クラフトとは、外国語で「手造り」の意味ですが、日本では一般に「手仕事の持つ人間的な温か味を
表現した新しい工芸品」を意味します。又、「美的な日常生活の用具の創造」を目指す作品群とも
言えます。特に陶磁器は、クラフト作品の重要な要素の一つに挙げる事が出来ます。
1) クラフト運動の始まり
① 戦後は、国内の各分野で、旧秩序の崩壊が起こり、混沌とした状態が続きます。
② 昭和20年代後半に成って、工芸界でも新しい秩序を求め、工芸家達が運動を始めます。
新しい造形として、庶民の暮らしに密着した、新たなデザインの生活品の創造を目指します。
③ 古い型の美術工芸家ではなく、当時30歳代の若い青年達が、志を同じにするそれぞれの
グループを組み、行動に移します。
) 「創作工芸協会」: 最初に行動した人々は、戦前より日展で活躍していた中堅(特選作家)の
工芸家達で、協会を設立し自由な創作と、積極的に社会的発言力を増す事を目標に創作活動を
行います。 1952年(昭和27) 東京銀座の資生堂画廊で、「第一回創作工芸展」を開催し、
工芸界に新風を巻き起こします。以後その輪を全国に広げ、同調者を増やすと共に、
四国高松や北陸の高岡などでも展示会を行い、地方の工芸家にも影響を与えます。
) 「生活工芸展」: 朝日新聞社主催の工芸展で、一般公募などで従来の権威に囚われない
若い無名の若手作家達の登竜門になります。工芸を生活に戻し、新しい工夫とデザインで工芸の
価値を高める活動を、新聞社も応援する事に成ります。
) 「国際工芸美術協会」: 1955年(昭和30) 無名の若手工芸家達数十名が、全国から参加し
この会が組織されます。30歳を超えない若手連中で、熱い情熱を持って工芸界の変革を
旗印にして、運動を展開します。国内だけでなく、国際的視野に立ち、世界でも通用できる
工芸を目指して活動する様に成ります。
この運動は当時の工芸界に大きな刺激を与える事に成ります。
又、機関誌「クラフトデザイン」を発行し、彼らの主張を述べています。
) 「日本デザイナークラフトマン協会」: 1956年 進歩的なデザインを目指す工芸家達により
協会が設立されます。中心的なメンバーは、前記「創作工芸協会」の人達です。
彼らは、芸術作品の製作と発表を中心にした今までの方向から、生産地と関わりを
持ちながら、職能人として、生活に密着したクラフトマンとして歩む様になり、共鳴する
人々も増えてゆきます。
2) クラフト運動に積極的に関わった人物
① 富本憲吉: 30年代の初期に起こったクラフト運動に理解を示し、自らも製作した代表的な
人物です。彼は、当時すでに陶芸界の重鎮で、大きな影響力を持っていました。
) 「工芸家は常に大衆の生活に役立つ美しい作品を作らなければならない。そして工芸は芸術で
あるとともに生活に奉任するものだ」との信念で、戦前より自ら製作していました。
) クラフト工芸運動が起こると、陶磁器分野のモデルケースとして、自らデザインし京都の
八坂工芸に製作させます。この作品は現在でも優れたクラフト作品として愛用されているそうです。
② 「京都クラフト協会」: 京都にクラフト運動の動きが伝わると、京都でも積極的に取り組み
ます。京都在住の辻晋六、山田光、河島浩三、叶敏、原照夫などの人々は、製作のみで
無く、窯元にも運動を呼びかけます。初代理事長に辻晋六氏が推されます。
彼は、近代的なデザイン感覚の食器類を生産し、若い陶工を指導します。
) 「京都クラフトセンター」の設立。辻氏は京都市の協力で、五条坂に設立し、ここを拠点に
京都の陶磁器界に、新たなクラフト作品を提供する様に成ります。
同時に「京都クラフトデザイン展」を毎年実施し、若い陶工達が参加、発表の場を作ります。
この事が、クラフト製品の生産と流通に結び付き、定着して行きます。
) グループ「新陶人」の結成。上記若手クラフトマンが自発的に集まり、結成したもので、
リーダーは走泥社の山田光、河島浩三、叫敏氏達です。
) 若手以外の人達も、クラフト作品を製作しています。
内田邦夫氏(後日取り上げる予定)もその一人で、モダンな白磁の食卓用品を手掛け、
高い評価を受けています。
③ 美濃、多治見のクラフト運動
以下次回に続きます。
参考文献: 現代日本の陶芸 第12巻 月報5(現代陶芸とクラフト)(株)講談社
米国で陶芸の手解き受け、帰国後辻清明氏や江崎一生氏に師事し、黒釉の食器類を作り、世界的に
活躍している陶芸家に、 愛知県岡崎市在住の渡邊朝子氏がいます。
1) 渡邊 朝子(わたなべ あさこ) : 1930年(昭和5) ~
① 経歴
) 台湾台北市明石町で、外交官の森新一の子として生まれます。
) 1953年 女子美術大学 図案化を卒業します。
1960年 結婚と共に、渡米し夫のニューヨーク滞在中に、米国ブルックリン美術学校陶芸科で、
許家光(ユーイカコン)教授より陶芸を学び、陶芸家を目指す様になります。
その後、帰国して辻清明、辻協氏に師事し、更に常滑の江崎一生氏に師事し、轆轤技術と
窖窯の指導を受けます。
) 1965年 東京杉並に還元焼成が出来る、電気窯「泉窯」を設置し、陶芸家として独立します。
信楽の原土を使い、灰釉を掛け還元焼成した大壺や、食器などを作っています。
1969年 「一水会陶芸展」で「黒釉かけわけ角切大皿」が、会長賞の候補になり、陶芸家として
注目を集める様に成ります。
尚、この黒釉が、以後の独自の作風を確立する契機に成ります。
1970 第9回国際ビエンナーレ陶芸展(ワシントン・スミソニアン美術館)で入選します。
) 1974年 第二十一回日本伝統工芸展で、「黒釉朱彩組鉢」が初入選を果たします。
その後も、同展で連続して入選しています。
1978年 西ドイツで個展を開催したのを始め、ハワイ、ヨーロッパ各国で個展を開催します。
1982年 愛知県岡崎市に、中国古窯様式の薪窯(蛇窯)を築き、工房を移します。
) 2002年 朝日陶芸展に入選、2010年 二科展彫刻部に人型作品2点が入選、2011年 中部二科展
彫刻部に人型作品が入選を果たすなど活躍が続きます。
② 渡邊朝子氏の陶芸
初期の作品は、常滑や信楽の土を使い、須恵器風の自然釉の壺や花生、食器類を製作しています。
東京杉並に「泉窯」を設けた頃から、電気窯による黒釉や栗茶色の釉を用いて、組鉢や角皿、壺、
茶器を作ります。
) 黒釉(鉄釉)は渡邊氏の代表的な釉です。
中国の優れた黒釉は酸化焼成によって焼かれる事を、書物で知り電気窯に打って付けな事を
知ります。そこで電気窯の酸化焼成で、優れた黒釉を作るべく努力を重ね、遂に完成させます。
a) 「艶の無いマット肌の黒釉」: 長石、石灰、タルク、紅殻(弁柄)を調合して造ります。
b) 「艶のあるモスグリーン色の黒釉」: 長石、石灰、紅殻と純度の高い玉鋼を加えて調合します。
c) 「栗茶色の鉄釉」: 雑木灰(土灰)、長石、紅殻で調合。
d) 「艶のある梨地肌の黒釉」: 上記c)の釉の上に、柞(いす)灰と長石を調合した透明釉を
掛ける。注:柞灰は鉄分の少ない為、透明用に良く使われる灰です。
これらの釉を単体又は、掛け分ける事により釉調に変化が出ます。
更に、赤絵や金彩、銀彩を施す事で、新様式の表現としました。
「黒釉掛分 金銀彩大皿」(1980)、「黒釉掛分 組小鉢」(1981)、)、「黒釉掛分大鉢」(1982)
「鉄釉朱彩大鉢」(1978)、「鉄釉皿」(1971)、などの作品があります。
) 磁器土による作品
米国からの帰国直後に、九州有田の岩尾磁器の工場で、磁器土での轆轤作業や、陶壁などの
製作を手掛けています。特に1982年 岡崎に中国風の徳利型の薪窯を築いて焼成した、
「磁器土 窯変高杯」(1982)、「磁土透文鉢」(1982)の作品は、柔らかな自然釉の磁肌に
焼上がっています。
) 青白磁の作品
電気窯で還元焼成している様です。釉は長石、柞灰と少量の藁灰を混ぜたものです。
中国北宋時代の影青(いんちん=青白磁)の影響か、片身彫りや櫛目の技法が取られています。
「青白磁 流水文鉢」(1979)等の作品があります。
渡邊朝子氏の作品は、国際交流基金、外務省、菊池コレクション、台湾、ドイツ、スウェーデン
王立東洋館、イスラエル日本館、愛知県陶磁資料館、岡崎市世界こども美術館等に
収蔵されています。
次回(クラフトについて)に続きます。
活躍している陶芸家に、 愛知県岡崎市在住の渡邊朝子氏がいます。
1) 渡邊 朝子(わたなべ あさこ) : 1930年(昭和5) ~
① 経歴
) 台湾台北市明石町で、外交官の森新一の子として生まれます。
) 1953年 女子美術大学 図案化を卒業します。
1960年 結婚と共に、渡米し夫のニューヨーク滞在中に、米国ブルックリン美術学校陶芸科で、
許家光(ユーイカコン)教授より陶芸を学び、陶芸家を目指す様になります。
その後、帰国して辻清明、辻協氏に師事し、更に常滑の江崎一生氏に師事し、轆轤技術と
窖窯の指導を受けます。
