今回は、ようやく2年前の海外旅行記の続き。お待たせしちゃったかしら? …え、待ってないですか?そ、そうですか、しょぼん…
2年前の海外旅行記というのは、2022年の6月半ばから約1か月でイタリア・ヨルダン・トルコの3か国を移動した時の話なんだが、ただでさえ1日の活動時間が短くて更新ペースがのろいのに、途中でパレスチナ滞在記を追記したり、日本とは思えないような気温の夏を生き延びるのに全エネルギーを使ったりしていたので、ずいぶん間が空いてしまった。
どこまで書いたか私本人が忘れていたくらいだから、読者の皆さんも忘れている(もしくは知らない)と思うので、簡単に振り返ってみると…
東京からローマに飛んで少し観光し(あれを観光と呼べるなら)、そこからヨルダンに飛んで首都アンマンを拠点に出歩き、さらにトルコに飛んで首都アンカラからシワス→エラズーへと東にバスで移動したところで前回は終わっていたのだった。(前回の話はこちら)
という訳で、本題に入る。(大雑把な説明やな~)
エラズーでの滞在2日目は、日帰りで近郊の歴史的な町ハルプットを訪れた(エラズー県内)。
前回の記事の終わりに、「ハルプットはワンと同様、今回のトルコ旅行の主要な目的地だった。シワス以上に観光スポットのないエラズーに2泊もすることにしたのは、ここを拠点にしてハルプットを訪れるために他ならない」と書いたが、それについてちょっと解説しておきたい。ハルプットは国際的に知名度の高いトルコの観光地ではなく、聞いたことがない人がほとんどだと思うので。
私はかつてイタリアで、アルメニア系イタリア人の作家・翻訳家アントニア・アルスランの小説「La masseria delle allodole」を買って読み、帰国後もイタリア語読解・翻訳の個人レッスンの題材としてこの本を取り上げた際に再読した。邦訳の題名は「ひばり館」となっている。この本を原作にしたタヴィアーニ兄弟監督の映画の方は、原題を文字通り訳した「ひばり農園」というタイトルだ。
この小説は1915年から1917年にかけてトルコの政権(オスマン帝国末期に政権を握っていた「統一と進歩委員会」)が実行したアルメニア人虐殺を扱ったもので、当時トルコで暮らしていた著者の親類の一家に起こった悲劇を物語る、実話に基づく小説だ。
左側の本がそれ
この親類一家が暮らしていたアナトリア半島のアルメニア人住民の多かった「小さな町」(Piccola Citta')の町外れにある別荘「ひばり館(農園)」が、彼らの最初の悲劇の舞台となるのだが、この「小さな町」がハルプットだということを旅の行程を計画している時に知り、訪れてみたいと思った。
しかし、トルコでの滞在日数は限られているし、広くて移動に時間がかかるから(しかも私はとろい)、あまりあちこちには行けない。アンカラ→ワン→イスタンブールという大筋のルートは決めていたが、アンカラからアダナ経由でシリア国境に近いハタイ県を訪れて歴史的都市アンタキヤを観光し、シリア難民が多く住むキリスに足を延ばしてからワンに移動しようか、あるいはエラズー経由でハルプットを訪れてからワンに行こうかと、かなり迷ったが、結局ハルプットの方を選んだのだ。
その後、2023年2月6日の大地震でハタイは甚大な被害を受け、壊滅的な状態になった。アンタキヤの歴史的な教会などもダメージを受けたという。今振り返れば、あの時ハタイに行くべきだったのかも、と思わないでもないが、当時はハルプットに行く方が自分にとって重要だったのでしょうがない。(あまり後悔しないで生きるタイプ)
なお、上の写真の右側の本は「ひばり館」の続編の「スミルナへの道」(la Strada di Smirne)で、こちらは「スミルナ(イズミルの旧名)の大火」と呼ばれるギリシャ人虐殺事件を扱ったものだ(参考)。こちらの方はまだ邦訳が出ていないようだが、この小説も「ひばり館」と同様、勉強になる上に文学作品としても素晴らしいので、是非邦訳を出していただきたいものだ。
<アルメニア人虐殺関連情報>
*「150万人が犠牲になったアルメニア人大虐殺から100年 問題は現在も続いている」(2015年4月25日付けの記事)
