社会人2年目の長男が一人暮らしを始めるというので、先週は引っ越しの手伝いに行ってきた。
長男の勤務先は同じ市内なのだが、札幌市と言えども広くて、我が家から長男の勤務先まで1時間半かかるそうだ。
東京などでは、それくらいの通勤時間は当たり前なのかもしれないが、長男は「不便だから会社の近くに部屋を借りたい」と言う。
それを聞いていた夫は「お父さんなんて、それを何年続けていると思うんだ。通勤のバス時間を合わせたら、何年間もずっとバスの中にいた計算になる・・・」と言いながら、私の方をちらっと見た。
私はすかさず「ご苦労様です」と言った。
↑これを聞きたくて夫は私をチラ見したのだ。
山あり谷ありの長い結婚生活を経て、やっと夫が何を言ってほしいのか分かるようになりましたがな(汗)
話が横道にそれましたが、とにかく長男は一人で賃貸アパートを探していたが、やっと良い物件が見つかったというので引っ越しをすることになった。
引っ越しをするにあたっては、色々とお金がかかる。
長男の安いお給料で、あれもこれもと揃えるのは大変だろう。
とりあえず生活に必要な家電は買って、他は家で使っているものを持って行くように提案した。
また欲しいなと思っても、しばらくの間は無い生活を送ってみて、やっぱり必要だと思ってから買っても遅くはないからと言うと、長男は「それは分かってるよ」と言った。
ところで20代半ばの長男もしかりだが、長男の友人たちの話を聞いても、今の若い人は金銭的にしっかりとしている人が多いように思う。
バブル崩壊後の親の苦しい生活を見ているからなのかもしれない。
長男の大学時代は、100円の特売の卵を買う為に友人たちとスーパーで並び、赤札がついて値下がりになった食品を買うというのは当たり前だったそうで、驚いたのはハンバーガーショップでハンバーガーをひとつしか注文しないということだった。
「飲み物は?」と聞いたら「水をもらう」と答えたのには、さすがに可哀想になったが、長男たちは恥ずかしくもないようで「水が一番飲みたかったから水をもらうだけ」とあっけらかんとしている。
たくましいというのか、自分の心に忠実というのか。
ただ、欲しいと思ったものにはポンとお金を出すという思い切りの良さもあるようで、バブルに浮かれてブランド品と聞けば血眼になって買いあさっていた私たちの若い頃より、今の若者の方がずっと好感度が高いと、私なんぞは思う。
そんなわけで長男が持って行くために、私たち夫婦の部屋で使っていたチェストをカラにして、物を置くために使っていたテーブルもきれいにした。
テーブルは細長い形なので、そこで食事もできるし、余った場所にはパソコンやプリンターなどを置いておくこともできる。
私たちも有れば使うが無くても困らないので、長男が使ってくれるのなら喜んで持たせたい。
「あれは使わない?そうそう、これも持って行かない?」とかなんとか、思いつくものを持たせようと長男に言っていたら、「もしかして、家の要らないモノを持たせようとしてない?」と言われてしまった。
あちゃー、バレたか。
ところで禅に「見立て」という言葉があるそうだ。
昔のお寺には石臼があって、それは食事の支度をする為にはなくてはならない道具だったそうだが、石とは言え30年も40年も使っていると割れてしまうことがある。
割れた石臼をどうするのか。
もう石臼としての役目は終わってしまったが、次にこれを何かに使えないかと考えるそうだ。
すると、割れた石を漬物石にしようという考えが湧いてくる。
漬物石にして更に30年40年使っていると、いつの間にか角が欠けたりして小さくなってくる。
重みも足りなくなった漬物石を、何とか活かすことはできないものだろうかと、また僧侶たちは考える。
すると、それを庭の水はけの悪い所に設けてはどうかという案が湧いてくる。
または飛び石のように使えば、庭に新しい表情も生まれる。
以上のように一つの役割を終えたものを、別のものに「見立てて」使い続けていくことを「見立て」というそうだ。
それにしても現代の私たちは、物を持ちすぎているのではないだろうかと思う。
亡き両親の家を片付けた時も、あまりの物の多さに驚いた。
少ない物で暮らしてみると、意外と何でもすぐに買おうとは思わずに、他の使い道を色々と考えるようになるのではないかと思う。