) 1965年 東京杉並に還元焼成が出来る、電気窯「泉窯」を設置し、陶芸家として独立します。
信楽の原土を使い、灰釉を掛け還元焼成した大壺や、食器などを作っています。
1969年 「一水会陶芸展」で「黒釉かけわけ角切大皿」が、会長賞の候補になり、陶芸家として
注目を集める様に成ります。
尚、この黒釉が、以後の独自の作風を確立する契機に成ります。
1970 第9回国際ビエンナーレ陶芸展(ワシントン・スミソニアン美術館)で入選します。
) 1974年 第二十一回日本伝統工芸展で、「黒釉朱彩組鉢」が初入選を果たします。
その後も、同展で連続して入選しています。
1978年 西ドイツで個展を開催したのを始め、ハワイ、ヨーロッパ各国で個展を開催します。
1982年 愛知県岡崎市に、中国古窯様式の薪窯(蛇窯)を築き、工房を移します。
) 2002年 朝日陶芸展に入選、2010年 二科展彫刻部に人型作品2点が入選、2011年 中部二科展
彫刻部に人型作品が入選を果たすなど活躍が続きます。
② 渡邊朝子氏の陶芸
初期の作品は、常滑や信楽の土を使い、須恵器風の自然釉の壺や花生、食器類を製作しています。
東京杉並に「泉窯」を設けた頃から、電気窯による黒釉や栗茶色の釉を用いて、組鉢や角皿、壺、
茶器を作ります。
) 黒釉(鉄釉)は渡邊氏の代表的な釉です。
中国の優れた黒釉は酸化焼成によって焼かれる事を、書物で知り電気窯に打って付けな事を
知ります。そこで電気窯の酸化焼成で、優れた黒釉を作るべく努力を重ね、遂に完成させます。
a) 「艶の無いマット肌の黒釉」: 長石、石灰、タルク、紅殻(弁柄)を調合して造ります。
b) 「艶のあるモスグリーン色の黒釉」: 長石、石灰、紅殻と純度の高い玉鋼を加えて調合します。
c) 「栗茶色の鉄釉」: 雑木灰(土灰)、長石、紅殻で調合。
d) 「艶のある梨地肌の黒釉」: 上記c)の釉の上に、柞(いす)灰と長石を調合した透明釉を
掛ける。注:柞灰は鉄分の少ない為、透明用に良く使われる灰です。
これらの釉を単体又は、掛け分ける事により釉調に変化が出ます。
更に、赤絵や金彩、銀彩を施す事で、新様式の表現としました。
「黒釉掛分 金銀彩大皿」(1980)、「黒釉掛分 組小鉢」(1981)、)、「黒釉掛分大鉢」(1982)
「鉄釉朱彩大鉢」(1978)、「鉄釉皿」(1971)、などの作品があります。
) 磁器土による作品
米国からの帰国直後に、九州有田の岩尾磁器の工場で、磁器土での轆轤作業や、陶壁などの
製作を手掛けています。特に1982年 岡崎に中国風の徳利型の薪窯を築いて焼成した、
「磁器土 窯変高杯」(1982)、「磁土透文鉢」(1982)の作品は、柔らかな自然釉の磁肌に
焼上がっています。
) 青白磁の作品
電気窯で還元焼成している様です。釉は長石、柞灰と少量の藁灰を混ぜたものです。
中国北宋時代の影青(いんちん=青白磁)の影響か、片身彫りや櫛目の技法が取られています。
「青白磁 流水文鉢」(1979)等の作品があります。
渡邊朝子氏の作品は、国際交流基金、外務省、菊池コレクション、台湾、ドイツ、スウェーデン
王立東洋館、イスラエル日本館、愛知県陶磁資料館、岡崎市世界こども美術館等に
収蔵されています。
次回(クラフトについて)に続きます。
轆轤作業が男の仕事とされていた時代に、女流陶芸家としての道を切り開いてきたのが辻協さんです。
(名前から、女性と判断されない様に、「協」一文字にしたそうです。)
現在では、電動轆轤が普及し、自分の手足で回転させる事も無くなりましたが、当時は大変な力仕事で
女性で轆轤作業をする人は、ほとんどいなかったそうです。
1) 辻 協(つじ きょう 本名協子=きょうこ): 1930年(昭和5)~ 2008年(平成20年)享年77歳。
① 経歴
) 東京都品川区上大崎長者丸で、和田茂氏の次女として生まれます。
1948年 神奈川県立平塚高校を卒業後、東京女子美術専門学校洋画科に入学し、1952年に
同校を卒業します。
同年新工人会員になり、会の創立者である陶芸家の辻清明氏と知り合います。
) 1953年 清明氏と結婚し、陶芸を始める様になります。又 同年光風会工芸部でガラス絵と
陶板が入選します。
1955年 現代生活工芸協会員になります。同年 東京都多摩市連光寺に登窯を築き、
「辻陶器工房」を設立し、以後この地を拠点として、清明氏と共に作家活動を続けます。
) 1956年 「現代生活展」(朝日新聞社主催)に出品します。
1961年 東京日本橋三越の「国際女流陶芸展」に招待出品します。
招待出品は辻協さんのみで、この事が陶芸家として注目を集める切っ掛けになります。
1962年 女流作家だけの「めだか」会を結成し、銀座の画廊で作陶展を行います。
同年 東京三越で「辻清明・協二人展」を開催しています。
1965年 「現代国際工芸展」(東京国立近代美術館・朝日新聞社共催)に招待出品します。
) その後も銀座松屋、五島美術館(東京)、ボストン美術館(シドニー)、京都近代美術館など
多くの展示会や会場に出品しています。
尚、1969年には「信楽大鉢・月光」が、東京近代美術館の買上となっています。
1970年に女性としては初めての、日本陶磁協会賞を受賞します。
② 辻協さんの陶芸
作品は信楽焼風の、主に手作りによる、料理を盛る食器作りが中心でした。
) 焼締: 信楽の原土の大粒の長石(ハゼ石)を取り除き、一年間以上寝かせた土を使います。
焼成は素焼きをせず、登窯で1300℃程度の高温の酸化焔で焼成しています。薪は松のみ使用
するとの事です。
) 自然釉の作品では、備前焼の牡丹餅や火襷などの手法を取っています。(1956年頃から
備前焼の藤原啓氏の元へ、度々訪問している事も大きく影響していると思われます。)
a) 牡丹餅文様の着け方にも、工夫が見られます。
内側(見込)底に大きな牡丹餅がある、「信楽大鉢・月光」(径49.8cm、東京近代美術館)、
「焼締大鉢・菊菱」(1980)等の作品や、見込みにドーナツ状の環がある「自然釉貝紋大鉢・
炎の華」(1973)等の作品、 花びら風に八個の牡丹餅がある、「輪花大鉢・炎花」
(径46、1975年)、環状の牡丹餅を四個ずつ二段に平行に置いた「陶盤」(1973年)、
更には、割り箸状の平行文様の「焼締板皿・武菱」(1980)などの作品があります。
b) 火襷文様: 藁(わら)を巻き付けて、緋色を出す備前焼の技法も取り入れています。
「盤・蝶」(1973)は、火襷の上に次に述べる白椿釉で、蝶の形を現している様に見えます。
) 白椿釉: 八丈島に自生する椿(つばき)を使った灰釉です。
草木灰を釉に使う場合には、必ず灰汁(あく)抜きをする必要があります。
何度も水を替え、有害なアルカリ塩分を除去します。
(この灰は、特産の黄八丈の染色に使われているものと同じものです。)
この灰に、長石とカオリン(白土)を混ぜ調合します。
色調は、ピンク掛かった半光沢のある白い色と成ります。
作品に、「白椿釉入子・玉椿」(1975)、「白椿釉亀甲入子」(1977)、「椿釉貝紋向付・菊菱」
(1980)などの食器(皿)があります。注:入子(いれこ)とは相似形の作品を、大きな物から
順次小さい物へと、重ね合わせに出来る状態を言います。
(収納場所を取らない工夫に成っています。)
尚、夫の辻清明は2008年4月15日に亡くなり、約3カ月後の7月8日に夫と同じ肝臓がんで死去します。
次回(渡邊朝子氏)に続きます。
(名前から、女性と判断されない様に、「協」一文字にしたそうです。)
現在では、電動轆轤が普及し、自分の手足で回転させる事も無くなりましたが、当時は大変な力仕事で
女性で轆轤作業をする人は、ほとんどいなかったそうです。
1) 辻 協(つじ きょう 本名協子=きょうこ): 1930年(昭和5)~ 2008年(平成20年)享年77歳。
① 経歴
) 東京都品川区上大崎長者丸で、和田茂氏の次女として生まれます。
1948年 神奈川県立平塚高校を卒業後、東京女子美術専門学校洋画科に入学し、1952年に
同校を卒業します。
同年新工人会員になり、会の創立者である陶芸家の辻清明氏と知り合います。
) 1953年 清明氏と結婚し、陶芸を始める様になります。又 同年光風会工芸部でガラス絵と
陶板が入選します。
1955年 現代生活工芸協会員になります。同年 東京都多摩市連光寺に登窯を築き、
「辻陶器工房」を設立し、以後この地を拠点として、清明氏と共に作家活動を続けます。
) 1956年 「現代生活展」(朝日新聞社主催)に出品します。
1961年 東京日本橋三越の「国際女流陶芸展」に招待出品します。
招待出品は辻協さんのみで、この事が陶芸家として注目を集める切っ掛けになります。
1962年 女流作家だけの「めだか」会を結成し、銀座の画廊で作陶展を行います。
同年 東京三越で「辻清明・協二人展」を開催しています。
1965年 「現代国際工芸展」(東京国立近代美術館・朝日新聞社共催)に招待出品します。