https://www.huffingtonpost.jp/2015/04/24/armenian-genocide-controversy_n_7140572.html
*虐殺が起こった当時ハルプットに滞在し、アルメニア人虐殺を目撃した米国人宣教師ヘンリー・リッグス氏の回顧録(英語だから私は読む根性がないが)
Days of Tragedy in Armenia: Personal Experiences in Harpoot, 1915-1917 (Armenian Genocide Documentation Series, 1)
*イタリア・ボローニャの映画祭で上映された記録映画が一部見られる動画。虐殺を逃れたアルメニア人の女性や子供たちが船にぎゅうぎゅう詰めに乗り込んでイスタンブールから外国に退避した時の様子が映っている。
https://www.youtube.com/watch?v=Lw_aGl-Qhbc
現在ガザでイスラエルが犯しているパレスチナ人虐殺を見ていると、アルメニア人虐殺のことが頭をよぎる。支配下の他民族の民間人殺戮、強制移動、飢餓、略奪…技術が進歩して、スマホで撮られた現地からの映像がSNSを通じてリアルタイムで世界中に届くようになっても、人類は昔と変わらず、同じ過ちを繰り返している。諸大国が虐殺を止めなかったのも同じ。技術が進歩している分、虐殺のスピードも速くなっている。そこには救いというものがないように思える。
さて、前置きがやたらに重く長くなったが、ここからが本編ということで、ハルプットに出かけた時のことを書く。(がんばれ私)
この日は朝8時に起きて(めっちゃ早起き)、洗濯してから朝食ルームに行った。
ここの朝食ビュッフェはチーズとオリーブ、茹で卵、パン、ジャムとバター程度のごくシンプルな内容だった。飲み物はチャイのみ。昔はホテルの朝食でもチャイ以外にネスカフェがあるのが普通だった気がするが、最近はチャイだけのようだ。シワスのホテルもそうだった。朝は食欲がないので、少しだけ取る。パンが美味しかった。
朝食後、部屋に戻ってSNSに写真をアップしたりしていたら、出かけるのが11時を過ぎた。まあ、いつものことよね…
エラズーからハルプットまではけっこう近く、ドルムシュ(乗り合いミニバス)で20分ほどだった。出かけるのが遅くなったけど、問題なかったな。
車窓から見かけたポップな豪邸(?)
着いた~
街の中心近くでドルムシュを降りたが、どこに行けばいいかよくわからなかった。ウィキペディア(英語版のHarpootの項目)によると、虐殺後、生き残ったわずかなアルメニア人は世界各地に離散し(一部の人々は旧ソ連アルメニア共和国に移民してNor Kharberdの町を建設)、アルメニア人地区の建物は1960~70年代に取り壊されたという。何もなくても、かつてアルメニア人が住んでいた場所、特に小説に出てくる教会や「ひばり館」の跡地に行ってみたいと思ったが、手掛かりがなくて、たどり着けそうにない。
しょうがないので、とりあえずハルプット城(Harput Kalesi)に行ってみることにした。ハルプット城は紀元前8世紀、ウラルトゥ王国時代に建造された要塞で、この街の観光の目玉。街の中心部から少し坂を下ったところにあった。
岩の上に聳えたつハルプット城
ふもとにいた茶トラ猫さん
私が近づいたらすかさずエサをねだった
いい人(私)に出会えてラッキーだったね~
入場は無料だった
中に入ってみると、トルコ人の国内旅行者がけっこういた。団体客まで来ている。歴史的な要塞で、地下通路があったり、民俗博物館的な展示があったりして、無料な割に充実していたから、人気なのだろう。外国人は私だけだった。
地下通路
けっこう地下深くまで降りる階段だった。降りたところは、特に何もない空間だったが。運動不足らしいトルコ人のおばちゃんが息を切らせて、ふうふう言いながら登って来るのを微笑ましく眺めながら降りたが、上る時は私もそのおばちゃんと同じ状態だった。
民俗博物館コーナー
うちのアパートのトイレも和式でこんな感じ。一応水洗だけど
