くじびき はずれ の 見た世界

シニア初級者というのに世間知らず。
少年のようなつぶらな瞳?
そろそろ大人の記事を書きたい毎日です。

五月晴

2015年05月10日 23時19分23秒 | 奈良学

五月晴という言葉がピッタリの一日。
遠景は湿度の割には霞んでいましたが日陰では爽やかな風、日向は眩しい陽射の一日でした。

4月15日の日記で届いていた奈良県立美術館の招待券を行使して参りました。

  

アメリカ合衆国の東洋美術史家、哲学者で、明治時代に来日したお雇い外国人アーネスト・フラン
シスコ・フェノロサ(Ernest Francisco Fenollosa、1853年2月18日 - 1908年9月21日)。

明治時代、奈良を訪れた岡倉天心とフェノロサは仏像彫刻に大きな感銘を受け、それらの保護を
唱えると同時に、その素晴らしさを美術を学ぶ学生達に伝えました。

明治維新後、明治天皇や神道に“権威”を与える為に、仏教に関するものは政府の圧力によって
タダ同然で破棄されていました。
また全国の大寺院は寺領を没収されて一気に経済的危機に陥り、生活の為に寺宝を叩き売るほど
追い詰められていたそうです。
財政難の地方では最初から寺領を狙って廃寺が行なわれるケースも多々あったようです。

たとえば『阿修羅像』で有名な奈良興福寺の場合、寺領の没収と同時にすべての僧が神官に転職
させられ、せっかく戦国時代の兵火から復興した伽藍を再び破壊し、三重塔や五重塔が250円で
売りに出されました。
また塀が取り払われ境内は鹿が遊ぶ奈良公園となり、最終的には誰もいない無住の荒れ寺となって
しまった。
五重塔は焼かれる直前に周辺住民が火事を恐れて阻止したという。また、別の寺では政府役人の
前で僧侶が菩薩像を頭から斧で叩き割って薪(たきぎ)にしたという話もあるほど、仏教界は狂気染
みた暴力に晒されていました。

そんな現実を憂いて日本美術の保護に立ち上がったフェノロサは日本人が愛する“幽玄”の精神を
学ぶ為に能楽師の梅若実に入門したり、日本画家たちに覚醒を求める講演を行ったりと努力を
重ねるうちに政府の宝物調査団に任命され、文部省職員となっていた岡倉天心と、奈良や京都の
古社寺を歴訪して研究を重ねました。

法隆寺・夢殿が開扉され、住職でさえ見ることができない“絶対秘仏”だった『救世(くせ)観音像』
(等身大の聖徳太子像)が日の目を見たのも彼の功績の一つでした。

彼の説得や影響を受けた明治時代中期以降の日本近代美術の巨匠、高村光雲、竹内久一、平櫛
田中、狩野芳崖、横山大観、下村観山、菱田春草らの名品が勢揃いしていました。
一番最近の物では東京オリンピックの昭和39(1964)年の物もありました。

館内は撮影禁止なので奈良県立美術館のFacebookページから一部お借りしました。

                                                

近代の作品なので像も絵画も顔立ちが現代風で親しみもありました。

展示室以外にも売店・ギャラリーで、なら北町・散華美術館の紹介も含めて散華の展示もあって
いろんなお寺の散華(手のひら大)を一堂に見ることが出来ました。