) その後も銀座松屋、五島美術館(東京)、ボストン美術館(シドニー)、京都近代美術館など
多くの展示会や会場に出品しています。
尚、1969年には「信楽大鉢・月光」が、東京近代美術館の買上となっています。
1970年に女性としては初めての、日本陶磁協会賞を受賞します。
② 辻協さんの陶芸
作品は信楽焼風の、主に手作りによる、料理を盛る食器作りが中心でした。
) 焼締: 信楽の原土の大粒の長石(ハゼ石)を取り除き、一年間以上寝かせた土を使います。
焼成は素焼きをせず、登窯で1300℃程度の高温の酸化焔で焼成しています。薪は松のみ使用
するとの事です。
) 自然釉の作品では、備前焼の牡丹餅や火襷などの手法を取っています。(1956年頃から
備前焼の藤原啓氏の元へ、度々訪問している事も大きく影響していると思われます。)
a) 牡丹餅文様の着け方にも、工夫が見られます。
内側(見込)底に大きな牡丹餅がある、「信楽大鉢・月光」(径49.8cm、東京近代美術館)、
「焼締大鉢・菊菱」(1980)等の作品や、見込みにドーナツ状の環がある「自然釉貝紋大鉢・
炎の華」(1973)等の作品、 花びら風に八個の牡丹餅がある、「輪花大鉢・炎花」
(径46、1975年)、環状の牡丹餅を四個ずつ二段に平行に置いた「陶盤」(1973年)、
更には、割り箸状の平行文様の「焼締板皿・武菱」(1980)などの作品があります。
b) 火襷文様: 藁(わら)を巻き付けて、緋色を出す備前焼の技法も取り入れています。
「盤・蝶」(1973)は、火襷の上に次に述べる白椿釉で、蝶の形を現している様に見えます。
) 白椿釉: 八丈島に自生する椿(つばき)を使った灰釉です。
草木灰を釉に使う場合には、必ず灰汁(あく)抜きをする必要があります。
何度も水を替え、有害なアルカリ塩分を除去します。
(この灰は、特産の黄八丈の染色に使われているものと同じものです。)
この灰に、長石とカオリン(白土)を混ぜ調合します。
色調は、ピンク掛かった半光沢のある白い色と成ります。
作品に、「白椿釉入子・玉椿」(1975)、「白椿釉亀甲入子」(1977)、「椿釉貝紋向付・菊菱」
(1980)などの食器(皿)があります。注:入子(いれこ)とは相似形の作品を、大きな物から
順次小さい物へと、重ね合わせに出来る状態を言います。
(収納場所を取らない工夫に成っています。)
尚、夫の辻清明は2008年4月15日に亡くなり、約3カ月後の7月8日に夫と同じ肝臓がんで死去します。
次回(渡邊朝子氏)に続きます。
西ドイツに生まれ、現在茨城県久慈郡大子町(だいごまち)に、窯を築き国内外で高い評価を受けている
陶芸家に、ゲルト・クナッパー氏がいます。
1) ゲルト・クナッパー : 1943年(昭和18) ~
① 経歴
) 西ドイツ・ヴッパーターに生まれます。当地の美術学校で、デッサンや陶器を学びます。
17歳の時、ヨーロッパや米国、インド、東南アジアなど世界各地へ、シッチハイクの旅に
出ます。日本へ来るまで6年を費やしています。 目的はそれぞれの国々の古い歴史や、
文化遺産を自分の目で確かめる事と、彼は述べています。
) 1966年 船でニューヨークから横浜へ渡ります。(その間、船で働いていた様です。)
ニュウヨークの知人を通し、名古屋の教師を紹介され、更に加藤唐九郎を知る事になります。
唐九郎の縁で、瀬戸の鈴木清々に師事する事に成ります。
その後も、本国に帰国したり、英国に渡たりしています。
) 英国で、バーナード・リーチから紹介状を貰い、再来日し、益子の島岡達三氏の指導を
受ける事になります。益子では塚本製陶所で修行を重ね、1969年に、益子で自分の重油窯を
築き、独立します。
) 1971年 第一回日本工芸展(毎日新聞社創刊百年記念)の、一般公募部門の第一部(伝統の
陶技による作家の一品製作で、使途を有しているもの)で、「デコラティヴプレート」が
優秀作品賞の文部大臣賞を受賞します。この受賞により、彼は一躍名を馳せます。
注:、「デコラティヴプレート」は径が56cm、高さ14cmの平鉢で、見込みには、備前焼風の
牡丹餅と呼ばれる、丸い抜け文様が見られます。自然釉の様に見える窯変も、人工的に長石と
灰と塩を調合したものを、振り掛けたそうです。
) 1972年 現代日本陶芸アメリカ・カナダ巡回展に出品し、同年西独で個展を四回開きます。
又、伝統工芸新作展で「縄文式花器」が入選を果たします。
その後も、中日国際陶芸展、西独大作家展(於英国)、イタリア国際陶芸展、 ミュンヘン国際工芸
博覧会などに、出品を重ね、海外でも活躍しています。
尚、国内外の美術館、公共施設等で作品がコレクションされています。
) 1975年 茨城県大子町(袋田の瀧に近い場所)に移住します。空家であった豪壮な古民家の屋敷を
改装します。ここに窯を築き、前の持ち主の太郎坂家の名を取り、太郎坂窯と名付けます。
以降この地を根拠として、作家活動を続けます。
② ゲルト・クナパー氏の陶芸
彼の作品は、現代生活における、インテリアとして使われる事を前提にした物です。
作風としては、渦巻き文や同心円状に深く彫り込んだ文様や、皿や壺に蝋抜き技法による作品や、
板作りによる花瓶などの他、磁器の作品にも挑戦しています。
) 彫込文の作品
厚めに轆轤挽きした作品に、彫刻刀などを用いて、同心円文や、放射状文を深く彫り込んだ
作品です。縄文土器を思い出させる、ダイナミックな作品です。
「灰釉菊文皿」(1979)、「灰釉青海波文変形鉢」(1982)、「灰釉青海波文大飾皿」(1982)、
「灰釉青海波文削文花瓶」(1981)、「白磁青海波削文花瓶」(1981) 等の作品があります。
) 蝋抜きの作品
素焼きした作品に蝋を塗り、釉を弾かせ部分的に施釉しない方法です。
渦巻き文や波紋などのシンプルな文様が多いです。
「灰釉渦巻文大飾皿」(1975)、「灰釉波模様一輪挿」(1978)、)、「灰釉波文変形花瓶」(1981)
「板作波文三角花瓶」(1982)などの作品があります。
) 灰釉、灰被焼締
灰被は、人工的に行っています。松灰を「ふのりと水」に溶いて素焼きに塗る方法と、
「ふのり」を作品に塗ってから、松灰を降り掛ける方法を取っています。
彼は。プロパンガス窯と、南朝鮮風の登窯、塩釉用の窯を持ち、ガス窯か登窯で焼成しています。
) コバルト釉を用いた作品
彼の作品は、灰釉を基本にし、色釉として酸化コバルトを0.2%混ぜた青色を呈するコバルト釉を
作品に筋(線)状に流し掛けて文様を付けています。
「コバルト流掛釉変形花瓶」(1980)、「灰釉・コバルト釉・鉄釉流掛水指」(1982)などの
作品があります。
) 彼の作品は、洋の東西の文化が融合させ、その調和の良さが見所となっています。
近年は、陶芸の枠を超えて、ブロンズなどのオブジェにも進出しているそうです。
・ 尚、2010年 開窯40周年記念 ゲルト・クナッパー作陶展が、水戸京成百貨店アートギャラリー
1・2で開催されました。
次回(辻協氏)に続きます。
陶芸家に、ゲルト・クナッパー氏がいます。
1) ゲルト・クナッパー : 1943年(昭和18) ~
① 経歴
) 西ドイツ・ヴッパーターに生まれます。当地の美術学校で、デッサンや陶器を学びます。
17歳の時、ヨーロッパや米国、インド、東南アジアなど世界各地へ、シッチハイクの旅に
出ます。日本へ来るまで6年を費やしています。 目的はそれぞれの国々の古い歴史や、
文化遺産を自分の目で確かめる事と、彼は述べています。
) 1966年 船でニューヨークから横浜へ渡ります。(その間、船で働いていた様です。)
ニュウヨークの知人を通し、名古屋の教師を紹介され、更に加藤唐九郎を知る事になります。
唐九郎の縁で、瀬戸の鈴木清々に師事する事に成ります。
その後も、本国に帰国したり、英国に渡たりしています。
) 英国で、バーナード・リーチから紹介状を貰い、再来日し、益子の島岡達三氏の指導を
受ける事になります。益子では塚本製陶所で修行を重ね、1969年に、益子で自分の重油窯を
築き、独立します。
) 1971年 第一回日本工芸展(毎日新聞社創刊百年記念)の、一般公募部門の第一部(伝統の
陶技による作家の一品製作で、使途を有しているもの)で、「デコラティヴプレート」が
優秀作品賞の文部大臣賞を受賞します。この受賞により、彼は一躍名を馳せます。
注:、「デコラティヴプレート」は径が56cm、高さ14cmの平鉢で、見込みには、備前焼風の
牡丹餅と呼ばれる、丸い抜け文様が見られます。自然釉の様に見える窯変も、人工的に長石と
灰と塩を調合したものを、振り掛けたそうです。
) 1972年 現代日本陶芸アメリカ・カナダ巡回展に出品し、同年西独で個展を四回開きます。
又、伝統工芸新作展で「縄文式花器」が入選を果たします。
その後も、中日国際陶芸展、西独大作家展(於英国)、イタリア国際陶芸展、 ミュンヘン国際工芸
博覧会などに、出品を重ね、海外でも活躍しています。
