版画制作に取り組む事になります。その後も、独学で銅版や木版の技法を修得します。

 尚、瑛九に付いては、後でお話します。

3) 作風が大きく変わる。(前回の続きです)

 ③ 大物の制作方法は、ほとんど手捻りで、板状の粘土を使ったタタラ作り技法です。

  高さ1m以上のタタラ(陶板)を使う事も稀ではなかった様です。

  日本の文化に余り関心のなかった池田氏は、帰国後に次第に日本の伝統文化に関心が集まる様

  になります。縄文や弥生土器などの無釉の焼き物や、楽茶碗、織部等の茶器にも改めて関心を

  抱き始めます。日本の絵画を代表するの俵屋宗達や、尾形光琳の装飾技術の影響を受け、版画

  でも金色、銀色を使い出します。

 ④ 死の3年前(1994年)に制作した、「般若心経シリーズ」の作品は、池田の陶芸作品の最高傑作

  と言われています。この作品は、2年掛りの大作で、あの有名な「般若心経」を立体的に造形化

  したものです。高さ約1.5mもの大佛塔6体、佛塔24体、地蔵42体、心経碑34点、心経碗276点、

  心経陶板54点、佛画陶板30点、心経陶片828点と膨大な数で構成されています。

4) 作品発表と「池田満寿夫美術館」「池田満寿夫記念館」

 ① 平成 7年 (1995) 陶版による「Fuji 100展」開催。富士山の様々な景色を描いた陶板画です

    同年      「般若心経の世界展」(京都・大丸ミュージアム他、巡回展を開催)

 ② 「般若心経」シリーズ(三重県三重郡菰野町大羽根園松ヶ枝町、パラミタミュージアム蔵)

   「般若心経シリーズ」の全作品が、第1~第3展示室全室を埋めています。

   尚、「パラミタ」は、「般若波羅蜜多」の「波羅蜜多」の事です。 

 ③ 池田満寿夫記念館:長野市松代町(1997年 4月開館)

  「古代幻視」シリーズの作品群である。「土の迷宮」シリーズの作品群や「美貌の青空」、

  富士山の様々な景色を描いた陶板画を展示。

  1997年(平成9年)2月、最後の陶の作品「土の迷宮」をシリーズを焼成する。

  3月8日、急性心不全により 自宅玄関前で倒れ死去しました。(享年63年)

 ④ 池田満寿夫記念館: 静岡県熱海市下多賀(工房の隣接地)に2007年開館します。

  記念館は、池田氏と奥様の佐藤陽子氏の名前をとった工房「満陽工房」で作られた陶の作品を

  中心に 版画、書、ブロンズなど常時約60点を展示しています。

5) 師の瑛九とは:1911年4月28日 ~1960年3月10日 本名、杉田秀夫:宮崎県生まれ。

  画家、版画家、写真 家。戦前より抽象作品を 始め、フォトデッサンやエッチングを創始する。

  近年、日本の前衛美術の先駆者の一人として、再評価がされる様になりました。

  戦後は、リトグラフ(石版画)などによる版画作品や抽象的な作品(抽象絵画)も多いです。

  「フォトデッサン」とは、写真の印画紙に光によってイメージを描き出す技法で、瑛九が

  1936年(昭和11年)に命名します。 その他、 油絵、水彩、ガラス絵、 コラージュなどの

  多彩なジャンルで活躍しています。この事は池田しにも、多大に影響していると思われます。

  1960年(昭和35年)、病気の為48歳の若さで急逝します。

  尚、「瑛九(えいきゅう)」とは、「水晶珠がたくさん集まってキラキラ輝く」という意味だ

  そうです。

以上で池田満寿夫氏の話を終わります。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

現代陶芸 263 池田満寿夫 1

2015-09-04 16:43:17 | 現代陶芸と工芸家達
池田満寿夫(いけだ ますお): 1934年(昭和9年)2月23日 ~1997年(平成9年)3月8日

 画家、版画家、 挿絵画家、彫刻家、陶芸家、小説家、映画監督など多彩な分野で活躍した芸術家で

 作家でもあります。尚、「エーゲ海に捧ぐ」で、第77回芥川賞(昭和52年/1977年上期)を受賞され

 ています。 43歳4ヵ月での受賞です。

 特に、二十代中頃から、版画家として世界の公募展で多くの大賞を獲得し、活躍した世界的にも

 著名な人物です。

1) 陶芸を始める。

 ① 陶芸は、米国に滞在中の38歳から始めます。平面的な絵画や版画等の他、立地的な彫刻を

  手掛けていた池田氏にとって、立体を取り扱う陶芸を行う事はある意味、必然性が有ったとも

  思われます。 陶芸に興味を覚えたのは、周囲に陶芸を行っている外国人もいて、その影響も

  あり、「好奇心があった」とも述べています。

  但し、当時小さな電気窯を買って、アトリエに設置したとの事ですが、一度も使う事がなかった

  様です。 興味はあったが、陶芸に時間を割く事が少なかった様です。

 ② 陶芸は一時中断しますが、米国より帰国後の1983年49歳の時、陶芸を再開します。

  切っ掛けは同年、誘われて静岡県南伊豆町の、日本クラフトの岩殿寺窯で轆轤を回した事で、

  一気に陶芸の虜になります。それ以来本格的に作品作りに励んでいます。

  岩殿寺窯では、約2年間の作陶生活を送っています。池田氏は陶芸について「なんといっても

  インスピレーションと成り行きだけで、どんどん形を作っていけるシステムが私を興奮させた」

  とその魅力を語っています。(1992年8月24日付読売新聞夕刊)

