夕刻より本降りの雨。
シャワーのような雨が、降ったり、止んだり・・・。
梅雨真っ只中。
昨日、わざわざ、片道車で、約1時間半くらいの場所にある県北のシネマ・コンプレックスまで、足を運んだのは、先月、世田谷シアター・トラムで上演された劇団・イキウメの『太陽』を見て、これは、実写版も見なければ・・・と思い、相方に連れて行ってもらったのだった。
もし、相方の都合がつかなくても、県北くらいまでなら、私でもなんとか、運転できるし、ひとりで、行こうと思っていた。
主演・神木隆之介さん。
主人公のキュリオ(旧人類)の純粋で、朴訥な少年・鉄彦役を見事に演じていた。
普通は、都会的な大人しげで、清潔そうな役柄が多いのではないかと思う。
天才子役から、無理なく、自然に俳優になった感じがする。
・・・舞台と比べることになるけれど、正直、映画は、かなり見劣りがした。
『太陽』というテーマが、影を潜め、別のストーリーが展開されていた。
大筋では、同じような展開なのだけれど、一寸、違うんじゃないだろうか・・・と思いながら観ていた。
ウィルスが、媒体となり、新旧ふたつの人類に分かれた世界。
万能で、健康で、老化もしない新人類・ノクスだが、唯一、太陽の下では、生きることができない・・・夜の闇の中でしか活動できないことと、出生率1%・・・子孫が生まれないということだろうか。
旧人類・キュリオは、その逆だけれど、太陽の下で、自然に生活ができる。
新人類・ノクスは、その性質上、高度な文明と豊かな生活を送ることができ、所謂、二極化が進む。
旧人類・キュリオは、新人類の血を体内に移植して、ノクスになることが出来るけれど、若年のうちに行わないと、危険が伴い、死に至るという設定である。
太陽がなくても、生きていけるノクスだが、現実的には、太陽の恵みを受けた全てもの(食料・水・資源など)を消費していくのだから、太陽なしでは、生存できない・・・ということになるのかもしれない。
そこがノクスの矛盾であろうか?
山里の美しい風景、対照的に都会的な夜景の交錯する中、物語は進行していく。
舞台にはない登場人物や、設定の違うキャラクターなど映画と舞台では、やはりテーマを変えないと難しいのか・・・と思う。
舞台を演じるイキウメは、ダンボールひとつでも、空間と時空を超える演出をする劇団で、観客は、俳優たちが紡ぐセリフの中で、各々の世界を構築し・・・舞台で演じられているストーリーは、ひとつだけれど、ディテールは、観客ひとりひとり・・・全員違うものを想像していることだろう。
そういう制約(?というか、それが演劇を見る楽しみでもある)がない映画は、観るモノが全てだ。
映画のよいところは、舞台上の背景やディテールを想像することなく、目の前に映し出してくれるところだろうか・・・。
閉鎖された村で起こるキュリオ対ノクスが、共存共栄の道を探りながら、人間本来の自然の中で暮らす・・・と言う意味を問うているのだろうか・・・?
舞台では、新人類ノクスの崩壊を予感させているのだが・・・。