5月27日付ニューヨークタイムズのコラム。
6月5日の朝日新聞デジタルに掲載されていた。外出自粛・在宅勤務の弊害を述べている。時間や空間の境目(役目と言ってもいいかも)が無くなり、それを「生活や社会のスープ」と表現しているところが印象的である。
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(コラムニストの眼)
「部屋」を出る重要性 精神的リセット、集中力を左右 フランク・ブルーニ
2020/6/5 5:00 会員記事
2008年に、ニューヨーク・タイムズ紙でフルタイムで働くかたわら、隙間時間に大急ぎで回顧録を作ろうとしていた。その時、私はある習慣を身につけ、それで大いに助けられた。
ここから続き
新聞記事を書く時は、自宅アパートの一室で、大きな机の上のパソコンに向かう。ところが、たまっている本の原稿を執筆する時は、別の部屋の小さなダイニングテーブルでノートパソコンで書いていた。
ダイニングテーブルに移動してノートパソコンを起動するのが合図になり、そこから立ち上がるのも合図になった。家の中に回顧録のための空間があったからこそ、私の脳内にもそのための場所があった。集中しようと思えば、本当に、ものすごく執筆に集中できた。これほどまでに勢いよく、何事にも縛られずに集中して書いたことは、それまでなかったと思う。
このことを思い出したのは、最近、友人や仕事上の付き合いのある人たちと話していた時だ。話題になったのは、この締め付けがきつい、いまいましいロックダウン状態をどうふんばっているかについて。生活のあらゆる面で境界線がなくなり、とらえどころがない、ぼんやりとしたものになったかという不満を彼らは繰り返していた。
突然、家とオフィスが一つのものになり、気分転換のために通信環境のいいコーヒーショップへ走ることもなくなった。子どもたちは、かつては家をいったん出たら何時間も帰ってこなかったのに、今はずっと家で足元にいる。配偶者や恋愛相手は四六時中そばにいる。
平日と週末の区別がつかなくなった。いつもカレンダーに書き込んでいた印(誕生日パーティー、卒業式、結婚式)は消え、特定の場所で特別な催しを開くという習慣もなくなった。あらゆる活動の場が、ただ1カ所だけになった。自宅だ。
通勤通学や交通渋滞、多くの用事にわずらわされずに済むことは効率的かもしれないが、同じくらい簡単に気力がそがれることにもなりうる。実際、私の友人や知人は、いかに仕事がはかどるかを熱く語っていたわけではない。これまでになくきつく停泊させられているのに、漂流しているような感じがするという矛盾に驚いていた。ずっと同じ場所での避難生活によって、狭すぎる空間で迷ったままにされている。
*
もちろん彼らも私も、この上なく恵まれている。家でじっとしているという選択肢がない人は大勢いる。健康上のリスクが高くても外出せざるを得ない状況にいる人たちだ。彼らは気が遠くなるような単調な生活を歓迎するだろう。
だとしてもやはり、これは試練だ。近く掲載されるコラムのために取材したある大学教授はこう言っていた。同じ場所に座り、同じ画面を凝視し、同じペースで精神を新陳代謝させる状態が長く続く場合、頭のキレを保つことがいかに難しいか。彼はこのパンデミックが起きる前には「部屋を出ることの重要性」を十分に理解していなかったと言った。
「部屋を出ることの重要性」。これはまさに、うまく言葉にできなかったが、私が先ほど記したような方法で本を執筆していた時に認識し、付き従っていたことだ。この表現(着想)は、物理的な場所について言っているだけではない。
私たちはよく、自らの行動に意味を与える。行動を定義付け、範囲を定め、場所を決め、ほかのことと切り離すことによって、その行動をほめたたえ、確実なものにする。ある行動が特別なことであるためには、そこに向かい、そこから離れられることがとても重要だ。
セラピストはなぜ、不眠症の人にベッドで本を読んだりテレビを見たりするのではなく、眠りたいときにだけ枕に頭を置くように言うのか。境界線を構築するためだ。こちら側では目が覚め、あちら側では眠る。ある合図に対して決まった行動で反応するよう、脳と体を訓練するのだ。
*
オフィスの目的の一つは、精神的なリセットを促すことにある。共有スペースを提供する「WeWork」が現れ、急速に広まった理由もそうだ。いま私は「ここ」にいて、Yのやり方でXをする。少なくとも「あそこ」に戻るまで、といった具合に。
服装もまた別の形での定義付けであり、決まった合図である。のりの利いたシャツを着るのはビジネスの時間だという知らせであり、キラキラした格好はパーティーの時間だ。スウェットパンツをはけば、脱力する時間というわけだ。
では、朝のコーヒー、Zoomのオンライン会議、オンライン飲み会、夕食がスウェットパンツ姿だったらどうだろう。コーヒーもオンライン会議もカクテルもキャセロールも、それぞれが数十フィートの距離で起きる。隔離がもたらした混沌(こんとん)を見よ。
「社会の形そのものが私たちの目の前で溶けてなくなりつつある」。ライターのサム・アンダーソン氏は最近、ニューヨーク・タイムズ・マガジンに載ったエッセーで指摘した。業務日や食事時間といった決まり事が「意味を失ってしまった。社会は大部分が骨抜きになってしまった。『元社会』のスープに」と。
骨抜きにされた、スープのような生活。その通りだと思うし、そう感じる。集中力は、骨と境界線に依存する。区画と区分けを必要としている。
私は新しい本を執筆している。いつになく筆の進みが遅い。
(〈C〉2020 THE NEW YORK TIMES)
(NYタイムズ、5月27日付電子版 抄訳)
