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これまで北海道は何度か訪れているが、函館に行くのは初めてだった。滞在は延べ1日弱だったので、有名な所しか行っておらず、その一つが五稜郭だった。史跡を巡りながら今回改めて榎本武揚の生涯について知ったのだが、非常に興味深かった。
この時代の歴史については学校教育+αレベルの知識しかなく、榎本は函館戦争(五稜郭の戦い)で敗れて、自害あるいは旧幕府軍の大将として処刑されたものだと認識していた。
それが実は大きな間違いで、戦争終結後約2年間の獄中生活を経て特赦出獄。明治政府に官僚として登用されると、駐露特命全権公使として『樺太・千島交換条約』を締結したり、内閣制度の成立後は6度の内閣で連続して逓信大臣、文部大臣、外務大臣、農商務大臣を歴任と、目覚しい活躍をしていたのである。今でも「明治最良の官僚」と呼ばれたりしているそうだ。
そして、榎本の助命に尽力したのは、榎本率いる旧幕府軍の鎮圧にあたった新政府軍の大将だった黒田清隆自身だった。黒田は降伏してきた榎本と戦争終結に向けて交渉している中で、彼のリーダーとしての非凡な才能や、オランダ留学経験を基にした幅広い知識に感服し、「こんな優れた男を殺してはならない。必ず明治政府に必要な人物となる。」と、処刑反対の署名を自ら行い命を助けたのである。後年、榎本は黒田清隆内閣時代に農商務大臣を務め、今の東京農業大学を創設している。
本来、榎本が江戸を脱出し蝦夷へ渡った目的は、幕府の倒壊により、生活の糧を失った幕臣の生活を保護するために、新天地で開拓事業をすることであった。新政府にもその旨を申請していたにもかかわらず、それが認められず函館戦争に至った。
もし榎本が五稜郭で討ち死にをしていたなら、ある種悲劇のヒーローとしてその物語と名声はもっと大きく後世に語り継がれたかもしれない。それが官僚としての“第二の人生”で大活躍し、にもかかわらず(明治政府で覇権を握っていた薩長出身者でない旧幕臣であるが故か!?)、日本近代史の中でそれほどメジャーな評価がなされていない、というのは、数奇かつ皮肉な運命だなと感じずにはいられない。
この時代の歴史については学校教育+αレベルの知識しかなく、榎本は函館戦争(五稜郭の戦い)で敗れて、自害あるいは旧幕府軍の大将として処刑されたものだと認識していた。
それが実は大きな間違いで、戦争終結後約2年間の獄中生活を経て特赦出獄。明治政府に官僚として登用されると、駐露特命全権公使として『樺太・千島交換条約』を締結したり、内閣制度の成立後は6度の内閣で連続して逓信大臣、文部大臣、外務大臣、農商務大臣を歴任と、目覚しい活躍をしていたのである。今でも「明治最良の官僚」と呼ばれたりしているそうだ。
そして、榎本の助命に尽力したのは、榎本率いる旧幕府軍の鎮圧にあたった新政府軍の大将だった黒田清隆自身だった。黒田は降伏してきた榎本と戦争終結に向けて交渉している中で、彼のリーダーとしての非凡な才能や、オランダ留学経験を基にした幅広い知識に感服し、「こんな優れた男を殺してはならない。必ず明治政府に必要な人物となる。」と、処刑反対の署名を自ら行い命を助けたのである。後年、榎本は黒田清隆内閣時代に農商務大臣を務め、今の東京農業大学を創設している。
本来、榎本が江戸を脱出し蝦夷へ渡った目的は、幕府の倒壊により、生活の糧を失った幕臣の生活を保護するために、新天地で開拓事業をすることであった。新政府にもその旨を申請していたにもかかわらず、それが認められず函館戦争に至った。
もし榎本が五稜郭で討ち死にをしていたなら、ある種悲劇のヒーローとしてその物語と名声はもっと大きく後世に語り継がれたかもしれない。それが官僚としての“第二の人生”で大活躍し、にもかかわらず(明治政府で覇権を握っていた薩長出身者でない旧幕臣であるが故か!?)、日本近代史の中でそれほどメジャーな評価がなされていない、というのは、数奇かつ皮肉な運命だなと感じずにはいられない。
その話は今回の記事を書くとき色々と資料を読んで知りました。その酒乱が原因で、晩年は側近にもそっぽを向かれるが、榎本武揚は(恩を感じているのかな?)最後までついていったとか。
「酒は呑んでものまれるな」ですな。