 ③ 岩殿寺窯での成果は、日本橋高島屋で発表しています。(1984年)

2) 最初は若いスタッフ達に、轆轤で壷や皿を形作らせ、それを彼なりに変形させて作品を作って

  いました。陶芸以外に多くのジャンルで作品を手掛けていた為、十分時間が取れなかったのも、

  一つの原因ですし、誰かに正式に陶芸を学ぶ機会や時間が、なかったからとも思われます。

  窯はガス窯(2立米)と電気窯(0.3立米)を使用して焼成しています。

  これらの窯は、釉の色や形(造形)を表現するのに向いた窯と言えます。

3) 作風が大きく変わる。

 ① 1993年、山梨県増穂町(現、富士川町)に野焼き風の焼成が可能な薪窯(まきがま)の

 「満寿夫八方窯」を造ってから、本格的に自分で制作する様になります。この窯では、「縄文焼」

  「古代幻視」「般若心経」などのシリーズ物を含め、約2千点程の作品を制作しています。

  制作方法は主に陶板のタタラによる、オブジェの作品です。その他、塊(かたまり)作りによる

  抹茶々碗、小さな地蔵様、更には、叩き技法による花瓶などを制作しています。尚、「八方窯」

  の名前は、焚き口が八つある事から来ています。これは、裏表の無い焼き物を作りたいとの願い

  があります。内壁の高さは180cm以上ある大きな窯ですので、高さ1m程度の作品は楽々

  焼く事ができます。薪(まき)窯は土の色(味)を如実に反映し、炎の行方で千差万別の表情を

  作るのが魅力に成っています。

 ② 自分に適した陶土を求め、日本の土を試し適した陶土を見出す。

  大物の作品には、瀬戸で作られていた土を見出します。信楽土にシャモット(焼粉)を混ぜ、

  切れや収縮を抑えた耐火度が強い土です。尚、抹茶々碗や小地蔵、花瓶などは唐津の粘土を

  使っています。

 ③ 大物の制作方法は、ほとんど手捻りで、板状の粘土を使ったタタラ作り技法です。

以下次回に続きます。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

現代陶芸 262 俵萠子(五十の手習い)3

2015-09-03 15:02:56 | 現代陶芸と工芸家達
俵萠子(たわら もえこ): 昭和5年(1930年)12月7日 ~ 平成20年(2008年)11月27日

1) 陶芸に興味を持った切っ掛け。

2) 念願の弟子入り。(以上が前回までお話した事です。)