ハルプット城を出て、坂の下の方を眺めたら、古めかしい廃墟や、モスク風の屋根の建物も見えたが、とりあえず街の中心部に戻って、そちらを散策することにした。うかつに坂を下りたら、上るのが大変だからな…
ハルプットのカササギさん「人間は飛べないから大変そうだね」 そうなのよね…
中心部に戻って散策していたら、由緒ありげな霊廟があったので、入ってみた。「ARAP-BABA」の遺体が置かれた霊廟で、1276年に建てられたらしい(ルーム・セルジュク朝時代?)。
「ARAP-BABA」(アラブ人のお父さん??)が何者だったのかは詳細不明だが、色々伝説があるらしい。日照り続きで皆が困っていた時、住民のセルヴィという名の女性が夢に見たとおりに彼の遺体から頭部を切り落として谷底に投げたら雨が降ったとか、雨が止まないからその頭部を元に戻したら止んだとか、そういうやつ。(参考・トルコ語の説明)
私が外に出たら、順番を待っている人が数人いた。観察していたら、入れ代わり立ち代わり参詣客が訪れていた。ご利益があるのだろうか。
土産物屋もあった。手作り感満載の人形がかわいい。
街中には、住宅らしきものは見当たらなかった。道端で暇そうにしていたおじいさんに、住宅地はどこかと聞いたら、ここは観光地だから家はあまりないと言われた。
もしアルメニア教会の廃墟があれば、そこだけでも行きたいな~思っても、当然標識も何もないから探しようがないし、観光案内所で聞くのも憚られる。
トルコ政府は、未だにアルメニア人虐殺の事実を認めていない。それどころか、虐殺追悼記念日である4月24日に、国営放送TRTが「アルメニア人によるトルコ人殺戮」をテーマにした特別番組を流したりしているくらいだ。「アルメニア人虐殺」(Ermeni Soykırımı)を認めるような発言をしたら、国家侮辱罪で起訴されるような国だ(トルコのノーベル賞作家オルハン・パムク氏のケース)。
まあ、単なる旅行者の私がかつてアルメニア教会があった場所を尋ねるくらいなら、特に問題ないかもしれないのだが、アルメニア人虐殺に関わることをトルコ人と話すのは、なるべく避けたい。私は単なる旅行者にしてはやや挙動不審だから、意図を怪しまれるかもしれないしね…(小心者~)
なお、ウィキペディアのトルコ語版「Harput」の「Harput Ermenileri」(ハルプットのアルメニア人達)という項目には、以下のよう書かれている:
Osmanlı Ermeni halkları 19. ve 20. yüzyılları arasında Harput ve çevresinde yaşamlarını sürdürmüştür. Kentin mimarisine birçok katkıda bulunmuşlardır. Kurtuluş savaşı ve akabinde cumhuriyetin ilanından sonra bu çevrede önemli ölçüde göç olmuştur.
「オスマン帝国のアルメニア人は、19世紀から20世紀にかけてハルプットとその周辺で暮らし、街の建造物に多くの影響を与えた。祖国解放戦争(トルコ独立戦争)とそれに続く共和国建国宣言の後、この地域では大規模な移住があった」
観光案内所は素通りして、その辺を歩いている人達に、古い住宅や教会はないかと聞いてみたが、誰も知らなかった。
街の外れに、木々の間に住宅が見え隠れする緑豊かな地域もあったが、アルメニア人地区とは関係なさそうかな…
「Antik Han」という風情のあるカフェがあったので入ってみる。
閑古鳥が鳴いていた
ハルプットの特産品「Dibek Kahvesi」(カルダモンとクリーム入りの臼で挽いたコーヒー)を頼むと、ロクムが付いてきた。
お店のお姉さんにも、この街に教会があるかどうか聞いてみたが、知らないと言われた。
仕方ないので、適当に辺りを歩き回ってみる。観光地なせいか、ハルプットには猫が多かった。私がカバンを開けたら、みゃあみゃあ言いながら寄って来る。エサをあげる人たちがいて、慣れているのだろう。トルコあるある。
警戒心の強い白黒猫さん
モデルのようだった長毛ミケさん
「カメラウザいんだにゃ~」
すいませんねえ…
鶏もいた。放牧(?)
