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旧約聖書は恐ろしい話が多い

2011年12月17日 15時59分58秒 | Weblog

 若い頃は、旧約聖書を読んでみたいと思ったことはなかった。ふと、キリスト教を知るためには旧約聖書も読んでみた方が良いのではないかと思った。そんな時に書店で『旧約聖書 天地創造』という本が目に入った。こういう大雑把な見方は間違いなのかも知れないが、ユダヤ教もキリスト教もイスラム教も旧約を原点にしている。キリストは説教の中で、旧約の話をよく取り上げている。多分、当時としては旧約を知っていることは立派な人の象徴だったのだろう。

 

 「創世の書」の第1章が「神は天と地をつくられた」で始まることは誰もが知っている。それから神は「光あれ」と仰せられ、光を昼と呼び、やみを夜と呼ばれた。5日目には水の生き物と空の生き物をつくられ、6日目に「地にさまざまな種類の生き物が生まれいでよ」と仰せられ、最後に「海の魚と、天の鳥と、家畜と、野の獣と、地に這うものすべてを、これをつかさどる」者として人間をつくられた。神が人間のあばら骨で女をつくって、人間のもとに連れて行くと、人間は「さて、これこそ、わが骨の骨、わが肉の肉」と言った。「だからこそ、人間は父母を離れて、女とともになり、二人は一体となる」。

 

 宗教書というよりも叙事詩である。フェミニズムから見ると、男性から女性が生まれたというのは男尊女卑の思想だと言うことかも知れないが、男が先だろうと女が先だろうと、一向に構わないことだろう。男を中心としたのは当時の一般的な考え方にすぎない。そんなことよりも男と女は骨と肉とを分け合った存在で、いつかは父母を離れ、「女とともなり」逆から見れば「男とともになり」、「二人は一体となる」定めというのは実にうまく言い当てている。

 

 けれど、旧約聖書は恐ろしい物語だと言っていい。アダムとエバの間にカインとアベルという兄弟が生まれた。弟のアベルは要領がよくて神に好かれた。カインは言い争いからアベルを殺してしまう。神がカインに「弟のアベルはどこにいるのか」と聞く。カインは「知りません。私は弟の番人ではありません」と答える。神は「お前は大地のさすらい人となり、流れ者となるであろう」と仰せられ、エデンの東へ追放した。人間の歴史の最初が兄弟殺しから始まるのはなんという皮肉であり象徴的だろう。人間は今なお、兄弟で殺し合っているのだから。

 

 その後の、ノアの箱舟の話も堕落した人々を滅ぼすという話だからやはり恐ろしいし、ソドマとゴモラという町に「硫黄と火の雨を降らせた」という話もある。このソドムの町から神によってロトとその家族は助けられるが、ロトの妻は振り返って町を見たために塩の柱にされてしまう。残ったのはロトとそのふたりの娘だが、「私たちのところに来てくれる男の人はいない」からと、「父にぶどう酒を飲ませ、床をともにし、父から子種を受けましょう」とある。兄と妹、義理の父と娘、町を救うために敵の大将との情交、あるいは不倫、旧約聖書にはそんな話がいっぱい出てくる。

 

 レンブラントが描いた「パテシバ」は豊満な体をした女性が体を洗ってもらっているところだが、これからダヴィデ王に召されるところらしい。彼女の夫はダヴィデ王の部下である。そうした事情を知って西洋の絵画を見ると、そうなのかと思うことも多い。まだ、アブラハムの時代までしか読んでいないが、すでにエジプト人やギリシア人なども異邦人として出てくる。結果を知っているからか、歴史は面白い物語だ。

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