3) 各地の工房を訪問し、工房の作り方を研究する。

 ① 最初は赤城の自宅の居間で、新聞紙を敷いて作品を作っていましたが、部屋が汚れる事が

   問題となります。

 ② 狭い庭に三畳程の工房(市販のサンルームを利用、80万円との事です)を作り、小さな

   洗い場と念願の電動轆轤と、より大きめの窯を購入します。ここまでで150万円程かかった

   との事です。冬場にはお湯が必要と実感し、給湯器も備えなければ成りませんでした。

   「焼き物にお金がかかるのではない。焼き物をする場所と設備に金がかかる」事を悟ります。

 ③ 更に良い工房を充実させる為、講演の為各地を旅行した際には、各地の工房を訪問し工房の

   作りや環境等を見て周ります。工房訪問が趣味となり、「工房評論家」になろうとする程に

   なります。

4) 1990年、銀座三越で初の個展を開催する。

  1992年、群馬県高崎スズランデパートで個展を開催。以後個展多数。

  個展を開催しようと思い立ったのは、陶芸の師匠である、熊本高田焼の窯元の酒井雅女氏から

  「売れる様な焼き物を作りなさい」と言われた事も大きく関係している様です。

  売れる作品を意識する様になると、陶芸の技術も「メキメキ」と上達したと述べています。

  一般に、ほとんど無名な陶芸家が、有名なデパートで個展を開く事は不可能です。

  勿論、俵さんは、著名人ではありますが、陶芸家としては、ほとんど無名な方ですので、銀座

  三越で個展を開催できたのは、有力者の紹介があった為と思われます。

  尚、高崎は地元ですので、地元デパートでの個展開催は、他人の力を借りなくても、スムーズ

  に行ったと思われます。

  1995年、「がんばれ!阪神ー俵萠子展」 阪神大震災チャリチー個展開催。

  七日間の入場者数は、2千人との事でした。
  

5) 1991年、陶芸教室をオープンする。

  地域お越しと、陶芸の楽しさを人々に伝え様と思い、陶芸教室を開催する事にします。

  募集を掛けた処、辺鄙な土地柄にも関わらす、予想に反し数百人の応募があったそうです。

  当時は焼き物が大変なブームであった事と、俵さんが有名人で有った事も大きく関係している

  かもしれません。その中から数十名の人を選択し生徒にします。選に漏れた方は、空き待ちの

  状態でした。当初予定した部屋では、入りきれず新たな部屋を建てる事にもなります。

  数十人の生徒と十人程度のスタッフを抱え、陶芸教室は順調に発展して行きます。

  窯も三つ持つようになります。

6) 1995年、俵萠子美術館オープン:館長を務める。

  ご自分の美術館を持つ事は、若い頃からの夢であった様です。勿論、ご自分の作った作品を

  展示したり、作品を販売する事も行っています。尚、個展などで販売する場合、その会場に

  支払う、マージンが意外に高く(数十%)、それを作品に上乗せする為、販売価格が高くなって

  しまう事にも、不満が有ったようです。現地販売する事で少しでも安く作品を提供したいと、

  思っていました。美術館は、当初予定していた陶芸教室を利用する事にします。

7) 赤城山の麓に工房と美術館を持ち、色々なイベントを執り行い、陶芸三昧の晩年でしたが

  2008年11月末、死去(病死)されます。それに伴い、美術館と陶芸工房は閉館する事になります。

  俵さんの代表的た作品は、原点である葉皿です。その他師匠が象嵌の作品を得意にしていました

  ので、その技術を生かした、象嵌の作品も代表的な作品になっています。

以上にて、俵萠子さんの話を終わります。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

現代陶芸 261 俵萠子(五十の手習い)2

2015-08-26 21:55:19 | 現代陶芸と工芸家達
陶芸は60、70代の年配者であっても、新たに始める事ができます。但し、電動轆轤では早い時期

(遅くても50代)から始めなければ、上達は期待できません。丁度自動車の運転免許の取得が若者に

有利な事と相通じます。

俵萠子(たわら もえこ): 昭和5年(1930年)12月7日 ~ 平成20年(2008年)11月27日

 尚、本名は萠子と書きますが、ネット上等では萌子と表示される事が多いです。

1) 陶芸に興味を持った切っ掛け。

 ① 最初に作ったのは、紫陽花の葉を押し当てた木の葉皿でした。

 ② 弟子入り。

  ) 最初は独学で挑戦します。

  ) 独学の限界を感じ、プロの陶芸家に弟子入りを望む。

  ) 弟子にしてくれる陶芸家は中々見付かりませんでした。

   a) 基本的に陶芸家は、特別な場合(自分の子供など)を除いて弟子は採りません。

   b) 師匠を求めている最中で、色々なタイプの陶芸家が居るのを発見します。

 以上までが前回に述べた事です。

   c) 弟子入り志願を断れ続けます。

    俵さんに向いていると思われる陶芸家の門を、叩き入門を要請しますが、ことごとく断られて

    しまいます。尚、男性の陶芸家に絞ったそうです。

    断られた理由として、自身で幾つか述べられておられます。

   ・ 「女の弟子を採らない」と言う答えが、圧倒的に多いとの事です。

   ・ 「陶芸は力仕事であり、若い男性のみ弟子にします。」

   ・ 「窯場は神聖な場所で、女人禁制です」、「相撲の土俵と同じです」

   ・ 「女房が反対するので、女の弟子は採らない」と言う陶芸家もいた様です。

   即ち、女である事と60近い年配である事が、断る大きな理由であった様です。

2) 念願の弟子入り。

  プロの陶芸家への弟子入りを諦めかけていた頃、熊本県八代市の隣町に講演の為訪れます。

  八代市には、高田焼(八代焼)きと言う焼き物があり、その窯元の一つを訪れる機会ができます。

 ① 窯元酒井雅女さんと出会う。

  a) 窯元の主は、伝統的な窯元の十一代目の女性でした。俵さんは窯元が、女性である事が

   大変不思議であった様です。なぜなら、伝統的な窯元では、男子のみの一子相伝と伝えられて

   いると思っていた為です。酒井雅女さんは、俵さんより年上の人でした。

  b) 「何でも教えるからうちに来なさい」(実際は熊本弁であったそうです)の一言で弟子入りを

    決意します。俵さんは独学で苦労し、プロの陶芸家に弟子入りを希望しているが、断れ続けて

    いる事を話すと、上記の様な言葉を掛けて頂いたそうです。

  c) 月に一度4~5日の休暇を取り、飛行機で熊本へ、1988年から4年間通う事に成ります。

    それでは、俵さんの修行した時間はどの位だったのでしょうか?。勿論本人は語っていま

    せんが、大よその見当がつきます。

    一度に月4日間陶芸に従事しているとし、1日8時間として月32時間になります。

    これを4年間(12X4=48ヶ月)とすれば、32x48=1536時間になります。

    一般に、1000時間で一通り陶芸の事は、こなせる様になり、1500時間で人に教える

    事が出来ると言われています。当然、指導の仕方や、学ぶ者の素質や年齢によって左右され

    ます。それ故、俵さんは、人に教える事の出来る程度の技量を習得した物と思われます。

 ② 他の多くの陶芸家から、助言を受ける。

   著名人である俵さんが、本格的に陶芸を始めた事が判ると、多くの人や陶芸家たちから助言を

   受ける様に成ったそうです。電動轆轤は、熊本でも習いましたが、その他の人々の助言を受け、

   上達したそうです。

  尚、他人の助言には、とても役立つもの、余り参考に成らないもの、毒にも薬にも成らないもの

  更には、有害のものまであります。有名人や著名な陶芸家の助言が必ずしも、役に立つとは

  限りません。その為、取捨選択を間違わない事です。陶芸は人によりやり方が違いますので、

  助言された事で迷ってしまう事も珍しくありません。その為、初心者はあれこれ意見を聞かずに

  一人の先生の教えを守る事が、陶芸技術の速い習得になる場合が多いです。

以下次回に続きます。
   
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

現代陶芸 260 俵萠子(五十の手習い)1

2015-08-25 17:34:24 | 現代陶芸と工芸家達
俵萠子(たわら もえこ): 昭和5年(1930年)12月7日 ~ 平成20年(2008年)11月27日