尚、国内外の美術館、公共施設等で作品がコレクションされています。
) 1975年 茨城県大子町(袋田の瀧に近い場所)に移住します。空家であった豪壮な古民家の屋敷を
改装します。ここに窯を築き、前の持ち主の太郎坂家の名を取り、太郎坂窯と名付けます。
以降この地を根拠として、作家活動を続けます。
② ゲルト・クナパー氏の陶芸
彼の作品は、現代生活における、インテリアとして使われる事を前提にした物です。
作風としては、渦巻き文や同心円状に深く彫り込んだ文様や、皿や壺に蝋抜き技法による作品や、
板作りによる花瓶などの他、磁器の作品にも挑戦しています。
) 彫込文の作品
厚めに轆轤挽きした作品に、彫刻刀などを用いて、同心円文や、放射状文を深く彫り込んだ
作品です。縄文土器を思い出させる、ダイナミックな作品です。
「灰釉菊文皿」(1979)、「灰釉青海波文変形鉢」(1982)、「灰釉青海波文大飾皿」(1982)、
「灰釉青海波文削文花瓶」(1981)、「白磁青海波削文花瓶」(1981) 等の作品があります。
) 蝋抜きの作品
素焼きした作品に蝋を塗り、釉を弾かせ部分的に施釉しない方法です。
渦巻き文や波紋などのシンプルな文様が多いです。
「灰釉渦巻文大飾皿」(1975)、「灰釉波模様一輪挿」(1978)、)、「灰釉波文変形花瓶」(1981)
「板作波文三角花瓶」(1982)などの作品があります。
) 灰釉、灰被焼締
灰被は、人工的に行っています。松灰を「ふのりと水」に溶いて素焼きに塗る方法と、
「ふのり」を作品に塗ってから、松灰を降り掛ける方法を取っています。
彼は。プロパンガス窯と、南朝鮮風の登窯、塩釉用の窯を持ち、ガス窯か登窯で焼成しています。
) コバルト釉を用いた作品
彼の作品は、灰釉を基本にし、色釉として酸化コバルトを0.2%混ぜた青色を呈するコバルト釉を
作品に筋(線)状に流し掛けて文様を付けています。
「コバルト流掛釉変形花瓶」(1980)、「灰釉・コバルト釉・鉄釉流掛水指」(1982)などの
作品があります。
) 彼の作品は、洋の東西の文化が融合させ、その調和の良さが見所となっています。
近年は、陶芸の枠を超えて、ブロンズなどのオブジェにも進出しているそうです。
・ 尚、2010年 開窯40周年記念 ゲルト・クナッパー作陶展が、水戸京成百貨店アートギャラリー
1・2で開催されました。
次回(辻協氏)に続きます。
東日本で最大の陶器の産地は、栃木県の益子(ましこ)です。現在200~300軒の窯元が有るとさえ
言われています。益子焼は1853年に大塚啓三郎によって創業され、主に台所用品(雑貨)として、土鍋、
土瓶、擂鉢、甕(かめ)などを生産し、関東一円に販売していました。
1924年に民藝の大家、濱田庄司氏が当地に窯を築き、作家活動を始めたのが転機になり、民藝陶器の
生産を行う様になります。濱田氏の指導を得ようと多くの陶芸家が、益子に集まる様になり
現在では、民藝以外の多種多様な作品が作られています。外国の人も大勢作陶しています。
益子の窯元の家に生まれた佐久間藤太郎氏は、濱田氏に師事しながら、益子に留まり益子焼の発展に
寄与していました。
1) 佐久間 藤太郎(さくま とうたろ): 1900年(明治33) ~ 1976年(昭和51)
① 経歴
) 栃木県芳賀郡益子町で、窯元であった佐久間福次郎の長男として生まれます。
) 高等小学校卒業後、益子陶器伝習所で学び、家業の陶器造りに従事します。
) 1924年(大正13年) 濱田庄司氏(当時30歳)は、英国より帰国し、佐久間宅に寄寓し
作陶を行います。その後、濱田氏は益子に登窯を築き、定住する様に成ります。
藤太郎氏は住まいも近い事もあり、濱田氏に師事する事になります。
) 1925年 商工省工芸展工芸展で民芸風の花瓶が入選します。
1927年 国画会工芸部で、入選を果します。
1928年 東京小石川護国寺で初の個展を開催し、同年、板谷波山が主宰する東陶会の会員と
なります。翌年東京田端興楽寺で、個展を開催し板谷波山の知遇を受けます。
その後、東京神田、東京高島屋、神戸大丸、仙台三越、新潟市、宇都宮等で多くの個展を
開催し、作品の販売を行っています。作品は好評で、飛ぶ様に売れたと言われています。
② 佐久間 藤太郎の陶芸
佐久間氏は濱田氏の影響を強く受けます。轆轤技術に長けた佐久間氏は、同一寸法の作品を
大量に挽く事が出来る腕前でした。しかし民藝陶器は寸法や形に囚われず、思ったままを表現する
量産ではない、一品作品で有った為、その魅力に取り付かれます。
) 絵付
釉も自由に使い分けていますが、彼の特徴の一つに鉄絵があります。
筆で描いたり、黒釉や柿釉をスポイトで流し書きしています。「鉄砂笹絵酒器」(1930)、
「白磁草絵鉢」(1931)、「柿釉筒描鉢」(1935)、「色釉流掛大皿」(1948)等の作品があります。
) 刷毛目
刷毛目の技法は早い時期から取り入れ、愛用しています。
大胆な筆使いで、一見落書きの様な自由奔放さを持っています。「白刷毛目文注瓶」(1932)
「牡丹刷毛目深鉢」(1934)、「地掛刷毛目皿」(1948)、「牡丹刷毛目櫛描大皿」(1950)、
「柿刷毛目大皿」(1950)、「柿釉刷毛目花瓶」(1961)等の作品があります。
) 釉は益子伝来の並白(なみじろ)、糠白(ぬかじろ)、柿、黒、飴、益子青磁(緑)と
種類は少ないですが、刷毛目、流掛、スポイト掛などの技法を自由に使いこなしています。
次回(ゲルト・クナッパー氏)に続きます。
言われています。益子焼は1853年に大塚啓三郎によって創業され、主に台所用品(雑貨)として、土鍋、
土瓶、擂鉢、甕(かめ)などを生産し、関東一円に販売していました。
1924年に民藝の大家、濱田庄司氏が当地に窯を築き、作家活動を始めたのが転機になり、民藝陶器の
生産を行う様になります。濱田氏の指導を得ようと多くの陶芸家が、益子に集まる様になり
現在では、民藝以外の多種多様な作品が作られています。外国の人も大勢作陶しています。
益子の窯元の家に生まれた佐久間藤太郎氏は、濱田氏に師事しながら、益子に留まり益子焼の発展に
寄与していました。
1) 佐久間 藤太郎(さくま とうたろ): 1900年(明治33) ~ 1976年(昭和51)
① 経歴
) 栃木県芳賀郡益子町で、窯元であった佐久間福次郎の長男として生まれます。
) 高等小学校卒業後、益子陶器伝習所で学び、家業の陶器造りに従事します。
) 1924年(大正13年) 濱田庄司氏(当時30歳)は、英国より帰国し、佐久間宅に寄寓し
作陶を行います。その後、濱田氏は益子に登窯を築き、定住する様に成ります。
藤太郎氏は住まいも近い事もあり、濱田氏に師事する事になります。
) 1925年 商工省工芸展工芸展で民芸風の花瓶が入選します。
1927年 国画会工芸部で、入選を果します。
1928年 東京小石川護国寺で初の個展を開催し、同年、板谷波山が主宰する東陶会の会員と
なります。翌年東京田端興楽寺で、個展を開催し板谷波山の知遇を受けます。
その後、東京神田、東京高島屋、神戸大丸、仙台三越、新潟市、宇都宮等で多くの個展を
開催し、作品の販売を行っています。作品は好評で、飛ぶ様に売れたと言われています。
② 佐久間 藤太郎の陶芸
佐久間氏は濱田氏の影響を強く受けます。轆轤技術に長けた佐久間氏は、同一寸法の作品を
大量に挽く事が出来る腕前でした。しかし民藝陶器は寸法や形に囚われず、思ったままを表現する
量産ではない、一品作品で有った為、その魅力に取り付かれます。
) 絵付
釉も自由に使い分けていますが、彼の特徴の一つに鉄絵があります。
筆で描いたり、黒釉や柿釉をスポイトで流し書きしています。「鉄砂笹絵酒器」(1930)、
「白磁草絵鉢」(1931)、「柿釉筒描鉢」(1935)、「色釉流掛大皿」(1948)等の作品があります。
) 刷毛目
刷毛目の技法は早い時期から取り入れ、愛用しています。
大胆な筆使いで、一見落書きの様な自由奔放さを持っています。「白刷毛目文注瓶」(1932)
「牡丹刷毛目深鉢」(1934)、「地掛刷毛目皿」(1948)、「牡丹刷毛目櫛描大皿」(1950)、
「柿刷毛目大皿」(1950)、「柿釉刷毛目花瓶」(1961)等の作品があります。
) 釉は益子伝来の並白(なみじろ)、糠白(ぬかじろ)、柿、黒、飴、益子青磁(緑)と
種類は少ないですが、刷毛目、流掛、スポイト掛などの技法を自由に使いこなしています。
次回(ゲルト・クナッパー氏)に続きます。
前回に続き船木道忠氏の話を続けます。
② 船木道忠氏の陶芸
) スリップウエアの再現
スリップとは、化粧土の事で、化粧土が乾かない内に、表面を鳥の羽や藁束、櫛、指などで
引き撫でしたりして化粧土を動かし、文様を付ける技法を、スリップウエアと言います。
英国で発達した技法でしたが、陶磁器の技法発達や大量生産品の普及と共に、廃れたて
しまいます。
a) 1920年 渡英したリーチと濱田庄司は、彼らの窯の近くでスリップウェアの破片を見つけ、