これは自戒を込めて・・・これからは見立てのできる生活をしていきたいなぁと思っている。
長男の勤務先は同じ市内なのだが、札幌市と言えども広くて、我が家から長男の勤務先まで1時間半かかるそうだ。
東京などでは、それくらいの通勤時間は当たり前なのかもしれないが、長男は「不便だから会社の近くに部屋を借りたい」と言う。
それを聞いていた夫は「お父さんなんて、それを何年続けていると思うんだ。通勤のバス時間を合わせたら、何年間もずっとバスの中にいた計算になる・・・」と言いながら、私の方をちらっと見た。
私はすかさず「ご苦労様です」と言った。
↑これを聞きたくて夫は私をチラ見したのだ。
山あり谷ありの長い結婚生活を経て、やっと夫が何を言ってほしいのか分かるようになりましたがな(汗)
話が横道にそれましたが、とにかく長男は一人で賃貸アパートを探していたが、やっと良い物件が見つかったというので引っ越しをすることになった。
引っ越しをするにあたっては、色々とお金がかかる。
長男の安いお給料で、あれもこれもと揃えるのは大変だろう。
とりあえず生活に必要な家電は買って、他は家で使っているものを持って行くように提案した。
また欲しいなと思っても、しばらくの間は無い生活を送ってみて、やっぱり必要だと思ってから買っても遅くはないからと言うと、長男は「それは分かってるよ」と言った。
ところで20代半ばの長男もしかりだが、長男の友人たちの話を聞いても、今の若い人は金銭的にしっかりとしている人が多いように思う。
バブル崩壊後の親の苦しい生活を見ているからなのかもしれない。
長男の大学時代は、100円の特売の卵を買う為に友人たちとスーパーで並び、赤札がついて値下がりになった食品を買うというのは当たり前だったそうで、驚いたのはハンバーガーショップでハンバーガーをひとつしか注文しないということだった。
「飲み物は?」と聞いたら「水をもらう」と答えたのには、さすがに可哀想になったが、長男たちは恥ずかしくもないようで「水が一番飲みたかったから水をもらうだけ」とあっけらかんとしている。
たくましいというのか、自分の心に忠実というのか。
ただ、欲しいと思ったものにはポンとお金を出すという思い切りの良さもあるようで、バブルに浮かれてブランド品と聞けば血眼になって買いあさっていた私たちの若い頃より、今の若者の方がずっと好感度が高いと、私なんぞは思う。
そんなわけで長男が持って行くために、私たち夫婦の部屋で使っていたチェストをカラにして、物を置くために使っていたテーブルもきれいにした。
テーブルは細長い形なので、そこで食事もできるし、余った場所にはパソコンやプリンターなどを置いておくこともできる。
私たちも有れば使うが無くても困らないので、長男が使ってくれるのなら喜んで持たせたい。
「あれは使わない?そうそう、これも持って行かない?」とかなんとか、思いつくものを持たせようと長男に言っていたら、「もしかして、家の要らないモノを持たせようとしてない?」と言われてしまった。
あちゃー、バレたか。
ところで禅に「見立て」という言葉があるそうだ。
昔のお寺には石臼があって、それは食事の支度をする為にはなくてはならない道具だったそうだが、石とは言え30年も40年も使っていると割れてしまうことがある。
割れた石臼をどうするのか。
もう石臼としての役目は終わってしまったが、次にこれを何かに使えないかと考えるそうだ。
すると、割れた石を漬物石にしようという考えが湧いてくる。
漬物石にして更に30年40年使っていると、いつの間にか角が欠けたりして小さくなってくる。
重みも足りなくなった漬物石を、何とか活かすことはできないものだろうかと、また僧侶たちは考える。
すると、それを庭の水はけの悪い所に設けてはどうかという案が湧いてくる。
または飛び石のように使えば、庭に新しい表情も生まれる。
以上のように一つの役割を終えたものを、別のものに「見立てて」使い続けていくことを「見立て」というそうだ。
それにしても現代の私たちは、物を持ちすぎているのではないだろうかと思う。
亡き両親の家を片付けた時も、あまりの物の多さに驚いた。
少ない物で暮らしてみると、意外と何でもすぐに買おうとは思わずに、他の使い道を色々と考えるようになるのではないかと思う。
これは自戒を込めて・・・これからは見立てのできる生活をしていきたいなぁと思っている。