 大阪府大阪市出身の社会評論家、エッセイスト、作家。大阪外国語大学フランス語学科卒業。

 産経新聞記者を経て女性、家庭、教育などを中心にした社会評論家として、テレビに多く登場して

 います。更に、小説家としても活躍し、日本初の準公選で、東京都中野区教育委員を歴任しています

 俵さんは、五十歳を過ぎた1986年頃より、陶芸に興味を抱き正式に師事して陶芸を学び、群馬県

 勢多郡富士見村の赤城山(大鳥居から十数分の場所との事です)に、「萠子窯」を開設し、1995年、

 夢工房と名付けた工房と、美術館を兼ねた「俵萠子美術館」設立します。尚、若い頃に絵画も

 学ばれており、再度絵画の勉強も始め、陶芸の絵付けに応用しています。

1) 陶芸に興味を持った切っ掛け。

  1983年(昭和58年)に執筆や畑仕事をしようと、父親の故郷の赤城南麓に土地を購入します。

 ① 最初に作ったのは、紫陽花の葉を押し当てた木の葉皿でした。

  1985年頃、知り合いの元校長先生が、益子の粘土3Kgと陶芸セットを携え、中野の自宅を訪ねて

  きます。余談ですが、粘土は東急ハンズの包み紙に包まれていたそうです。

  その場でテーブルに新聞紙を敷き、元校長の指導の下、2kgの粘土を叩き延ばし、厚さ1cm

  の粘土板(タタラ)を作ります。庭にある紫陽花の葉を採り、葉脈側を下にして粘土板に押し

  当て、葉の形と葉脈を粘土に刻み付けます。更に周囲(縁)のギザギザを線の通りに切り取り、

  5枚の木の葉皿を作ります。 落款(らっかん=印)を押すと様に成っていました。

  後日、デパートの陶芸コーナーで焼成して貰い、木の葉皿を受けと取ってから、陶芸の虜(とりこ)

  に成ったそうです。

 ② 弟子入り。

  ) 最初は独学で挑戦します。

   当時職業を持ち、多忙を極める暮らしでは、決まった日時で開催される、陶芸教室やカルチア

   センター、陶芸科のある大学などに通う事は、仕事の関係で困難でした。

   それ故、独学で学ぶ事を決意し、陶芸の入門書やビデオ購入し陶芸に励みます。

   小さな電気窯も購入し、数回焼いたそうです。

  ) 独学の限界を感じ、プロの陶芸家に弟子入りを望む。

   独学で勉強しますが、判らない事だらけでした。粘土の処理、高台の削り方、釉の濃さ、

   釉の掛け方など、書籍やビデオで表現された意味もチンプンカンプンの状態で理解できずに、

   2年程経ちます。一向に上達しないのを感じ、プロの陶芸家に弟子入りする事を真剣に考え

   始めます。

  ) 弟子にしてくれる陶芸家は、中々見付かりませんでした。

   a) 基本的に陶芸家は、特別な場合(自分の子供など)を除いて弟子は採りません。

   なぜなら、自分の持っている技術や知識を弟子に教える事で、師匠に利益が無いばかりか、

   将来競争相手になるかも知れない存在になるからです。

   一般には、その窯場の下働きとして採用され、他の同僚や親方から技術を見て盗む事で、

   陶芸技術を手に入れる事になります。親方や同僚が手を取って教えてくれる訳ではありません。

   それ故、弟子として認める訳では有りません。(本人が弟子と思うのみです。)

  b) 師匠を求めている最中で、色々なタイプの陶芸家が居るのを発見します。

   ・ どんな些細な事でも丁寧に説明してくれる陶芸家。

   ・ 「それは企業秘密です」と肝心で大事な事は、明らかにしない陶芸家。

   ・ 教えてくれるのだが、大事な事はその陶芸家がやってしまい、中々やらせて貰えない陶芸家

   ・ 何でも教えてくれるのですが、決してその人と同じ程度まで技術が磨けないと感じさせる

     陶芸家。

   ・ その他、自由に創作させる人、拘束する人、自分の考えを押し付ける人、特殊の技術の

     持ち主、細かく指導する人、放任形の人、指導の仕方の上手な人、下手な人、個性が

     強すぎる人、積極的に作品を発表する人、代々陶芸家の伝統的な窯元など、百人百様です。

    当然、俵さんは自分に合う師匠を求める事になります。

  c) 弟子入り志願を断れ続けます。

以下次回に続きます。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

現代の陶芸259(まとめ4)

