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2019.01.11 昨夜は眠れました、そして「ごぼうと牛肉の旨煮」のこと。

久しぶりに、昨夜は眠れました。
悩んでいた「のばらさんロス」のことを、書かせて頂いたからでしょうね。
自分でも、思わぬ効果に驚きました。 

書くのが難しくて苦戦したので、寝たのは深夜2:30分。
しかし、嬉しいことには、ぐっすり眠れて、今朝起きたのは 9:26分でした。
熟睡の感がありました。 

嬉しい!
ようやく吐き出したら、眠れたなんて。こんなことがあるの?と思いました。

でも、私は良いけど、読まされる方は迷惑ですよね。クダクダと。
読んで頂いた方、どうかお許し下さいませ。有り難うございました。
 



<夕食は好物のごぼうの旨煮>

ごぼうはぶつぎり、又は乱切りが美味しいが、私は、歯の為に薄切りにした。
(ごぼうはさっと水に晒したが、晒さない方が良いとも言われている。)
鍋にごぼうを敷き詰めその上に牛肉を広げる。 油等は引かない。
少量の醤油と酒少々を廻し掛ける。
好みで、砂糖を使っても良い。

蓋をして、中火で煮る。
醤油と酒少々とごぼうの水気のみで煮る。
煮上がったら、上下を混ぜて、味を均等にする。
器に盛ってから、かいわれ等の青みを散らす。
牛肉を上等にすると、お客料理として喜ばれる。
 

(夕食)

ごぼうと牛肉の旨煮、胡瓜とジャコの酢の物、お吸い物(かまぼこ、椎茸、三つ葉、柚子の皮)
ご飯、お屠蘇

ごぼうの旨煮は大盛りにした。これで3回分ぐらいある。
やっぱり美味しい。大好物。
お吸い物の美味しかったこと。柚子の皮を入れたお吸い物は抜群。
お屠蘇は、まだ2袋あるので、急いで飲まなければ。
せっかく梅酒を頂いたのだから。

 

迎春用品の器の一部、まだ出している。
これが好きで片付けられられずに、今迄は、ひどい時には、お雛様迄出していたが、
これは反省。 来週には片付けたいと思う。   

 

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2019.01.10 今年も梅酒を頂く、そして苦しい「のばらさんロス」の日々。

(1月9日)

今年も、のばらさんのご主人から、梅酒が届けられた。
 

 8リットル入りの大瓶であった。
 

これは灯油などを移すのに使うポンプだと思うが、梅酒を移すのに重宝
している。昨年は、大型花瓶の水換えに使って助かった。
たった108円の優れもの。

のばらさんのご主人が、移し替えの時こぼすので、床中べとべとになると
言われていたので、このポンプを買ってきて、この日お渡しした。 

 

私は、わざわざ大きい清酒のパックを買って、空き箱を梅酒の移し替え用に
利用している。ガラス瓶は、割れそうで怖いから。
これが台所にゴロゴロあるので、知らない人は,私のことを酒豪だと思って
いるかも知れない。
清酒は、梅酒の無い時ぐいのみに1〜2杯の飲むぐらいで、料理にはよく使う。

のばらさんが生きていた頃は、週に2〜3回は会っていたので、梅干しも梅酒も
もっと小さな瓶で貰っていて、無くなれば又お替わりをしていた。
私も、始めはお替わりを遠慮していたが、のばらさんが言った言葉で、次から
安心してお願いする様になった。
それは、私のお替わりをご主人が喜んで、「え〜?そうかそうか?オーちゃん、
梅干し食べてるんや。えらいえらい!」と言って張り切って詰めているよと…。
え〜?お替わりすると褒めて貰えるの?それを聞いて私は態度が大きくなって、
次からは平気で梅干しと梅酒をお替わりしていた。
高価な物なので、材料費をお払いしたいと言っても、梅干しはお金を貰うと縁起
が悪いのだと言って、取ってくれなかった。本当かしら? 

その後、彼女が亡くなってからはご主人が大きな瓶のままで届け下さる様になった。

ちなみに、梅干しと梅酒の作り方は、のばらさんの母上から婿殿に伝えられていて、
のばらさんは作り方を知らなかった。
彼女が亡くなっても、ご主人から「これからも長生きして貰いたいので届けますから」
と言って貰っている。のばらさん、ありがとう!
 


