◇『新書太閤記(六)』
著者:吉川 英治 1990.6 講談社 刊 (吉川英治歴史時代文庫)
信長の中国攻略は総大将に秀吉が据えられて他の先輩幹部は複雑な気持ち
を抱えて応援に向かう。
頑強に抵抗を続けた三木城は秀吉の遣わした官兵衛の説得に応じ城主別所
長治、乙戸友行、一族治忠が割腹し、ついに3年近くに及ぶ籠城が終わりを
告げた。これには毛利方は慌てた。
丹後を受け持つ光秀は次々と小城を陥すものの牙城八上城がなかなか落ち
ない。秀吉の華々しい中国攻略の戦果を耳にするにつけ、信長の気持ちを忖
度する。
秀吉は細かなことでもいちいち信長に報告乃至相談していた。「報連相」
を欠かさなかった秀吉は「愛いやつ」だったが、秀吉の中国戦線での快進撃
に後れを取っていることへの焦りと、信長の不満不信を懸念する光秀では決
定的に格差がついてしまったのである。
秀吉が師とも恃む竹中半兵衛が死んだ。秀吉は身も世もなく悲しむ。半兵
衛の刎頚の友黒田官兵衛は謀反を起こした荒木村重を説得に向かったまま囚
われの身になっていたが、秀吉の忍びの一人渡辺天蔵と家中の母里、井上、
栗山らの力で救出される。
官兵衛は信長に謁見の後再び秀吉の陣中を訪れ三木攻めに加わる。
一方荒木村重はと言えば、謀反の揚句当てにしていた毛利方、大坂の石山
本願寺などが次々と落剝したうえ家中にも裏切りが続出、村重自身が兵士を
置き去りに逃亡し自壊した。
中国攻略は三木城の陥落を機に、播州、但馬、美作、因幡ことごとく秀吉
の傘下に下った。その数30万ともいわれる戦軍が、中国地方を席捲した。
山陽地方の総帥小早川隆景はもはや抗すべき術もないと覚悟、信長へのを
覚悟する。
信玄が没してから10年、信長、家康、北条は大軍を甲州に送り込み、甲州
軍は決定的敗北を喫し、ついに勝頼は新しく設けた韮崎の府中城を焼き捨て
天目山にて没した。戦国時代の群雄割拠の版図は大きく変わった。
織田・徳川軍は諏訪湖のほとりで戦勝祝いを催した。地位がある光秀は戦
いに加わっていないが招かれた。そこで信長の不興を買って万座の中で扇子
で打擲の辱めを受ける。本能寺の変の予兆である。
(以上この項終わり)