2012-12-30 11:43:41 | 現代陶芸と工芸家達

7) 窯を築く

   陶芸は焼き物ですから、粘土や磁土を焼成して初めて完成となります。それ故窯が是非とも

   必要になります。但し、個人で持たなくても、共同で使用したり焼成のみを他の人に依頼するのも

   一つの方法です。

 ① 「一土、二焼、三細工」と言う言葉があります。

    これは、焼き物で重要な要素を順番に数え上げた諺です。

  ) 作る作品に合った土を使うのが一番と言う事です。土の種類は千差万別で、限られた量しか

    存在しない土から、豊富に存在する土なで、多種多様ですし、土の種類によってその作品の

    出来具合も大きく変化します。それ故、作品に応じた土を選ばなければ成りません。

  ) 次に重要なのが、「焼き」です。焼きとは単に高温に焼き上げる事のみではありません。

  a) 土が焼き締まるまで高温で焼く。

     土の種類によって、その収縮する温度に違いがあります。また縮み率も違いがありますが、

     その土が十分焼き締まり、日常使用に耐える強度が出る程度まで、高温にする必要が

     あります。更に、土の種類によっては、焼成時間を長くとる必要なものもあります。

     十数時間~数日必要な場合があり、当然、窯の大きさと作品の数によっても異なります。

   b)  焼き方には酸化と還元焼成及び、中性炎の焼成の仕方があります。

     この違いによって、釉や器肌の色に大きな変化が現れます。

     又、温度上昇の具合に微妙に変化を与えます。強酸化や強還元では、温度上昇は鈍り場合に

      よっては、温度が低下します。弱中性炎で焚くのが一番温度上昇すると言われています。

   c) 燃料(薪、ガス、灯油)の差によって、大きく出き上がりに変化が起こるものです。

     特に薪でしか出ない緋色や、灰被りによる窯変と呼ばれる作品があります。ガスや電気窯を

     使って人為的に緋色や灰被りを作りだす事も可能ですが、やはり薪窯で焼成した作品とは、

     大きな違いが出るものです。

 ② 窯が焚ければ、制作方法を会得していなくても陶芸は出来ると言われています。

   即ち、制作技術はある程度時間を掛ければ、身に着ける事は可能ですが、窯焚きには特殊な

   技術が必要になるからです。

   しかしながら、近年電気窯が広く使える様になると、窯を焚く技術も容易になってきました。

   特にコンピューター制御による窯焚きでは、「寝ている間に焼成が終わっている」と言われる

   程です。電気窯であっても、従来と遜色ない色や焼き上がりになる場合も多いですが、作品に

   よっては、焔の出る窯と比べ、明らかに違いが出るものです。

   a) 一番大事なのは窯です。

      一般に窯は窯を造るメーカーから購入するか、メーカーの窯を造る職人に依頼して、

      自分好みの窯を造って貰う事が多いですが、それに満足せず、自ら耐火煉瓦(現在では

      ほとんどが、軽量耐火煉瓦を使用)と耐火モルタルで積み上げて、窯を築く人も多くいます。

      当然、窯に付いての知識が必要になり、更に多くの窯を見たり、実際に窯を焚いている人

      から助言を貰えれば、大いに役立ちます。

   b) 窯は一つ有れば概ね(おおむね)全ての事に対応可能ですが、陶芸作家と呼ばれる人は、

     作品に応じて、複数個の窯を持つのが普通に成ってきました。

     即ち、薪窯(登窯、 窖窯)、ガス窯、電気窯などを使い分けていましす。

   c) 窯を改造(改良)する事も稀ではありません。

     自分の思うような結果が出ない場合、窯を改造する事もあります。

     各々の窯には、特有の個性(癖)が有りますので、その個性が有効ならばそのまま使いますが

     個性が強過ぎる場合には、それを是正する為に改造します。レンガを剥がし新たに築き直し

     ます。 多くの場合は、空気孔や炎の通り道を変更したり、煙突の引きの強弱を変更する事が

     多いです。但し、窯には必ず調整機能が付いています。その調整機能でも十分対応出来ない

     場合のみ、改造を行います。

   d) 基本的には、窯は移動出来ない物です。(小さな電気窯やガス窯では、移動可能の場合が

      有りますが) それ故、移転する場合や、新たに独立する場合には、窯を新築する必要が

      あります。当然ですが、電気窯以外では、酸素を多量に消費しますので、屋外に設置する

      のが一般的で、屋内の場合には十分な換気が必要に成ります。近年でも、ガス窯での

      酸欠による死亡事故が起きていますから、くれぐれも注意が必要です。

  ③ 「窯焚き一生」と言う諺が有ります様に、満足出来る窯焚きが出来る事は稀で、出来たとしても

     次回、同じ様に満足行く結果が出る可能性は少ないです。

     特に燃料(薪、ガス、灯油など)を使う窯では、どんなに同じ条件で焼成しても必ず、結果が

     異なるのが普通です。(但し、工業製品としての作品では、常に一定でなければ成りません

     それ故、この場合とは異なります。)

   ④ 窯焚きの方法は人によって異なります。その人独自の方法で焼成している事も多く、

      それらが、秘密に成っている事もあります。又それらの人から助言を得たとしても、必ずしも

      役に立つとは限りません。窯が違えば、焼き方も違うからです。

 ・ ここでは、窯焚きの方法については、述べませんが、機会が有ったら、私なりの方法を述べたいと

   思っています。

 ・ 以上にて、約1年間続いた、「現代の陶芸」のシリーズを終わりにします。

   尚、年々、新たな有望な陶芸家達が登場する事と思います。その際には彼らの事を取り上げたい

    と思っています。

 次回より新たのテーマでお話したいと思ています。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

現代の陶芸258(まとめ3)