 <苦しいのばらさんロスの日々>

今日は、朝10時の約束だったが、朝7時45分にピンポンが鳴って、びっくりした。
ご主人は、歯医者さんの予約を忘れていて、私とダブルブッキングしてしまったとの
ことで、あわててとんぼ返りで帰られた。 
8時に目覚ましを掛けていたが、この頃眠れなくて7時に起きていたので良かった。
しかし、今回時間がある筈だったので、近くの喫茶店へでも行って、ご主人にのばらさん
がいなくなってからの、私の「苦しいのばらさんロス」を聞いて貰おうと思っていたのに、
それが出来なかった。
(以前は私は明け方まで仕事をしていて、昼前にようやく起きていたので、のばらさんから
それを聞いていたご主人は、私が10時でも良いと言うと、びっくりされていた!そんなに
早く起きているのと。ショップの構築が一段落した今は、珍しく私も人並みになった。) 
 

毎日昼前に、のばらさんは「おはよう、 おーちゃん、起きてる?」と綺麗な優しい声で
電話をくれた。
二人の時間が合えば、車で迎えに来て、私が足が悪い間は、 神戸はもちろん有馬温泉や、
京都迄も車で連れて行ってくれた。
その頃、六甲連邦の山の名前を二人で全部覚えたものだった。
山に登った訳ではなく、ホテルオークラの最上階から眺めていただけだったが。
電話は毎日数回、そして会うのは3日に一度ぐらいだったか?
私の脚が治ってからはメールが多くなり、「今日の午後は暇よ、そっちは?」
それに対して、私も時間があれば電車で大阪、神戸へ出掛けたり、茨木で落ち会って、
彼女の車で色々なところへ連れて行って貰った。

彼女の家は裕福なお宅なのに、信条からかボランティアの仕事をしていて、仕事柄いつも
携帯電話を胸にぶら下げていたので、連絡がすぐ取れてお互いに返事を待たせることが
無かった。
20年程前は、彼女の帰宅は深夜11時だったので、それから電話をし合っていた。
遅く帰宅した彼女に、「偉いね。喜んでおられるでしょう?」と言うと「え?だれが?」
「相手の方がよ。」と言うと、何と彼女は「喜んでいるのは私よ。」と言った。
彼女の一回忌の時の食事の席で、私がこのことを言うと、彼女の優しく素晴しい三人の
娘さん達は、皆感動していた。

24年前の阪神大震災で神戸の我が家が全壊し、寝屋川の避難所から大阪に通勤しながら、
休日にボランティアの方達と大阪で集合して神戸の復興に通った1年半の間、ボランティア
の方々の中で一番大人しい彼女が、実は熱心な陰の推進者だった。人の気が付かない所への
配慮には頭が下がった。

1年半の避難生活の後、再建叶って神戸へ戻った時、一念発起して定年1年前に職場を辞めて
新しい目標に向かった私へ、彼女は全身全霊で励ましてくれた。

当時パソコンで漫画を描くことがプロの目標だった時代、おばさんの私は、漫画ではなく
花や風物等を描けないものかと無謀な挑戦をして、手探りでやり出した時、マッキントッシュ
の先生方がこんなことが出来るのかと驚愕して、これはどうやって描いたのか? 次からは、
作品を描く度にプリントして渡して欲しいと言われた頃、私はほとんど眠っていなかった。
朝日が射して朝だと分かる日々だった。それで筋肉を弱らせて、やがて歩けない程になった。
そんな危なっかしく歩み出した私を、彼女は惜しみなく励まし誉めてくれた。
おかしな表現だが、ヨチヨチ歩きの幼子に「アンヨは上手」と優しく手を打って歩かせる母親の
イメージを私はいつも感じていた。 

そして、20数年前ホームページを作った時、13年前ショップを作った時、11年前ブログを
始めた時、そして、それ以来ずっと絶え間なく、彼女に全部見て貰っていた。

もちろん彼女は素人だが、彼女は私に自信を持たせ、背中を押してくれる無くてはならない人
だった。
クヨクヨ型の私は、彼女の「いいやんか!」という一言で、不安と胸のつかえがストンと落ちて、
又前を向いて進むことが出来た。この「いいやんか!」に助けられた。
彼女は、あかんたれの私には母親の様な役割だった。実際に、娘3人、孫8人の子育て上手だった。

素人の彼女だけれど、いつも心から誉めてくれた。それは、ご主人も同じだった。
初めて握ったマウスで初めてのことに挑戦する私に、奇しくもこんな人達が居てくれたなんて!
いつも神様に感謝していた。
彼女の性格は簡単に書けるものではない。元職場の後輩で、50年間変わらない人だった。私は
心の中で観音様と呼んでいた。 もちろん今でもそう思っている。やっぱり観音様だったんだと。

今でも、何かがあった時、思わず電話をしようとして、もう彼女はいないのだと気付く時の
悲しさと虚しさ。
2年半経ってもそれは薄れない。却って深まっている。最近眠れなくなった。
(それで日中居眠りばかりしている。)
この思いをご主人に話して、お互いに共感したいと思っていたのに、出来なかったのが残念。

ブログを見て、毎日楽しそうでいいねと言う友人が居るが、苦しい「のばらさんロス」のことは、
なかなか伝わらないだろうと思う。今迄人に言ったことは一度も無い。

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