暑い中歩き回って疲れたので、どうしようかと思いつつ、ダメもとで通りかかったおじいさんに質問してみたら、ハルプット城の近くに古い教会があると教えてくれたので、がんばって行ってみることにして、城の方に戻る。
城を通り過ぎたほんの少し先の、石段を下りたところにその教会はあった。
「アッシリアの古い聖母マリア教会」
アルメニア教会じゃなかった…予想はしていたが。
教会前の広場は、工事の資材置き場みたいになっている。
入口
閉鎖されていて、中には入れなかった。
教会の前の道をさらに降りて行ったら、城から見えていた廃墟があった。
何かの遺跡かな…
さらに先に行くと、モスクっぽい屋根だと思った建物に辿り着いた。モスクではなくて、様々な病気を治す力があるという「癒しの水」が湧くスポットだった。誰もいなかったので、見学だけする。
「胃、腸、肝臓、リューマチ関連疾患、鬱病に効くと知られている」鬱にも…?
更衣スペースがある~
ここに浸かるらしい。
ハルプットって、歴史的な要塞あり、なんかご利益ありそうな聖人の霊廟あり、古い教会あり、癒しの湧き水を浴びられるスポットありで、しかも全て無料なんて、これでロケーションが良ければ観光地として最強じゃないだろうか。でも場所が辺鄙だから、知る人ぞ知る穴場の観光地という立ち位置か。
疲れたし、お腹も減ったので、遅めのランチを食べてからエラズーに帰ることにした。街の中心部からハルプット城に向かう途中で、大勢の地元客ですごく賑わっている店を見かけたので、そこに決める。「Ensar Mangal Vadisi」という食堂だ。
屋外にテーブルがたくさん並んでいる。
空いている席に座って、メニューを見せてもらったら、メイン料理が1品50リラからだった。予算オーバーでちょっと動揺したが、美味しそうだったので覚悟を決めて、60リラの「yoğurtlu kebap」(ケバブのヨーグルト添え)とアイランを頼んだ。前菜の「Acılı Ezme」(トマトベースの辛めの野菜ペースト)、サラダ、パン、チャイはセットになっていた。水は別料金。当時は60リラが高く感じられたが、トルコはインフレがすごいので、今は4倍以上しそう。
ケバブは、羊肉の薄切りを焼いたもの下にヨーグルトソースと細切れのパンが敷いてあり、スパイシーでクリーミーで非常に美味しかった。さすが、流行っているだけある。アイランは普通。大衆的な店なので、ビールはなかった。
テーブルの間を猫が巡回していたが、スパイスの利いたケバブをあげるわけにも、カリカリを取り出してあげるわけにもいかず、心苦しかった。
「どうして何もくれないの?」
すんません、すんません…
「ちらっ」
「このかばん、何かいい匂いするんだけど!」
鋭いね~
締めのチャイ
店を出たら、まだドルムシュに乗って、エラズーに戻った。
疲れたからホテルでしばらく昼寝して、夕方に翌日のワン行きのバスのチケットを買いにオトガルに出かけ(なぜかドルムシュの運転手が料金を受け取らなかった)、戻ってきてホテルの近くでビールと夕食用のチーキョフテのロールサンドを買って帰った。
一緒に巻いてくれる葉っぱがもりもり
美味しかった。
店の前で待機していた猫さん達
カリカリをあげた。
翌日はワンに移動。シャワーを浴びて、チーキョフテサンドを食べつつビールと残りのワインを飲み干し、早めに寝ることにした。
結局、最後までアルメニア人が暮らしていた頃の痕跡が見つからないまま、単に観光して終わったハルプットへの旅だった。いつかまたリベンジしたいものだ。まずアルメニア人のガイドが雇える身分に出世しなきゃいけないだろうか。いつやねん…
(おまけのビール写真)
今年も無事に出会えたキリン秋味様
しつこい残暑の中で飲む秋味は、複雑な味がするねえ…
(続く)
考えてみたら、私がこうやって語尾に「~」を付けるのは、実は菱沼さんの影響なのかも…
エジプトの無計画停電の行方、気になります。再開されませんように…
そうですね、トルコ人の大半は、政府のプロパガンダを疑っていないと思うので、この話題を彼らにもちかけるのはタブーというか、不毛な結果に終わるから避けた方がいい気がしますね。キプロス紛争についても同様ですが。日本人もそんなに他国の事をとやかく言えないかもしれませんが、政府の公式見解と違う意見を言う人が国家侮辱罪で告訴されると様な事はないので…