鼎子堂(Teishi-Do)

三毛猫堂 改め 『鼎子堂(ていしどう)』に屋号を変更しました。

34年前・・・の今日。

2024-11-04 23:54:34 | Weblog

朝方は気温10度を割込むものの日中は、爽やかな秋晴れ。

ついこの間迄、夏だったけれど・・・。

 

・・・34年前の今日。土砂降りの雨だった父の葬儀の日。

父は、63歳で亡くなったので、会社関係の参列者の方が多かった。

土砂降りの中の自宅での葬儀。

家の庭には、テントが張られ、兄が同じ会社に勤めていたこともあって、会社関係のひとが、一切を仕切ってくれていた。

葬儀の雨は、涙雨・・・というけれど、本当に涙を流したのは、姉と兄だけだったのではないか・・・と思っている。

私は、父には疎まれていたけれど、父の晩年、肺ガンと脳腫瘍へ転移、通院やら食事やら・・・父が一番、疎んじた娘が世話をしたのは、なんの皮肉だろうか。

父が一番かわいがった兄は、父が無くなって数年は、父が生きているような気がしていた・・・と言っていたけれど。そしてその兄も、父と同じ間質性肺炎から肺ガンになって去年亡くなった。

親子間、兄弟間でもやはり、相性というものがあるんだろうなと思う。

後妻に入った母が、義理の子供より、自分が生んだ娘(私)をネコっ可愛がりしたものだから、自分の先妻の子である姉と兄が、不憫だったようでそれで、その怒りを私に向けていた。その圏外に居たのは、同父母から生まれた弟で、父が年をとってから生まれた男の子だったから、兄に次いで、可愛がられていた。

あの日は、大雨だったな・・・今日は、晴れた・・・。

午後2時には、もう夕方のように陽が傾くのを障子越しに眺めながら、そんなことを考えた。

 

あれから34年も経っているのに、私は当時とちっとも変っていない。

そりゃあ、外見はすっかり老けたけれど。

今は、ガンになっても、昔ほど、不治の病という感じはしないし、姉は、大腸ガンを患ったけれど、たぶん・・・私より元気だ(と思う)。

母の私への偏愛によって、姉は、私のことが、大嫌いなんだろうし、実姉(私)よりも、異母姉と気があう愚弟とちょくちょく会っているところをみると、私の悪口で、盛大に盛り上がってんだろうなぁ・・・と思う。

まあ、別にいいけれど・・・。

父も母も・・・最期は、私が世話をしたんだけれどな。

母は、最期迄、自立してなんとか動けたし、認知症にもならずに、食事、薬、病院への送り迎えくらいで済んだのは、今となってはありがたかった。

父は・・・まだ63歳だったけれども、亡くなる直前は、もう100歳近い老人の風体になっていた。

脳腫瘍の手術をしてから、言動もおかしくなって、今思えば、認知症のような症状を呈していた(ような気がする)。

隣町の大学病院に、入退院を繰り返していて、退院して自宅にいるとき、母と私は、地獄だった。

入院できる期間が3カ月(だったと思う)で、3カ月たつと一度退院して、また数カ月後に、入院・・・といったパターンを繰り返していた。

父が入院しているときは、本当に天国だった。

父の退院が決まると、もう憂鬱で、気が変になりそうだった。

母と私だけが、父の介護の苦労をしているのに、姉・兄・弟は、全く関与していなかった。

同じ兄弟でも、何故、私だけに負荷が来るのか・・・納得できなかった。

でも、誰かが引かねばならない貧乏クジ。いつもそれを引かされる思いだ。

 

気に入らないことがあると、私にだけ

『さっさと家を出ていけ。』

といった暴言を吐き、ちょっと言い返すと、母に当たり散らす・・・毎日。毎日。毎日。

父の亡くなる前の数年間・・・本当に、地獄だった・・・。

私も私で、精神的に幼かった。サラリと受け流して、ご機嫌を取っていればよかったんだ・・・と今更ながらに思ったりもする。

けれども、人並み外れて臆病なエンパス気質の私には、なかなかできないことだった。メンタル面で、かなり追い詰められていたことは、間違いなかった・・・母も私も。

この父とそっくりなのが、愚弟で、それでもまあ、コイツは、嫁にはアタマが上がらず、逆らえないくらいの借り?があるようなので、まあいいか・・・もうどうでも。遠く(もないけれど、近くもないので)離れているのだから、お互い干渉しないのが一番いい方法なのだ。

もし父が生きていれば、今年で、97歳か・・・。

もう34年も経つのに、こんなこと書いているあたり・・・いつまでたっても、精神が成熟しないのだな。

(しょーもない愚痴ばかり。お目汚しで、申し訳ありません)