2012-12-27 17:15:56 | 現代陶芸と工芸家達

6) 師匠、指導者、及び陶芸修行に付いて。

  現代の陶芸家の中には、師を持たず、独学で技術を習得したと述べている方も結構多いです。

  但し、完全な独学は有り得ないと思います。特定の師と呼ぶ人はいない事もあるでしょうが、それに

  順ずる人はいるはずです。技術を直接指導して貰わなくても、その人の作業を見て、土の扱い方、

  作品の作り方(轆轤、手捻り技術、装飾技術など)、釉の作り方、施釉の仕方、窯の焚き方などの

  陶芸の一般のやり方を、見て参考にしているはずです。勿論そう言う師は一人とは限りません。

  それ故、そう言う意味では、必ずしも独学とはいえません。ただ「師匠はどなたですか?」と訊ね

  られたら、「独学」と言うしかありませんが・・。

 ① 現代では、特定の師を持つ事は困難に成っています。

    昔ならば、内弟子として、師匠の家に住み込み、家事の事から陶芸の雑事を経て陶芸全般に

    付いて直接(間接)指導を受け、数年後独立するのが普通でした。

    現代では、その様な内弟子を雇い入れる処はほとんどありません。

    弟子としてではなく、単に下働きとして雇い入れる事はあるかも知れませんが、独立させる

    為の指導はありません。独立する為の技術を得られるかどうかは、本人次第です。

 ② 陶芸学科など陶芸を教えてくれる、公立や私立の美術学校も多く存在します。

   この様な学校を卒業して、陶芸家に成る人が増えています。

   当然、陶芸の基礎からデザイン及び制作方法、装飾の仕方、窯の焚き方など、理論と実践で

   指導して貰えます。勿論指導してくれる教授達も複数になり、陶芸界ではある程度知名度のある

   教授達で、各々特色ある授業と成ると思われます。一般人だけでなく、著名な窯元の子息も

   この様な学校を卒業しているのも稀ではありません。この段階から公募展に応募している人も

   多く、入選を果たしている方もいます。

   ・ 勿論、直ぐに独立する事も可能ですが、より上級の大学院に進んだり、何処かの窯場等で

     実践を積んでから独立する人もいます。

  ③ 陶芸教室やカルチアセンターなどで、実践的な指導を受け、窯を築いて独立する人もいます。

    前記の美術学校に通学出来る方は、ほとんどが若い人達です。社会人に成った方は、

    社会活動をしながら、陶芸活動を行う必要があります。独立を目指すならば、其れなりの

    努力が必要ですが、独立する事は可能です。

  ④ 最初から下働きとして窯場に入り込む。

    全国にある窯場では、下働きとして人手を必要としている処もあります。

    この様な場所で修行するのも一つの方法ですが、スブの素人よりある程度陶芸の心得のある

    人が優遇される様です。その窯場にはその土地の土を使う事が基本で、土の種類によって、

    制作方法も異なる事も多く、色々な技術を覚える為には、複数個所の窯場で修行する必要が

    有るかも知れません。あくまでも下働きとしての処遇ですから、技術を教えて貰える訳では

    有りません。与えられた仕事を終えた後、自由時間に轆轤などを仲間同士で練習する事に

    なります。きつい労働条件ですが、この試練に耐える事が出来るのは、若者だけかも知れ

    ません。 本人の努力しだいで、技術の習得が出来るかどうかが決ります。

  ⑤ 師を持つ事の功罪。

    武道や芸能などで使われる言葉に、「守、破、離」があります。 

    師の教えは大切ですが、それに囚われている限り、師を乗り越える事はできません。師の技

    以上の技(わざ)を身に付ける為には、一度師の教えから離れる必要がある事を意味します。

    それ故、長い間師事する事は必ずしも、本人の為に成りません。

    ・ 「守」(しゅ): 師匠の教えを忠実に守る事です。(基礎的な事はしっかり身につけます。)

    ・ 「破」(は): 師匠の教えに対して、自分なりの解釈を加え、師匠の意見に異を唱える事も

      あります。師匠から離れる第一歩に成ります。

    ・ 「離」(り): 師から離れる事により、初めて独立し、自分の足で歩き出す事になります。

      勿論、自分の道を他に求めたとしても、容易に見付ける事は困難かも知れません。

      師の元に安住する事無く、新たな道を見付ける事が陶芸家、陶芸作家として世に認められる

      事にも成ります。

以下次回に続きます。

  

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

現代の陶芸257(まとめ2)

2012-12-26 16:18:42 | 現代陶芸と工芸家達

4) 経歴について

  当ブログで、現代の陶芸に付いて取り上げた作家さん達には、色々な方がいます。

  その経歴も「まちまち」です。

 ① 昔ですと「一子相伝」と言い、窯元の家に生まれた者(主に男子)が家業を引き継ぎ、親と同じ

    様な作品を作り続けていました。 名門の窯元の何代目と成れば、その人独自の作風を確立し

    後世に名を残す必要も有りましが、一般的な窯元では、ある程度時流に乗った作品造りを

    すれば、何とか生計維持が可能でした。

 ② 上記の頃は、同業者の数の増減も少なかったと思われます。

   現代では、陶芸を志し、陶芸で生計を立てたいと思う人が激増しています。

   しかし、現実には作った作品を販売して生計を立てる事は、はなはだ厳しい時勢と成っています

   先ずその人の存在を知って貰う必要があり、次にその人の作品を知って貰い、更にその人が、

   どの様な活動をしてきているかなど、知って貰う必要がるからです。それには長い年月が必要に

   なる場合が多いです。

  ・ 誰でも応募できる公募展などに出品し、入選や賞を受賞するのも、名前を知らしめる方法の一つ

    です。公募展には、著名な団体が定期的に開催する本格的な展示会や、地方の窯場の団体が

    開催する公募展があり、技術レベルや出品作品も多種多様です。

  ・ 個展を開くのも一つの方法ですが、場所の問題や費用の割れには作品の販売や、知名度を

    上げる事が難しいです。個展はある程度知名度が上がってから行っても遅くはありません。

  ・ むしろ数人でグループ展を行う方が、お互いの相乗効果もあり、より有効的です。

    但し、必ずしも陶芸の仲間である必要は無く、違う業種(但し余りかけ離れた業種でない事)

