ミーロの日記

日々の出来事をつれづれなるままに書き綴っています。

神様はどこにいる?

2017-02-15 17:07:00 | 日記
ずっと前に、とある宗教的な団体に少しの間だけ入っていたことがあるのだが、その時に会員同士でよく話し合うということがあった。

そんな会員同士の話し合いをしていた時に、ベテランの会員さんが言った言葉が妙に心に引っかったことがある。

「私はいつも神を求めているの。この前もどうしていいのか分からなくなって神に救いを求めたの。
神様はどこにいる?そうだ!天にいるんだ!そう思って、天に向かって一生懸命に祈ったの」

そう言って、その方は上を向いて手を合わせる仕草をした。

その時はただ話を聞いていたのだが、家へ帰ってもその方の言った言葉がずっと心に引っかかったままだった。

何が引っかかったのか・・・

今は、はっきりとどこが引っかかるのか分かるのだが、その時はよく分からなかった。

でも、よく考えると「神様は天にいる」といった言葉がずっと引っかかっていた。

ほかにも多々腑に落ちないことがあって、その団体をやめたのだが、その後はどこへも行くことなく家に居ながらにインターネットを通して色々と勉強をさせて頂いたり、自分自身でも経験をするうちに、やはり神は天にいる遠い存在ではなく、いつも自分と一緒に胸の中心におられるのだという方が腑に落ちた。

自分の心が喜んでいる時、ウキウキしている時、そんな時に私は神を近くに感じる。

神というのがあまりにも宗教的に聞こえるならば、大いなる存在と言ってもいい。

どちらの呼び方にしろ、いつも神(もしくは大いなる存在)と共にいることや本当は自分が神の一部であったということは、私にとって絶対の安心感と幸福感を与えてくれる。
そして、これは何も私だけの特別なことではなくて、神様を胸に宿しているということはすべての人たちに当てはまる。

しかし、日夜いろいろな事が起きる日常生活を送っていると、常にウキウキ嬉しい気持ちばかりというわけにはいかない。

ともすれば自分のエゴが大きくなったり、不幸なことを見たり経験したりして、神と共にいることも忘れてしまいそうになる。

また、もう今は私はあまりそうは思わなくなったが、昔は自分に欠けているものに焦点を合わせてクヨクヨと悩んでしまうことがあった。

自分に欠けているものに焦点を合わせたり、自分自身を不幸だと思ったりしている間は、どんなに一生懸命に神様を求めても見つけられるはずはない。

なぜならば神とは絶対の安心感と幸福感なのだと思うから・・・

そんな時、また自分を神の存在に気づかせてくれるのが感謝することだった。

最初は心からそう思えなくても、毎日じゃなくてもいいから、よかったことを探して感謝をするということをしていくと、だんだん「そうか、私はこんなに幸せなことに囲まれていたのか」と思えるような時がくる。
そうすると、だんだん自分が元気になってくるのがわかる。

ついにはあんなに悩んでいた自分に欠けているもののことなど気にならなくなった。

神様を求めて、神様に救いを求めることさえ、本当は要らないことかもしれない。

だっていつも神は自分と一緒にいるのだから。

そして神の存在とは「幸せを感じる」ことなのだから・・・と私は思うのです。










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大難が小難に

2017-02-15 14:47:23 | 日記
先日は久しぶりに大きな「胸騒ぎ」を感じることが続くということがあった。

胸騒ぎが起きるのは決まって朝で、それも長女チェリーが作業所へ行く時間になると胸騒ぎが始まった。

そして、現実で見ている風景ではないものを無意識に見ていた。

それは作業所近くにある交差点の風景だった。

この交差点は交通量のある大きな道路と細道が交差する道路で、チェリーは毎日この交差点の横断歩道を渡るのだが、交通量が多いので「車に気をつけて渡ってね」とは普段から声をかけていた。

しかし先日は特にこの場所が気になり、そしてその日の朝はいつも以上に胸騒ぎが大きくて、家を出ようとするチェリーに何度も「気をつけてね」を繰り返し言っていた。

その日の夕方、いつも通りに帰宅したチェリーが帰ってくるなり興奮して話し始めた。

「交差点を青信号で渡っていたら、曲がってきた車にぶつかった。その時に当たった腕がまだ痛い」

その言葉を聞いて私はかなりびっくりした。

「腕は大丈夫なの?ぶつかった車の人は降りてきた?」

するとチェリーは「腕はすこし痛い。車の人はそのまま行ってしまった。私は帰りのバスが来ていたから急いでバスに乗ってきちゃった」と答えた。

とりあえず腕がしびれるとは言うものの、ほかに怪我はないようでほっとした。

チェリーによく話を聞くと、右折してきた車はチェリーに気づいて急ブレーキをかけたようだが冬道だったために滑って止まり切れず、そのまま交差点に進入してきてドアミラーが横断歩道を歩いていたチェリーの腕に当たったようだった。

それにしても当たった所がドアミラーだったというのが幸いだった。
腕にぶつかった瞬間、ミラーが倒れたので衝撃をまともに受けずに済んだようだ。

とは言え、あと1~2秒早く歩いていたら、まともに車の前面にぶつかっていたわけで、本当に大変な事になっていたかもしれないと思うとぞっとする。

作業所に報告の電話をすると、「それはすぐに警察に連絡してください」と言われたので夫に相談してから警察へ電話をして、結局事故として処理することになった。

それからの警察の動きは見事だった。

警察への連絡後、あっという間に交差点付近に設置されていた防犯カメラの映像を解析し、事故当日の様子が明らかになった。

(色々なことを言われているが、まだまだ日本の警察はすごいものです)

防犯カメラの画像には、チェリーにぶつかった車はそのまま行ってしまったのではなく、すこし進んでから駐車できる場所に止まり、ドライバーが車から降りてきてチェリーを探す様子が映っていたのだそうだ。

結局、チェリーはすぐにバスに乗ってしまったため見つけることができなかったというのが真相だった。

その話を聞いて、この件はもうこれでいいと思った。

腕は痛みもなく大丈夫だったので、わざわざぶつかった車のドライバーさんを探す必要は無くなった。

それにしても「不幸中の幸い」「大難が小難で済んだ」とはまさしくこのようなことを言うのだろう。

私も毎日運転をする者として、車の運転に気をつけ過ぎることはないのだとあらためて心に刻んだ。

そして、普段とは違った胸騒ぎの感覚というのはやはり大切にすべきものだと思った。

最後にご先祖様に心から感謝です。






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