更に現存するスリップウェアを収集し、1924年に濱田氏が日本に持ち帰えります。
b) 1913年 リーチや富本憲吉は東京の丸善書店で「古風な英国陶器」(チャールズ・ロマックス著)の
本の中で、初めてスリップウェアの存在を知ります。その予備知識が有った為、収集した
物と思われます。
c) スリップウエアは、英国のガレナ釉(鉛の硫化物)で施釉されている事が解かると、ガレナ釉を
再現する為、布志名焼の黄釉が参考にされます。
リーチは、好んで布志名の船木家に滞在し、後に船木道忠によって、その技法が解明
される事になります。
20世紀になると、この技法を使う陶芸家やメーカーも多くなって行きます。
2) 船木研児(ふなき けんじ): 1927年(昭和2) ~
① 経歴
) 島根県布志名で、船木道忠氏の長男として生まれます。
) 1944年 島根師範学校に入学するが、母の急死と敗戦により、学業を中退し父を助ける為、
家業の工房で、轆轤技術を学びます。
) 1950年 栃木県益子を訪れ、濱田庄司氏に師事します。同年日本民藝館賞を受けます。
1952年 現代日本陶芸展(朝日新聞社主催)に出品します。
) 1967年より、渡英しリーチ父子を訪れ、研修を受けます。
又、北欧諸国、仏、伊などを旅行し、陶磁器の視察を行っています。
② 船木研児氏の陶芸
) 研児氏の作品も基本的には、父の道忠氏と同様に、黄釉とスリップウエアの技法を使った作品が
多いです。違いとしては、道忠氏が抽象的文様なのに対し、具象的な絵柄を使用している点です。
鳥の絵や鹿、魚、蛸、人物などの文様が多く見られます。
) 作品としては、「黄釉スリップ楕円鉢」(1950)、「黄釉蓋物」(1951)、「泥描黄釉蛸文大鉢」
(1956)、「泥描黄釉鹿絵大鉢」(1956)、「鉄鉛釉押文蓋壺」(1963)、「鉄釉土瓶」(1967)、
「白釉指掻文二彩大皿」(1975)、「淡鉄釉鳩絵大鉢」(1981)、「三彩釉線彫大鉢」(1981)、
などがあります。その中の数点は日本民藝館や倉敷民藝館で、展示されています。
) その他の実用品として、「淡黄釉紅茶碗」、酒盃、湯呑、小皿などの作品があり、
人物や、鹿、鳥、魚などを描いた陶板も作っています。
次回(佐久間 藤太郎氏)に続きます。
② 船木道忠氏の陶芸
) スリップウエアの再現
スリップとは、化粧土の事で、化粧土が乾かない内に、表面を鳥の羽や藁束、櫛、指などで
引き撫でしたりして化粧土を動かし、文様を付ける技法を、スリップウエアと言います。
英国で発達した技法でしたが、陶磁器の技法発達や大量生産品の普及と共に、廃れたて
しまいます。
a) 1920年 渡英したリーチと濱田庄司は、彼らの窯の近くでスリップウェアの破片を見つけ、
更に現存するスリップウェアを収集し、1924年に濱田氏が日本に持ち帰えります。
b) 1913年 リーチや富本憲吉は東京の丸善書店で「古風な英国陶器」(チャールズ・ロマックス著)の
本の中で、初めてスリップウェアの存在を知ります。その予備知識が有った為、収集した
物と思われます。
c) スリップウエアは、英国のガレナ釉(鉛の硫化物)で施釉されている事が解かると、ガレナ釉を
再現する為、布志名焼の黄釉が参考にされます。
リーチは、好んで布志名の船木家に滞在し、後に船木道忠によって、その技法が解明
される事になります。
20世紀になると、この技法を使う陶芸家やメーカーも多くなって行きます。
2) 船木研児(ふなき けんじ): 1927年(昭和2) ~
① 経歴
) 島根県布志名で、船木道忠氏の長男として生まれます。
) 1944年 島根師範学校に入学するが、母の急死と敗戦により、学業を中退し父を助ける為、
家業の工房で、轆轤技術を学びます。
) 1950年 栃木県益子を訪れ、濱田庄司氏に師事します。同年日本民藝館賞を受けます。
1952年 現代日本陶芸展(朝日新聞社主催)に出品します。
) 1967年より、渡英しリーチ父子を訪れ、研修を受けます。
又、北欧諸国、仏、伊などを旅行し、陶磁器の視察を行っています。
② 船木研児氏の陶芸
) 研児氏の作品も基本的には、父の道忠氏と同様に、黄釉とスリップウエアの技法を使った作品が
多いです。違いとしては、道忠氏が抽象的文様なのに対し、具象的な絵柄を使用している点です。
鳥の絵や鹿、魚、蛸、人物などの文様が多く見られます。
) 作品としては、「黄釉スリップ楕円鉢」(1950)、「黄釉蓋物」(1951)、「泥描黄釉蛸文大鉢」
(1956)、「泥描黄釉鹿絵大鉢」(1956)、「鉄鉛釉押文蓋壺」(1963)、「鉄釉土瓶」(1967)、
「白釉指掻文二彩大皿」(1975)、「淡鉄釉鳩絵大鉢」(1981)、「三彩釉線彫大鉢」(1981)、
などがあります。その中の数点は日本民藝館や倉敷民藝館で、展示されています。
) その他の実用品として、「淡黄釉紅茶碗」、酒盃、湯呑、小皿などの作品があり、
人物や、鹿、鳥、魚などを描いた陶板も作っています。
次回(佐久間 藤太郎氏)に続きます。
布志名焼(ふじなやき)は、島根県松江市玉湯町で焼かれる陶器です。
松江藩の御用窯として開かれ、大名茶人の松平不昧公の好みを反映した、茶器類が焼かれていました。
明治末頃に衰退しますが、昭和になりバーナード・リーチや河井寛次郎、浜田庄司らの指導や交流に
よって民藝陶器として復活し、戦後に成って再び活況を呈す様になります。
布志名には、藩窯の流れを汲む「土屋窯」と、大量生産を行う「丸三陶器」、それに船木窯があります。
1) 船木 道忠(ふなき みちただ): 1900年(明治33) ~ 1963年(昭和38)
① 経歴
) 島根県八束郡玉湯村大字布志名で、船木家三代目浅太郎の次男として生まれます。
) 1916年 東京の日本美術学校洋画科に入学し、1921年同校を卒業後、故郷に帰り油絵で個展を
開催しています。又、家業の陶器に絵付けも行いながら、轆轤技術の習得に励みます。
) 1926年 聖徳太子展で「白釉唐草彫文花瓶」が、総裁宮の買上げとなります。
1929年頃、家業の陶器造りに限界を感じ一時松江で、陶器商を営みます。
その店に、倉敷の大原美術館の創設者、大原孫三郎と總一郎父子が立ち寄ります。
その縁で倉敷を訪れ、ペルシャ陶器や中国の古陶磁器を見て衝撃を受けます。
) 1931年 大原親子を自宅の窯に案内します。同年民藝の柳宗悦と河井寛次郎らを自分の窯に
迎え、翌年には濱田庄司が、翌々年にはバーナードリーチも訪れます。
リーチは2週間程滞在し、共に作陶を行っています。この事が道忠に大きな影響を与えます。
彼は陶芸作家として、新境地への意欲が湧き上がります。
) 1935年 東京の「たくみ」で初の個展を開きます。又国画会工芸部の会友になります。
1937年 パリ万国博覧会で角鉢を出品し、金賞を受賞します。
1943年 妻の突然の死により、陶芸に対する意欲を失い、田を耕す生活に入ります。
この時、道忠氏の長男である研児(けんじ)氏が、作陶を志し父を助けます。
その甲斐があって、父も再び作陶に励む様になります。
) 1950年には、岡山県天満屋で父子展を開催しています。以後毎年行う様になります。
1958年からは、東京三越にて父子展を開催し、以後毎年行っていました。
② 船木道忠氏の陶芸
布志名に伝わる黄釉(きぐすり)と、スリップ釉の復活が上げられます。
) 黄釉や青釉(出雲青地)の陶器は、広く世に知られ一時は海外へ盛んに輸出される程の
隆盛を極めていました。しかし明治以降粗悪品が出回り、徐々に衰退して行きます。
その活況を蘇らせたのが、船木氏です。
a) 黄釉は、白鉛を含む鉛釉で、低火度(1200℃)で熔け柔らか味の有る美しい色調に成ります。
(尚、鉛釉は熔けると、鉛ガラスとなり毒性は無いと言われていますが、現在では楽焼以外
ほとんど使用していないはずです。)
b) 江戸後期に島根県の三代(みしろ)で、良質の白い粘土(三代土)が発見され、藩窯専用に
使用され、黄釉を掛け華麗な上絵付を施した作品が作られます。
明治に成ると三代土も一般に開放される様になり、化粧土として使用しています。
白化粧の上に黄釉を掛けた作品を作っています。鉛を含む土は我が国では少ないそうです。
(尚、現在では三代土は使用されていません。)
c) 黄釉は、鉛釉に僅かな鉄を加えて作ります。白化粧した土に施釉すると黄色(オレンジ色)に
発色し、粘土では茶褐色になります。
鉄分を多くすると黒釉になり、銅を加えると緑色に、コバルトでは青色となります。
これらは、土の種類との組み合わせで、千変万化します。
d) 作品としては「黄釉描文水注」(1938)、「黄釉蓋物」(1951)、「黄釉線刻文耳付花瓶」
(1953)、「黄釉線刻文茶碗」(1956)、「黄釉藁描楕円皿」(1957)いずれも日本民藝館蔵
などがあります。
) スリップウエアの再現
次回(船木道忠、研児2)に続きます。
