友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

いっそうこの言葉が気になった

2022年02月04日 17時16分46秒 | Weblog

 マンションの友だちが亡くなった。咳が出て、熱があったようで、呼吸器内科の病院へ行ったが、心不全で命を絶った。身体が大きくてスポーツマンで、ソフトボールの審判も務めていた。労を惜しむことが無く、マンション設備の修理や見回りをよくやってくれていた。

 会社を辞めてからは、毎日のようにマンションのどこかで見かけるくらい、マンションの維持管理に尽くしてくれた。頼まれたらいやと言えない男で、気さくにみんなと付き合っていた。市の夏祭りを盛り上げようと屋台を出したり、春にはみんなを誘って「桜の宴」に出かけたりもした。

 毎月預金をして、国内旅行はもちろん海外旅行にも出かけた。誕生日会と称して各家庭持ち回りで宴を開き、料理を持ち寄り、よく飲んでよく食べよくしゃべった。時が経てば少しずつ変わっていくのは仕方のないことだ。受け止める他ない。それにしても、今日は立春か‥。

 『ノルウェーの森』〈上〉の初めの方の46ページに、なぜかゴチック体の太字で書かれた1行がある。「死は生の対極としてではなく、その一部として存在している」。自殺した親友の死から、主人公が導き出した言葉だ。それまでは「死というものは完全に生から分離した独立的な存在として捉えていた」。

 しかし親友が「死んだ夜を境にして、僕にはもうそんな風に単純に死を(そして生を)捉えることができなくなってしまった。死は生の対極存在なんかではない。死は僕という存在の中に本来的に既に含まれているのだし、その事実はどれだけ努力しても忘れ去ることの出来るものではないのだ」。

 太字で書かれたこの死生観が、この物語にどのような展開をもたらすのかと先が気になる。友だちの呆気ない死が飛び込んできて、いっそうこの言葉が気になった。上の文章の、「いるのだし」という表現を気にしながら。


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