    であっても問題ありません。

 ③ 経歴に拘らない陶芸家も多く存在します。

    陶芸家は、作品で勝負するのであって、経歴などは問題外との立場です。

    それはそれで十分納得できます。但し、同じ様な作品であっても、価格(売値)が驚くほど、

    差があるのも陶芸の世界です。当然経歴のしっかりした人の方が、高値が付きます。

 ④ どの世界も同じですが、作るよりも販売する方が数倍難しいです。

    特に、陶芸家などの職人(技術者)はこの方面は、苦手の人が多いです。

5) 陶芸を始める切っ掛け。

    陶芸を始める切っ掛けは、その人の陶芸に大きな影響を与えます。ある意味で、その人の陶芸

   生活を方向付ける事も稀ではありません。

  ① 生まれた家(生家)が陶磁器に関係していれば、自然とその道に進む事も多いです。

  ② 生家や親戚に陶磁器とはなんら関係しない人でも、陶芸家や陶芸を楽しんでいる人も多く、

     現代の多くの作家の人は、この分類に入ると思われます。

     これらの人は、何処かで陶芸と出会っているはずです。

   ) 美術展や公募展、デパート等で有名作家の展示会(個展)などの、陶芸関係の展示会は

      一年中何処かで行われています。それらの作品を見て感動を覚え、自ら作りたくなった方も

      多くいます。

   ) 友人、知人の作った作品を見て自分でも作りたくなった。

      知り合いなどに、陶芸家や陶芸を楽しんでいる人がいれば、その影響でこの道に入る

      方もいます。

   ) 偶然の出会いによる場合。

      書店や図書館などで偶然見た美術誌などの写真を見たり、デパートなどの陶芸展の

      広告、又は、街で見掛けた看板や募集広告などで、興味を覚えてこの道に入った方達

      です。(蛇足ですが、小生も偶然の出会いから、40年の付き合いに成っています。)

以下次回に続きます。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

現代の陶芸256(まとめ1)