松江藩の御用窯として開かれ、大名茶人の松平不昧公の好みを反映した、茶器類が焼かれていました。
明治末頃に衰退しますが、昭和になりバーナード・リーチや河井寛次郎、浜田庄司らの指導や交流に
よって民藝陶器として復活し、戦後に成って再び活況を呈す様になります。
布志名には、藩窯の流れを汲む「土屋窯」と、大量生産を行う「丸三陶器」、それに船木窯があります。
1) 船木 道忠(ふなき みちただ): 1900年(明治33) ~ 1963年(昭和38)
① 経歴
) 島根県八束郡玉湯村大字布志名で、船木家三代目浅太郎の次男として生まれます。
) 1916年 東京の日本美術学校洋画科に入学し、1921年同校を卒業後、故郷に帰り油絵で個展を
開催しています。又、家業の陶器に絵付けも行いながら、轆轤技術の習得に励みます。
) 1926年 聖徳太子展で「白釉唐草彫文花瓶」が、総裁宮の買上げとなります。
1929年頃、家業の陶器造りに限界を感じ一時松江で、陶器商を営みます。
その店に、倉敷の大原美術館の創設者、大原孫三郎と總一郎父子が立ち寄ります。
その縁で倉敷を訪れ、ペルシャ陶器や中国の古陶磁器を見て衝撃を受けます。
) 1931年 大原親子を自宅の窯に案内します。同年民藝の柳宗悦と河井寛次郎らを自分の窯に
迎え、翌年には濱田庄司が、翌々年にはバーナードリーチも訪れます。
リーチは2週間程滞在し、共に作陶を行っています。この事が道忠に大きな影響を与えます。
彼は陶芸作家として、新境地への意欲が湧き上がります。
) 1935年 東京の「たくみ」で初の個展を開きます。又国画会工芸部の会友になります。
1937年 パリ万国博覧会で角鉢を出品し、金賞を受賞します。
1943年 妻の突然の死により、陶芸に対する意欲を失い、田を耕す生活に入ります。
この時、道忠氏の長男である研児(けんじ)氏が、作陶を志し父を助けます。
その甲斐があって、父も再び作陶に励む様になります。
) 1950年には、岡山県天満屋で父子展を開催しています。以後毎年行う様になります。
1958年からは、東京三越にて父子展を開催し、以後毎年行っていました。
② 船木道忠氏の陶芸
布志名に伝わる黄釉(きぐすり)と、スリップ釉の復活が上げられます。
) 黄釉や青釉(出雲青地)の陶器は、広く世に知られ一時は海外へ盛んに輸出される程の
隆盛を極めていました。しかし明治以降粗悪品が出回り、徐々に衰退して行きます。
その活況を蘇らせたのが、船木氏です。
a) 黄釉は、白鉛を含む鉛釉で、低火度(1200℃)で熔け柔らか味の有る美しい色調に成ります。
(尚、鉛釉は熔けると、鉛ガラスとなり毒性は無いと言われていますが、現在では楽焼以外
ほとんど使用していないはずです。)
b) 江戸後期に島根県の三代(みしろ)で、良質の白い粘土(三代土)が発見され、藩窯専用に
使用され、黄釉を掛け華麗な上絵付を施した作品が作られます。
明治に成ると三代土も一般に開放される様になり、化粧土として使用しています。
白化粧の上に黄釉を掛けた作品を作っています。鉛を含む土は我が国では少ないそうです。
(尚、現在では三代土は使用されていません。)
c) 黄釉は、鉛釉に僅かな鉄を加えて作ります。白化粧した土に施釉すると黄色(オレンジ色)に
発色し、粘土では茶褐色になります。
鉄分を多くすると黒釉になり、銅を加えると緑色に、コバルトでは青色となります。
これらは、土の種類との組み合わせで、千変万化します。
d) 作品としては「黄釉描文水注」(1938)、「黄釉蓋物」(1951)、「黄釉線刻文耳付花瓶」
(1953)、「黄釉線刻文茶碗」(1956)、「黄釉藁描楕円皿」(1957)いずれも日本民藝館蔵
などがあります。
) スリップウエアの再現
次回(船木道忠、研児2)に続きます。
福島県会津若松市近郊の本郷で焼かれている陶磁器を会津本郷焼(ほんごうやき)と呼んでいます。
本郷焼は三百年余りの歴史を有する窯場です。主に陶器と磁器による雑器(生活用品)を造っていました。
その中でも名家の宗像窯の亮一氏は、雑器生産と共に、陶芸作家としても活躍している人です。
1) 宗像 亮一(むなかた りょういち): 1933年(昭和8)~ (宗像窯七代)
① 経歴
) 福島県大沼郡本郷町で、六代宗像豊意の長男として生まれます。
) 1949年 父に師事し陶芸を本格的に始めます。
当初は医者を志ていた様ですが、家の貧苦と母の願いで、父の仕事を継ぐ決心をします。
当時の会津焼も、戦後の社会変動により、焼き物の全体が衰退していました。
) 1954年 柳宗悦、河井寛次郎、濱田庄司、バーナードリーチらが、会津本郷を訪れます。
彼らは本郷焼きに強い関心を寄せます。彼らの訪問は亮一に作家活動に目を向ける発端に
なりました。同年秋には、日本民藝館展に「鰊鉢(にしんはち)」を応用した角鉢を出品し
入選を果します。
) 当時の主な作品は、擂鉢(すりばち)、甕(かめ)、鰊鉢など伝統的に大物を作っていました。
しかし、飾壺や茶碗などが求められ世になり、新商品に活路を見出す必要を痛感します。
駒場の日本民藝館では、作り手と売り手への「アドバイス会」を開いており、亮一氏も
しばしば出席しています。この頃から毎年日本民藝舘展に出品する様になり、1964年には
奨励賞を受賞します。
) 亮一氏が職人から作家へと転進するのは、父の死後で、七代目を継承した1970年頃からです。
1971年 第一回日本陶芸展で、「飴釉白流大平鉢」が毎日新聞社賞を受賞します。
1972年 第一回個展を東京大丸で開催し、同年第十九回日本伝統工芸展で「飴釉白流大鉢」で
入選を果します。
以後、日本工芸展、中日国際陶芸展、伝統工芸新作展、全国工芸品展などに出品し、
数々の賞を受賞しています。
② 宗像 亮一氏の陶芸
) 初期の作品は本郷焼の伝統的な技法による、大物の作品です。
a) 本郷焼で使う土は、近くの白鳳山から産出する、砂分が多く粘りの強い土(的場土)です。
これを他の土と混ぜ腰の強い土とし、大物や小物を造るとしっかり焼締り、釉の発色も
良くなるそうです。
b) 手廻し轆轤で、高さ50cm以上の大甕や、大皿などを楽々と轆轤挽きしています。
「鰊鉢」はタタラ造りで、木型に入れて土を貼り合せ、接合部には拠り紐土で補強して
造ります。作品は伝統的な登窯で主に酸化焼成しています。
c) 釉は主に飴(アメ)釉で、ブナや楢(ナラ)などの木灰(いわゆる土灰)で、これに会津若松市
八日町産の鉄分の多い赤土を混ぜて造ります。赤土を多くすると黒(鉄)釉になり、
少ないと、明るい茶色になります。
d) 本郷焼の特徴は、この飴釉に白釉が全体又は、部分的に掛けられている事です。
この白釉の掛け方によって、作品の表情が大きく変化します。以下の方法があります。
イ) ザブ掛け: 作品全体又は半分を、一気に漬ける方法
ロ) 浸し掛け: 作品の一部を浸す方法
ハ) 土瓶掛け: 土瓶を使い任意の場所に垂れ流す方法
ニ) ひっ掛け: 柄杓や湯呑で勢い良く、作品にぶつける方法
ホ) 流し掛け: 柄杓を使い少しずつ流す方法
) 新開発した作品: 従来本郷焼きでは造られていなかった(造られても僅か)作品です。
花器、茶器、急須、徳利、コーヒーカップ、ピッチャー(水差し)、灰皿などの作品群です。
1970年代には、窯変、辰砂、結晶釉など従来にない釉にも挑戦しています。
) 代表的な作品としては、「飴釉白流壺」(1972)、「土灰釉辰砂壺」(1973)、「黒飴釉白掛手付鉢」
(1980 富山市民会館蔵)「黒飴釉白掛大鉢」(1981)、「飴釉白流蓋付大甕」(1982)
「白釉青流大切立甕」(1982)、「白流青流鰊鉢」(1982)等があります。
次回(船木 道忠、研児氏)に続きます。
本郷焼は三百年余りの歴史を有する窯場です。主に陶器と磁器による雑器(生活用品)を造っていました。
その中でも名家の宗像窯の亮一氏は、雑器生産と共に、陶芸作家としても活躍している人です。
1) 宗像 亮一(むなかた りょういち): 1933年(昭和8)~ (宗像窯七代)
① 経歴
) 福島県大沼郡本郷町で、六代宗像豊意の長男として生まれます。
) 1949年 父に師事し陶芸を本格的に始めます。
当初は医者を志ていた様ですが、家の貧苦と母の願いで、父の仕事を継ぐ決心をします。
当時の会津焼も、戦後の社会変動により、焼き物の全体が衰退していました。
) 1954年 柳宗悦、河井寛次郎、濱田庄司、バーナードリーチらが、会津本郷を訪れます。
彼らは本郷焼きに強い関心を寄せます。彼らの訪問は亮一に作家活動に目を向ける発端に
なりました。同年秋には、日本民藝館展に「鰊鉢(にしんはち)」を応用した角鉢を出品し
入選を果します。
) 当時の主な作品は、擂鉢(すりばち)、甕(かめ)、鰊鉢など伝統的に大物を作っていました。
しかし、飾壺や茶碗などが求められ世になり、新商品に活路を見出す必要を痛感します。
駒場の日本民藝館では、作り手と売り手への「アドバイス会」を開いており、亮一氏も
