これで完結と思って書いた昨日のブログ記事だったのに、今日はその続きが書きたくなってしまった。
亡き友だちが「書いてほしい」と言っているのかも・・・
友だちが家庭的に恵まれていなかったということは、昨日書いた。
詳しいことは書けないが、両親が家に居ない日もあったようだった。
小学校高学年だったとは言え、まだまだ子ども。
しっかり者の友だちでも、小学校低学年の弟と幼稚園児くらいの歳だった妹の世話をして、子どもだけで何日も暮らすのは無理だったと思う。
今ならば、児童相談所へ通報されると思うが、昭和40年代当時は、まだ人情味があふれていたというのか、見かねた近所の方が子どもの世話を引き受けてくれた。
「坂田(仮名)のおばちゃん」と、友だちが呼んでいた60代くらいの近所の方が、姉弟の親が帰って来るまで、自分の家に姉弟3人をしばらく預かっていた。
坂田のおばちゃんの家は、六畳二間で共同の台所と共同のトイレがある長屋だった。
そこに社会人の息子さんとおばちゃんは、二人で暮らしていたが、二人暮らしでも家具を置けば、決して広いとは言えない家だった。(なぜ私が間取りを知っているのかと言えば、その長屋に別の友だちが住んでいて、よく遊びに行っていたから)
それにしても息子さんと二人暮らしの広くはない部屋に、孫でも親戚でもない近所の子ども3人をずっと預かるなんて、できるものではない。
友だちと弟と妹は、坂田のおばちゃんにご飯を食べさせてもらって、坂田のおばちゃんの家から学校へ通って、また坂田のおばちゃんの家に帰って行っていた。
ある時、坂田のおばちゃんの家で暮らしていた友だちが、笑いながら教えてくれたことがある。
「昨日ね、お父さんが坂田のおばちゃんに叱られてたんだ。酒ばっかり飲んでないで働けー!って言われてた。お父さん、しょんぼりしてた」
それを聞いて、二人で笑い合った。
自分の生活も大変なのに他人の子を預かり、そして、その親を心から叱る。
どこまでも愛情深い人だったんだなぁ、坂田のおばちゃんは・・・
白髪交じりの髪を後ろでおだんごにして、ふくよかな体形で、まるで優しい仏像のような人だった。
そして、どれくらい友だちが坂田のおばちゃんの家にお世話になっていたのかは知らないが、友だちを思い出すときには、必ず、坂田のおばちゃんのことも思い出す。
それにしても、こうして、私がこの友だちのことを時々思い出すのは、私の消化しきれていない想いがあるからなのだと思う。
「もっと一緒に帰ってあげればよかった。嫌がらずにもっと手を繋いであげればよかった」
そんな後悔が、普段は忘れていても、どこか私の中にあるのかもしれない。
でも、あの頃の私にはそれができなかった。他の子とも遊びたかったし、ずっとくっついているのは苦痛だった。
そして、それはそれで仕方がなかったこと・・・(と、自分自身をなぐさめてみる)
こうして友だちのことを書いているうちに、次第に友だちとの悲しかったことや嫌だった思い出より楽しかった思い出の方が、より多く思い出されてきた。
私にとってブログ記事に書くことは、過去に自分の消化しきれていなかった想いを、過去に戻って今に連れてきて、ここで消化させるというような作業なのかもしれない。
過去の想いをひとつ消化できた今、身心がまた少し軽くなったような気がする。
長い文章を最後まで読んでくださって、ありがとうございました。