友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

躁と鬱と中途半端な時間

2019年03月06日 17時15分43秒 | Weblog

  朝のうちは風もなく暖かかったので、バラの鉢の土作りをした。昼からも作業を続けていればよかったのに、どんよりした雲が広がってきたので家に閉じ籠っている。けれども、雨が降ってくる様子はない。雨になるのなら、友だちのところへ4月7日の「メモリアルコンサート」のチラシを持って行くつもりでいたので、中途半端な時間の遣い方になってしまった。

 朝から雨なら、久しぶりに映画でも観に行こうと思っていたが、観たい映画が思い当たらず、結局は何することもなく、ぼんやりと本などを読んで過ごしてしまった。1日の中日新聞に作家の諏訪哲史さんが、「僕はもう13年も躁鬱病と闘っています」と書いていた。「(自殺のような)逸脱は、全て躁のさなかに起きます。鬱の底では汗だくで全身が凝固し、視点を動かすのも苦しくなりますが、それでも躁よりは鬱の方が、逸脱しないだけましです」と。

 さらに「躁鬱病は一面認知症に似て、悪意なく人に迷惑をかけ、世間に理解されず断罪される病です」と書き、「今後人々の理解が進み、患者の迷走の苦しみを汲み取れる社会が来るよう、切に祈ります」と結んであった。人は誰でも、多かれ少なかれ、躁状態になったり、鬱状態になったりする。自殺するような「逸脱」に追い込まれてしまう人を私は知らずにいるが、気遣いが足りないのかも知れない。

 この文章の初めに、「職場の会議中『お前、泣いてるぞ』と言われ、触れてみると涙が顎から落ちていた」と、病気に気付いた話が書かれていた。最近の私は、感情に関係なく涙が流れる。えっ、これは躁鬱病の症状だったのかと思ったが、私の場合は花粉症のせいだった。何もやることがなかったりすると、無気力になってフトンに潜り込み不貞寝をしたこともあったが、花を育てるようになって、怠けてはいられなくなった。今日のような中途半端な時間が一番よくない。


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