しばしば出席しています。この頃から毎年日本民藝舘展に出品する様になり、1964年には
奨励賞を受賞します。
) 亮一氏が職人から作家へと転進するのは、父の死後で、七代目を継承した1970年頃からです。
1971年 第一回日本陶芸展で、「飴釉白流大平鉢」が毎日新聞社賞を受賞します。
1972年 第一回個展を東京大丸で開催し、同年第十九回日本伝統工芸展で「飴釉白流大鉢」で
入選を果します。
以後、日本工芸展、中日国際陶芸展、伝統工芸新作展、全国工芸品展などに出品し、
数々の賞を受賞しています。
② 宗像 亮一氏の陶芸
) 初期の作品は本郷焼の伝統的な技法による、大物の作品です。
a) 本郷焼で使う土は、近くの白鳳山から産出する、砂分が多く粘りの強い土(的場土)です。
これを他の土と混ぜ腰の強い土とし、大物や小物を造るとしっかり焼締り、釉の発色も
良くなるそうです。
b) 手廻し轆轤で、高さ50cm以上の大甕や、大皿などを楽々と轆轤挽きしています。
「鰊鉢」はタタラ造りで、木型に入れて土を貼り合せ、接合部には拠り紐土で補強して
造ります。作品は伝統的な登窯で主に酸化焼成しています。
c) 釉は主に飴(アメ)釉で、ブナや楢(ナラ)などの木灰(いわゆる土灰)で、これに会津若松市
八日町産の鉄分の多い赤土を混ぜて造ります。赤土を多くすると黒(鉄)釉になり、
少ないと、明るい茶色になります。
d) 本郷焼の特徴は、この飴釉に白釉が全体又は、部分的に掛けられている事です。
この白釉の掛け方によって、作品の表情が大きく変化します。以下の方法があります。
イ) ザブ掛け: 作品全体又は半分を、一気に漬ける方法
ロ) 浸し掛け: 作品の一部を浸す方法
ハ) 土瓶掛け: 土瓶を使い任意の場所に垂れ流す方法
ニ) ひっ掛け: 柄杓や湯呑で勢い良く、作品にぶつける方法
ホ) 流し掛け: 柄杓を使い少しずつ流す方法
) 新開発した作品: 従来本郷焼きでは造られていなかった(造られても僅か)作品です。
花器、茶器、急須、徳利、コーヒーカップ、ピッチャー(水差し)、灰皿などの作品群です。
1970年代には、窯変、辰砂、結晶釉など従来にない釉にも挑戦しています。
) 代表的な作品としては、「飴釉白流壺」(1972)、「土灰釉辰砂壺」(1973)、「黒飴釉白掛手付鉢」
(1980 富山市民会館蔵)「黒飴釉白掛大鉢」(1981)、「飴釉白流蓋付大甕」(1982)
「白釉青流大切立甕」(1982)、「白流青流鰊鉢」(1982)等があります。
次回(船木 道忠、研児氏)に続きます。
三百年の歴史を持つと言う沖縄の陶器に有って、線彫りの魚や海老の模様で躍動感あふれる作品を作り
「琉球陶器」で沖縄初の国の重要無形文化財保持者(人間国宝)に成った陶芸家に、金城次郎氏がいます
1) 金城 次郎(きんじょう じろう) : 1912年(大正元年) ~ 2004年(平成16年) 享年92歳
① 経歴
) 那覇市与儀で、金城宮清の長男として生まれます。
父は陶土踏みを専門とする職人(ンチャクナーサーと言う)で、那覇市壺屋の各製陶所を
廻っていました。
) 1924年 陶器見習工として、新垣栄徳の製作所で働きながら、轆轤挽きなどの陶器の製法を
学びます。
この頃、柳宗悦を団長とする、濱田庄司や河井寛次郎ら民藝関係者が大挙して、沖縄を
訪れ、壺屋陶器の素晴しさ当地の人々に認識させます。
その後、浜田庄司、河井寛次郎らに師事する様になります。
) 1945年 沖縄戦終結と共に、壺屋も開放され窯業の復興が始まります。
壺屋地区は幸いにも戦火を免れます。翌年、壺屋に窯を築きます。
生活必需品の碗(マカイ)や皿(ケーウチ)などが再び作られ始めます。
) 1954年 第六回沖縄展に工芸部門が新設され、毎年出品する様になります。
1955年 国画会展に初入選を果たし、翌年には第三十回国展で新人賞を受賞します。
1958年 「抱瓶(だちびん)」「漁文皿」がルーマニア国立民藝博物館に永久展示と成ります。
1967年 第一回沖縄タイムス芸術選奨大賞を受賞し、同年日本民藝館展で入選を果します。
その後も、個展(広島市、富山市、岡山市など)や、日本陶芸展、沖縄の工芸展
(京都国立近代美術館主催)など、多くの展示会に出品し、数々の賞を受賞しています。
) 1972年 那覇の壺屋から、読谷村(よみたんそん)座喜味に移り住み、本格的な登窯を築き
読谷壺屋と命名します。
移転の背景には、那覇市の都市化に伴う公害問題などの不都合が生じた為です。
② 金城次郎の陶芸
昔より沖縄の壺屋には、中国、朝鮮、東南アジア等から様々な技法が流入し、それらを
咀嚼し発展した、「琉球陶器」と言われる焼物(やちむん)があります。
それらの技法には、刷毛目、イッチン、飛鉋、貼付文、印押それに、線彫りながあります。
) 線彫り: 金城次郎は特にこの技法を得意にしていた様です。
特に好んで描いた図案に、魚文と海老文があります。これは周囲を海に囲まれた沖縄では、
海の生物は身近に観察できる状態であった為と思われます。
a) 轆轤挽きした作品は、削り作業の後、白化粧掛けします。
(沖縄の土は鉄分が多く黒くなる為です。3~5種類の土をブレンドしているそうです。)
b) 次に箆(へら)や、線彫筆で線彫りを施します。尚、下書きはしない様です。
c) 色指し: 藍色や飴色に発色する、琉球陶器特有の絵の具で文様に色を指します。
d) 透明系の施を塗る: 作品の地肌に、装飾と水分の吸収防止を兼ねた釉を掛けます。
尚、素焼きはしません。この釉は珊瑚石灰と籾殻を焼いた灰と、珪石を調合した物です。
e) 窯詰め、焼成 : 焼成は六室の登窯で、約1250℃で約三日間焼き続けるそうです。
) 壷屋焼きは荒焼(無釉焼締め)と、施釉した上焼に大別されます。
荒焼は水甕(かめ)、味噌甕、酒甕など大きな作品で、上焼は線彫り、施釉、絵付けを施した、
食器、花器、茶碗、急須、抱瓶などの作品が多いです。
これらは常に沖縄の人々の暮らしと共にあり、生活を支えてきた雑器です。
) 金城氏の作品も多肢に渡っています。
抱瓶、嘉瓶(ゆうびん=瓢に似た形)、花瓶、蓋物、土瓶、大鉢、徳利、酒注、酒器、茶碗、傘立
などで、唐草文、指掻(ゆびかき)、イッチン、白(黒)流し釉などで装飾を行っています。
) 代表的な作品は、「線彫海老文抱瓶」(1948)「線彫魚文花瓶」(1949)「筒描魚海老文大皿」(1955)
以上日本民藝館沖縄分室蔵、
「白掛飛鉋嘉瓶」(1979)「白掛飛鉋彩差蓋壺」(1961)[「三彩差厨子甕」(1950)、以上日本民藝館蔵
尚 金城次郎氏の生誕100周年に当たり、2012年1月6日~2月29日まで那覇市立壺屋焼物博物館にて
「笑う魚 金城次郎生誕100年祭」が開催されました。
金城次郎氏の跡を継ぎ、長男の金城敏男(としを)氏が、特徴ある魚文の作品を彫り続けています。
次回(宗像亮一氏)に続きます。
「琉球陶器」で沖縄初の国の重要無形文化財保持者(人間国宝)に成った陶芸家に、金城次郎氏がいます
1) 金城 次郎(きんじょう じろう) : 1912年(大正元年) ~ 2004年(平成16年) 享年92歳
① 経歴
) 那覇市与儀で、金城宮清の長男として生まれます。
父は陶土踏みを専門とする職人(ンチャクナーサーと言う)で、那覇市壺屋の各製陶所を
廻っていました。
) 1924年 陶器見習工として、新垣栄徳の製作所で働きながら、轆轤挽きなどの陶器の製法を
学びます。
この頃、柳宗悦を団長とする、濱田庄司や河井寛次郎ら民藝関係者が大挙して、沖縄を
訪れ、壺屋陶器の素晴しさ当地の人々に認識させます。
その後、浜田庄司、河井寛次郎らに師事する様になります。
) 1945年 沖縄戦終結と共に、壺屋も開放され窯業の復興が始まります。
壺屋地区は幸いにも戦火を免れます。翌年、壺屋に窯を築きます。
生活必需品の碗(マカイ)や皿(ケーウチ)などが再び作られ始めます。
) 1954年 第六回沖縄展に工芸部門が新設され、毎年出品する様になります。
1955年 国画会展に初入選を果たし、翌年には第三十回国展で新人賞を受賞します。
1958年 「抱瓶(だちびん)」「漁文皿」がルーマニア国立民藝博物館に永久展示と成ります。
1967年 第一回沖縄タイムス芸術選奨大賞を受賞し、同年日本民藝館展で入選を果します。
その後も、個展(広島市、富山市、岡山市など)や、日本陶芸展、沖縄の工芸展
(京都国立近代美術館主催)など、多くの展示会に出品し、数々の賞を受賞しています。
) 1972年 那覇の壺屋から、読谷村(よみたんそん)座喜味に移り住み、本格的な登窯を築き
読谷壺屋と命名します。
移転の背景には、那覇市の都市化に伴う公害問題などの不都合が生じた為です。
② 金城次郎の陶芸
昔より沖縄の壺屋には、中国、朝鮮、東南アジア等から様々な技法が流入し、それらを
咀嚼し発展した、「琉球陶器」と言われる焼物(やちむん)があります。
それらの技法には、刷毛目、イッチン、飛鉋、貼付文、印押それに、線彫りながあります。