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6月5日の朝日新聞デジタルに掲載されていた。外出自粛・在宅勤務の弊害を述べている。時間や空間の境目(役目と言ってもいいかも)が無くなり、それを「生活や社会のスープ」と表現しているところが印象的である。
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(コラムニストの眼)
「部屋」を出る重要性 精神的リセット、集中力を左右 フランク・ブルーニ
2020/6/5 5:00 会員記事
2008年に、ニューヨーク・タイムズ紙でフルタイムで働くかたわら、隙間時間に大急ぎで回顧録を作ろうとしていた。その時、私はある習慣を身につけ、それで大いに助けられた。
ここから続き
新聞記事を書く時は、自宅アパートの一室で、大きな机の上のパソコンに向かう。ところが、たまっている本の原稿を執筆する時は、別の部屋の小さなダイニングテーブルでノートパソコンで書いていた。
ダイニングテーブルに移動してノートパソコンを起動するのが合図になり、そこから立ち上がるのも合図になった。家の中に回顧録のための空間があったからこそ、私の脳内にもそのための場所があった。集中しようと思えば、本当に、ものすごく執筆に集中できた。これほどまでに勢いよく、何事にも縛られずに集中して書いたことは、それまでなかったと思う。
このことを思い出したのは、最近、友人や仕事上の付き合いのある人たちと話していた時だ。話題になったのは、この締め付けがきつい、いまいましいロックダウン状態をどうふんばっているかについて。生活のあらゆる面で境界線がなくなり、とらえどころがない、ぼんやりとしたものになったかという不満を彼らは繰り返していた。
突然、家とオフィスが一つのものになり、気分転換のために通信環境のいいコーヒーショップへ走ることもなくなった。子どもたちは、かつては家をいったん出たら何時間も帰ってこなかったのに、今はずっと家で足元にいる。配偶者や恋愛相手は四六時中そばにいる。
平日と週末の区別がつかなくなった。いつもカレンダーに書き込んでいた印(誕生日パーティー、卒業式、結婚式)は消え、特定の場所で特別な催しを開くという習慣もなくなった。あらゆる活動の場が、ただ1カ所だけになった。自宅だ。
通勤通学や交通渋滞、多くの用事にわずらわされずに済むことは効率的かもしれないが、同じくらい簡単に気力がそがれることにもなりうる。実際、私の友人や知人は、いかに仕事がはかどるかを熱く語っていたわけではない。これまでになくきつく停泊させられているのに、漂流しているような感じがするという矛盾に驚いていた。ずっと同じ場所での避難生活によって、狭すぎる空間で迷ったままにされている。
*
もちろん彼らも私も、この上なく恵まれている。家でじっとしているという選択肢がない人は大勢いる。健康上のリスクが高くても外出せざるを得ない状況にいる人たちだ。彼らは気が遠くなるような単調な生活を歓迎するだろう。
だとしてもやはり、これは試練だ。近く掲載されるコラムのために取材したある大学教授はこう言っていた。同じ場所に座り、同じ画面を凝視し、同じペースで精神を新陳代謝させる状態が長く続く場合、頭のキレを保つことがいかに難しいか。彼はこのパンデミックが起きる前には「部屋を出ることの重要性」を十分に理解していなかったと言った。
「部屋を出ることの重要性」。これはまさに、うまく言葉にできなかったが、私が先ほど記したような方法で本を執筆していた時に認識し、付き従っていたことだ。この表現(着想)は、物理的な場所について言っているだけではない。
私たちはよく、自らの行動に意味を与える。行動を定義付け、範囲を定め、場所を決め、ほかのことと切り離すことによって、その行動をほめたたえ、確実なものにする。ある行動が特別なことであるためには、そこに向かい、そこから離れられることがとても重要だ。
セラピストはなぜ、不眠症の人にベッドで本を読んだりテレビを見たりするのではなく、眠りたいときにだけ枕に頭を置くように言うのか。境界線を構築するためだ。こちら側では目が覚め、あちら側では眠る。ある合図に対して決まった行動で反応するよう、脳と体を訓練するのだ。
*
オフィスの目的の一つは、精神的なリセットを促すことにある。共有スペースを提供する「WeWork」が現れ、急速に広まった理由もそうだ。いま私は「ここ」にいて、Yのやり方でXをする。少なくとも「あそこ」に戻るまで、といった具合に。
服装もまた別の形での定義付けであり、決まった合図である。のりの利いたシャツを着るのはビジネスの時間だという知らせであり、キラキラした格好はパーティーの時間だ。スウェットパンツをはけば、脱力する時間というわけだ。
では、朝のコーヒー、Zoomのオンライン会議、オンライン飲み会、夕食がスウェットパンツ姿だったらどうだろう。コーヒーもオンライン会議もカクテルもキャセロールも、それぞれが数十フィートの距離で起きる。隔離がもたらした混沌(こんとん)を見よ。
「社会の形そのものが私たちの目の前で溶けてなくなりつつある」。ライターのサム・アンダーソン氏は最近、ニューヨーク・タイムズ・マガジンに載ったエッセーで指摘した。業務日や食事時間といった決まり事が「意味を失ってしまった。社会は大部分が骨抜きになってしまった。『元社会』のスープに」と。
骨抜きにされた、スープのような生活。その通りだと思うし、そう感じる。集中力は、骨と境界線に依存する。区画と区分けを必要としている。
私は新しい本を執筆している。いつになく筆の進みが遅い。
(〈C〉2020 THE NEW YORK TIMES)
(NYタイムズ、5月27日付電子版 抄訳)
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