◇『日没』
著者:桐野 夏生 2020.9 岩波書店 刊
「ヘイトスピーチ禁止法」ができたときに「文化文藝健全化促進法」ができた(ただしこの小説内でのこと)。
作家であるマッツはある日突然に総務省文化局文化文藝倫理向上委員会なる組織から召喚状を受け、
茨城県某所にある療養所に収監される。収監…まるで刑務所に入れられたような印象であるが、扱い
はまさに刑務所だった。
所長の多田が説明するところではマッツの作品は性的、暴力的場面が多くの批判が寄せられている。
作家は偏向した内容の小説を平気で垂れ流し、異常なことを書いて平気で金を稼いでいる。猥褻、不倫、
暴力、差別、中傷、体制批判などを無責任に書くから世の中が乱れるという論法である。こうした偏向を正
してほしいというのだ。この証のため作文が求められる。
反抗的な言辞・行動をとると減点されて拘留時間が週単位で増えていく仕組みになっており、早くもマ
ッツは減点7となった。
マッツはだんだん懐柔されて言いなりの作品を書くようになる。作文の出来が良いと褒められてご褒美
にコカ・コーラを貰えたりする。庭の散歩は許されるが職員・収監者間の会話は禁止されている。
ある日そば殻の枕の中に遺書を発見した。この女性は206日ここで過ごしたが楽になるために自殺する
とあった。綿々と綴った遺書でこの施設で働く人間の実像と人間関係を知った。看護師という三上が割と
優しく扱ってくれる。また越智という不愛想だが頼りになりそうな職員がいる。
昔結核療養所だった建物には地下2階まであり、そこには拘束衣で縛られた拘留者がいて無残な姿を
見せられる。暴れたマッツは薬物を注射されて地下2階に送られ拘禁状態になる。点滴・薬物で眠らされ
て身体の自由も効かなくなった。
ひたひたと押し寄せる監視社会に傾斜していく現在の社会状況を桐野夏生的に組み立てたデストピア
物語と言ったらよいだろうか。直接的に糾弾しているわけでもないが、現在の社会的状況からしてありうる
近未来を見せはするものの、三上や越智など興味深い登場人物がおりながら踏み込みが浅いし、結果
的にどこか盛り上がりに欠けた冗漫なストーリーとなって失望した。
結局マッツは拘束衣を着せられてしまうが、三上と越智に助け出され一時明るい展望を持ったものの、
自発的に死ぬ道を用意して貰ったけだった。日没のようにも見える朝日を見たのがマッツのこの世での
最後の光景だった。
(以上この項終わり)