) 線彫り: 金城次郎は特にこの技法を得意にしていた様です。
特に好んで描いた図案に、魚文と海老文があります。これは周囲を海に囲まれた沖縄では、
海の生物は身近に観察できる状態であった為と思われます。
a) 轆轤挽きした作品は、削り作業の後、白化粧掛けします。
(沖縄の土は鉄分が多く黒くなる為です。3~5種類の土をブレンドしているそうです。)
b) 次に箆(へら)や、線彫筆で線彫りを施します。尚、下書きはしない様です。
c) 色指し: 藍色や飴色に発色する、琉球陶器特有の絵の具で文様に色を指します。
d) 透明系の施を塗る: 作品の地肌に、装飾と水分の吸収防止を兼ねた釉を掛けます。
尚、素焼きはしません。この釉は珊瑚石灰と籾殻を焼いた灰と、珪石を調合した物です。
e) 窯詰め、焼成 : 焼成は六室の登窯で、約1250℃で約三日間焼き続けるそうです。
) 壷屋焼きは荒焼(無釉焼締め)と、施釉した上焼に大別されます。
荒焼は水甕(かめ)、味噌甕、酒甕など大きな作品で、上焼は線彫り、施釉、絵付けを施した、
食器、花器、茶碗、急須、抱瓶などの作品が多いです。
これらは常に沖縄の人々の暮らしと共にあり、生活を支えてきた雑器です。
) 金城氏の作品も多肢に渡っています。
抱瓶、嘉瓶(ゆうびん=瓢に似た形)、花瓶、蓋物、土瓶、大鉢、徳利、酒注、酒器、茶碗、傘立
などで、唐草文、指掻(ゆびかき)、イッチン、白(黒)流し釉などで装飾を行っています。
) 代表的な作品は、「線彫海老文抱瓶」(1948)「線彫魚文花瓶」(1949)「筒描魚海老文大皿」(1955)
以上日本民藝館沖縄分室蔵、
「白掛飛鉋嘉瓶」(1979)「白掛飛鉋彩差蓋壺」(1961)[「三彩差厨子甕」(1950)、以上日本民藝館蔵
尚 金城次郎氏の生誕100周年に当たり、2012年1月6日~2月29日まで那覇市立壺屋焼物博物館にて
「笑う魚 金城次郎生誕100年祭」が開催されました。
金城次郎氏の跡を継ぎ、長男の金城敏男(としを)氏が、特徴ある魚文の作品を彫り続けています。
次回(宗像亮一氏)に続きます。
備前焼の名家(山本陶秀)に生まれ、従来の備前焼とは異なる独自の作風で、新風を巻き起こして
いる陶芸家が、山本 出氏です。
1) 山本 出(やまもと いずる): 1944年(昭和19) ~
① 経歴
) 岡山県備前市伊部で、陶芸家の山本陶秀の四男として生まれます。
) 1967年 武蔵野美術大学彫刻科を卒業します。
) 1969年 パリ国立美術学校 彫刻科を専攻し、2年間留学します。
) 1970年 父陶秀の下で陶芸を習い始めます。
) 1975年 伊部に窯を築き陶芸家として独立します。独自の「叩込(たたきこみ)」に取り組みます。
) 1979年 日本工芸会正会員となる。
) 1980年 第二十七回日本伝統工芸展で、「備前叩込梅文大鉢」が日本工芸会奨励賞を受賞します
(窯を築いて10年の歳月で、大きな成果を遂げる事になります。)
1982年 岡山県展委嘱となり、独自の「備前土出彩」に取り組みます。
1983年 中日国際陶芸展にて「備前土出彩大鉢」奨励賞を受賞。
日本工芸会伝統工芸三十年の歩み展に日本工芸会受賞作品「備前叩込梅文大鉢」招待出品」
1985年 日本工芸会中国支部にて「備前土出彩大鉢」が金重陶陽賞を受賞します。
1989年 独自の「積上げ」手法に取り組みます。
1993年 日本伝統工芸展「備前土積上花器」で入選を果たします。
2000年 東広島美術館が「積上花器」を買上。 伊勢神宮へ積上花器「抱擁」を奉納します。
2003年 第十七回日本陶芸展」で入選。
2007年 日本伝統工芸展で「色土大鉢」が入選します。
以後も、各種の陶芸展示会に出品し、多くの賞を受けています。
② 山本出の陶芸
彼は美術大学の彫刻科を卒業後、彫刻の修業の為に、フランスに2年程留学しています。
その為、陶器へ彫刻の技術を導入した作品を造っており、それが彼の特徴の一つです。
) 「積上げ技法」に付いて
備前の土とフランスのブルゴーニュの土を混合した物を使用しています。
土の塊をスライスして積み上げ、中をくりぬくいて作品を造る彼独自の技法です。
即ち、轆轤やタタラ造りでは無く、丸い煎餅状の土を、ずらしながら積み上げ、叩き締めて、
接着する技法です。
この方法は、乾燥時に亀裂が入ったり、焼成時には崩壊する等の困難な作業です。
この技法で製作したのが「備前波状鳥文鉢」(1978年 日本伝統展出品)です。
) 「練り込み」による技法(色彩備前)について
a) 備前焼きは無釉の焼締め陶器で、自然釉や緋襷(ひだすき)など独特の色が付いています。
今まで、異なる色の土を使って「練り込み」を行う事はありませんでした。それ故彼の作品に
対する評価も良し悪し、二分されれています。
b) 前述の煎餅状の土を叩き付ける技法を発展させ、基盤と成る土と色土を紐状又は板状にした
煎餅を重ね合わせ、叩き締め一体化させます。文様は表面のみになります。
これを石膏型に覆せ、叩いて形を整えます。
「練り込み」と言うより、「叩き込み」と言う方が的を射ています。
この技法の作品が「梅文大鉢」(1980年 日本伝統工芸展)で奨励賞を受けています。
) 更に、1982年には、泥状粘土を絞り出し、放射状の文様を付ける事に成功します。
この技法を名前の「出」にちなみ「出彩」と名付けます。「出彩陶板」(1983)
) その他にも、彫刻を学んだ経験を生かして、新感覚の造形美を追求した轆轤挽の香炉、
花器、徳利、ぐい呑み、酒杯などの備前焼を製作しています。
次回(金城次郎氏)に続きます。
いる陶芸家が、山本 出氏です。
1) 山本 出(やまもと いずる): 1944年(昭和19) ~
① 経歴
) 岡山県備前市伊部で、陶芸家の山本陶秀の四男として生まれます。
) 1967年 武蔵野美術大学彫刻科を卒業します。
) 1969年 パリ国立美術学校 彫刻科を専攻し、2年間留学します。
) 1970年 父陶秀の下で陶芸を習い始めます。
) 1975年 伊部に窯を築き陶芸家として独立します。独自の「叩込(たたきこみ)」に取り組みます。
) 1979年 日本工芸会正会員となる。
) 1980年 第二十七回日本伝統工芸展で、「備前叩込梅文大鉢」が日本工芸会奨励賞を受賞します
(窯を築いて10年の歳月で、大きな成果を遂げる事になります。)
1982年 岡山県展委嘱となり、独自の「備前土出彩」に取り組みます。
1983年 中日国際陶芸展にて「備前土出彩大鉢」奨励賞を受賞。
日本工芸会伝統工芸三十年の歩み展に日本工芸会受賞作品「備前叩込梅文大鉢」招待出品」
1985年 日本工芸会中国支部にて「備前土出彩大鉢」が金重陶陽賞を受賞します。
1989年 独自の「積上げ」手法に取り組みます。
1993年 日本伝統工芸展「備前土積上花器」で入選を果たします。
2000年 東広島美術館が「積上花器」を買上。 伊勢神宮へ積上花器「抱擁」を奉納します。
2003年 第十七回日本陶芸展」で入選。
2007年 日本伝統工芸展で「色土大鉢」が入選します。
以後も、各種の陶芸展示会に出品し、多くの賞を受けています。
② 山本出の陶芸
彼は美術大学の彫刻科を卒業後、彫刻の修業の為に、フランスに2年程留学しています。
その為、陶器へ彫刻の技術を導入した作品を造っており、それが彼の特徴の一つです。
) 「積上げ技法」に付いて
備前の土とフランスのブルゴーニュの土を混合した物を使用しています。
土の塊をスライスして積み上げ、中をくりぬくいて作品を造る彼独自の技法です。
即ち、轆轤やタタラ造りでは無く、丸い煎餅状の土を、ずらしながら積み上げ、叩き締めて、
接着する技法です。
この方法は、乾燥時に亀裂が入ったり、焼成時には崩壊する等の困難な作業です。
この技法で製作したのが「備前波状鳥文鉢」(1978年 日本伝統展出品)です。
) 「練り込み」による技法(色彩備前)について
a) 備前焼きは無釉の焼締め陶器で、自然釉や緋襷(ひだすき)など独特の色が付いています。
今まで、異なる色の土を使って「練り込み」を行う事はありませんでした。それ故彼の作品に
対する評価も良し悪し、二分されれています。
b) 前述の煎餅状の土を叩き付ける技法を発展させ、基盤と成る土と色土を紐状又は板状にした
煎餅を重ね合わせ、叩き締め一体化させます。文様は表面のみになります。
これを石膏型に覆せ、叩いて形を整えます。
「練り込み」と言うより、「叩き込み」と言う方が的を射ています。
この技法の作品が「梅文大鉢」(1980年 日本伝統工芸展)で奨励賞を受けています。
) 更に、1982年には、泥状粘土を絞り出し、放射状の文様を付ける事に成功します。
この技法を名前の「出」にちなみ「出彩」と名付けます。「出彩陶板」(1983)
) その他にも、彫刻を学んだ経験を生かして、新感覚の造形美を追求した轆轤挽の香炉、
花器、徳利、ぐい呑み、酒杯などの備前焼を製作しています。
次回(金城次郎氏)に続きます。