2012-12-24 21:54:51 | 現代陶芸と工芸家達

現代では、陶芸家と呼ばれる人々は、数千とも数万人とも言われる程です。

従来ですと、昔より続く限られた窯場を中心に活躍していましたが、現在では、雪の降る極寒の北海道

や東北、北陸などに千人単位の陶芸家が住み着き、活動しています。

冬季でも暖房が行き届いている為、以前なら不向きな場所での、陶芸活動も可能に成っています。

現在では、我が国の何処の地でも陶芸活動は可能です。

このシリーズを終わるに当たり、現在の陶芸事情を考えて見たいと思います。

1) 土が自由に手に入る様に成った事。

   昔ならば、地元の土を使う事が必要で、良い土の産出する場所に窯を築き、作陶する必要が

   ありましたが、現在では好みの土を遠方より取り寄せる事が可能に成っています。

   勿論、地元の土を見出しその土(又はブレンドした土)を使って活動している人も多いです。

2) 作る作品について。

  ) 陶芸を趣味にしている方ならば、自分の好きな様な作品を作れば良いのですが、焼き物で

    生計を立てるとなると、自分の好みの物のみを作っている訳にはいきません。

    勿論、超売れっ子作家ならば、ある程度自分好みの作品で、生計を立てる事も可能でしょうが

    その様な方は、ほんの一握りの作家に限られます。

  ) 一般的には日常使用する食器類が多く作られます。この分野には量産された安価な

     焼き物が「ひしめいて」います。手造りの特徴を生かした、ある程度の特色ある絵柄、文様、

     色(釉)で勝負する事に成ります。

     茶道が盛んな我が国では、茶道具やそれに伴う懐石料理用の器も、一定の需要がある様で

     茶道具を専門に作っている方も多いです。

  ) 日用品の中でも、酒気類や花入(花瓶)なども、ある程度の需要が有りますが、それらは、

     薪による焼成、即ち登窯や窖窯(あながま)で焼成した、焼き締め陶器です。

     焼き締め陶器は、施釉した陶器より人気も高く(作る者も使う人も)、より高値を付ける事が

     可能です。 特に備前焼などは、人気がある有名作家では、ぐい呑みでも数万円~数十万円

     の値が付く事も稀では有りません。更に壷などの大物に成ると数百万の値さえ付きます。

  ) 現在主流に成っているのは、窖窯による焼成で、以前主流であった登窯は、共同窯と

     して使われた場合が多く、個人の窯として使用するには容積が大き過ぎる為、ほとんど

    使用されなくなっています。但し、薪で焼成する為には、環境問題も有って、ある程度設置

    場所が制限される為、人里離れた山の中や、山里に築く事に成ります。

    注: 窖窯(あながま)とは、トンネル状の地下式又は半地下式の窯で、斜面を利用して、焔の

       引きを強くし、高温を得る窯です。主に古代から中世にかけて作られ、土中を堀抜くか、

       斜面に溝を堀り、天井を被せた構造になっていますが、現在では、耐火レンガを利用して

       築いています。自然釉が掛り、灰被りや胡麻(ごま)などの景色や窯変などが発生し、

       予想だにしない良い景色の作品が、出来上がるの事が多いです。

  3) オブジェ的な作品や、展覧会用の作品について。

   ) オブジェ的な作品は、一部美術館などでお買い上げに成ったとしても、一般的には商品的

     価値が認められる事は稀です。即ち、作品が大き過ぎて一般家庭で設置するスペースも有り

     ませんし、美術的価値が有っても、単なる「お飾り」でしかない為です。

     その為、若い頃主に、オブジェを作っていた方も、やがて年齢と共にオブジェ的作品から離れて

     いくのが普通です。

   ) 展覧会用の作品にも同じ様な事が言えます。

      公募展などで入選する為には、ある程度の大きさのある見栄えの良い作品でなければ

      なりません。一般家庭では大き過ぎる作品です。

      但し、展覧会用の作品は美術館などで買上げとなる以外は、販売する目的で作る訳では

      なく、入選や賞を受賞する事に主眼が置かれます。入選や受賞がその人の経歴と成って

      後々有用に作用すると考えるからです。但し、入賞したからと言って必ずしもその人の作る

      他の作品の価値が上がる又は販売増に繋がるとは限りません。

以下次回に続きます。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

現代の陶芸255(岡崎隆雄)

2012-12-23 15:03:45 | 現代陶芸と工芸家達

「人に媚びず、自然に対して謙虚に、野ざらし雨ざらし、それが自身の作品」と語り、山形県上山市、

蔵王で作家活動をし、我が国は勿論、海外でも高く評価されている陶芸家が、岡崎隆雄氏です。

1) 岡崎隆雄(おかざき たかお): 1946年(昭和21) ~ : 不忘窯

  ① 経歴

    1946年 山形県に生まれます。

    1964年 加藤唐九郎氏とその息子の重高両氏に師事します。

    1973年 郷里の山形県上山市、蔵王に窯を築き独立します。

    1974年 山形S氏邸に、陶壁「渦音」を設置します。

    1984年 山形蔵王キャッツブローに織部陶壁「野明」を設置します。

    1986年 仙台オリベハイツ望月に、陶壁 「星雲」を設置します。

   ・ 多くの公募展で入選を果たしています。

     日展。日本現代工芸展。日本現代工芸アメリカ展。朝日陶芸展などの他、多くの地方展で

     入選と各種の賞を受賞しています。

  ・ 個展: 福島、三桜社画廊(1978)。仙台、日本生命ビル(1979)。 静岡、松坂屋 開窯10年

   作陶展(1981)。仙台、藤崎(1984)。東京銀座ラ・ポーラ「蔵王山野草の輝き」(1987)。
 
   同所「蔵王の山郷から、秋風にのせて」(1988)。
 
  ② 岡崎氏の陶芸
 
   ) 作品は志野、信楽焼き、焼き締めなどが多いです。
 
      加藤唐九郎父子に師事しながらも、父子の重厚で豪快な作風を踏襲せず、むしろ端正な
 
      作品と成っています。時には古風の風格を帯びた作品を作っています。
 
      又、焼き締めを中心に、伸び伸びした作陶活動を展開しています。
 
    ) 「信楽焼きには信楽に適した作品があり、唐津焼きには、唐津にふさわしい作品がある
 
       はずで、一つの土(窯場)で、あらゆる種類の作品を作りたいとは思わない」とも述べて
 
       います。それ故、志野、信楽、唐津など土の違いによって、作品の種類を変えています。
 
       ・ 志野茶盌:紅志野と呼ばれる赤味の強い器肌に、白い志野釉が斑に張り付いています
 
        鬼板(鉄)で描かれた簡単な模様が着けられている作品もあります。
 
        ・ 高さ 12 x 径 10 cm。 ・ 高さ 12.5 x 径 9.5 cm。
 
      ・ 信楽水指: 大きな長石粒を含む粗い土で、長石が吹き出ている「石ハゼ」無釉の焼き
        締めです。
 
        高さ 22 x 径 19 cm。
 
     ・ 灰釉の作品も多く作っています。
 
       ・灰釉鶴首花入:高さ 39 x 径 20 cm。
 
       ・灰釉面取花入: 直方体の花入で、上部に花を挿す小さな穴が開き、器の側面は箆目や
 
      削り取りにより荒々しさを表現しています。
 
        高さ 15.5 x 横10.5 x 奥行き 14 cm。高さ 12 x 横11.5 x 奥行き 15 cm。

    ) 米国陶芸界でも彼の人となりに共感した 多くの作家達(Peter Voulkos、 Peter

      CallasKristin Müller)と交流を持ち、岡崎氏も彼らのカルチャーに触れ、内なる思いを

      開花させた 米国作陶作品の代表作の「プロメテウス」を完成させています。

     ・ 「プロメテウス」:火を得て新たな道を歩み出した人類の栄華と、愚かさを表す二面性を

      持った作品です。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする