夏日に迫る気温上昇の日曜日。
去年の今日は、金曜日で、朝から本降りの雨だった。
私は、去年の今日、半世紀近く住んでいた家を後にして、あれからちょうど1年。
雨だったら、日延べしようか・・・とも思ったのだけれども、雨天決行・・・と定め、朝から、旧居宅の大掃除と雷都へ運び入れる最後の荷物を、随分長いこと乗り続けているカロカロくん(カローラセダン)に積み込んだ。
11月後半ともなれば、午後3時は既に夕暮れ・・・雨も降っているから暗くて、今日で、ここが最後・・・と思うと、なんだか、やはり名残惜しい気もした。
せめて、あの楓の色付くのを見たかった(平年だと11月終わり頃には、赤くなる)
(↓使いまわしですが、旧居宅の楓)
母が亡くなって、三回忌も済んだし、もういいや・・・という気持ちもあったけれど、そのあと、兄の葬儀だの四十九日だの・・・と続いてしまい、身体も疲れ果てて、ズルスルと引っ越しを延期していた。
そんなことを思いながら、同じ敷地でも、家屋の移動は何度かあって、西側の二階屋に移って、12年経つけれど、なかなか居つけぬ場所でもあった気がする。
そう・・・なんだか、いつも仮棲いな気がしている。今居る場所が、いつも仮の場所というか・・・。
この世に私の『正式』な居場所などないのかもしれない・・・といつも思ってしまう。
・・・もう完全に陽が沈んで、夕刻過ぎから、雨も上がり、急速に天気も回復して、南の空に月が出ていた。
冬の月に照らされて、家路を急ぐ帰宅ラッシュの渋滞に巻き込まれて、予定した時刻より、随分遅い時間に到着した変な引っ越しだった・・・。
そんな去年の今日を思い出しながら、夏日に迫る気温の中、ぼんやりと、もう母も居ないし、私は、いつ死んでもいいんだ・・・なんて思った。
それでずいぶんと気が楽になった。
『いつ死んでもいいんだ。』
この一年、何度か旧居宅付近の道路は通ったけれど、家には行っていないし、二度と行くつもりもないけれど、やはり長年住み慣れた場所で、あの土地の呪縛からは、解放されていないのかもしれない・・・それでも、あの場所に帰らなくてもいいし、帰れないし、もう私の世界線?にはない場所なのかもしれない。
テネシー・ウィリアムズの戯曲・ガラスの動物園のセリフにもあるけれど、半世紀暮らしたあの家は、
もはや『月より遠い場所』になってしまった。
雷都に住みて1年目・・・。
来年の今日は、やはり去年の今日を思い出すのだろうか・・・。