信州イスラム社会勉強会で、松本出身の福島安正の勉強会に誘われて参加しました。松本に住みながら正直福島安正についてはまったく知りませんでした。夏に松本市博物館の生い立ちの展示の中で福島安正の遺品などの寄贈を受けたのが始まりだということを知ったばかりでしたが、なぜイスラム?この疑問は第1回目の学習会では解くことはできませんでした。信州イスラム社会勉強会の板垣雄三先生によると軍楽隊はトルコが発祥の地で、福島安正が軍鼓の名手であったことが紹介されました。
社民党の84歳の先輩に聞くと小さい頃福島安正の伝記を読んだということです。江戸時代松本藩の武士が住んでいた西町に福島大将生誕の地の碑があります。初代松本市長の小里頼永の碑文が刻まれている。
(以下ウィキペディア)嘉永5年(1852年)、信濃国松本城下(現・長野県松本市)に松本藩士・福島安広の長男として生まれる[1]。慶応3年(1867年)、江戸に出て、幕府の講武所で洋式兵学を学び、戊辰戦争に松本藩兵として参戦。
明治2年(1869年)、藩主・戸田光則の上京に従い、開成学校へ進み外国語などを学ぶ。明治6年(1873年)4月、明治政府に仕官し、司法省から文官として明治7年(1874年)9月に陸軍省へ移る。明治9年(1876年)7月から10月までアメリカ合衆国に出張。フィラデルフィア万国博覧会へ西郷従道に随行。明治10年(1877年)の西南戦争では福岡で征討総督府の書記官を務めた。
明治11年(1878年)5月、陸軍士官登用試験に合格し、陸軍中尉となる。同年12月、参謀本部長伝令使に就任。明治12年(1879年)3月、陸軍教導団歩兵大隊付となり、同年12月、参謀本部管西局員に異動。中国、朝鮮などを実地調査し、明治16年(1883年)2月、陸軍大尉に昇進。同年6月、清国公使館付となる。
明治17年(1884年)11月、参謀本部管西局員兼伝令使に就任。明治18年(1885年)2月から4月まで、天津条約の交渉に随員として陪席する。陸軍大学校でドイツから来日したメッケルに学ぶ。明治19年(1886年)にはインド、ビルマ方面を視察の上、翌1887年(明治20年)に陸軍少佐に昇進。ドイツのベルリン公使館に駐在、公使の西園寺公望とともに情報分析を行い、ロシアのシベリア鉄道敷設の情報などを報告する。
明治25年(1892年)、帰国に際し、冒険旅行という口実でシベリア単騎行を行い、ポーランドからロシアのペテルブルク、エカテリンブルクから外蒙古、イルクーツクから東シベリアまでの約1万8千キロを1年4ヶ月をかけて馬で横断し、実地調査を行う。この旅行が一般に「シベリア単騎横断」と呼ばれるものである。その後もバルカン半島やインドなど各地の実地調査を行い、現地情報を参謀次長の川上操六らに報告する。
明治26年(1893年)2月、陸軍中佐に進級。明治27年(1894年)6月、京城公使館付となる。同年8月、第一軍参謀として日清戦争に出征。
明治28年(1895年)3月、陸軍大佐に昇進。同年9月、参謀本部編纂課長となり、欧州・アジア旅行、参謀本部第3部長、同第2部長を歴任。
明治33年(1900年)4月、陸軍少将に進級し西部都督部参謀長を兼務。同年6月、義和団事件鎮圧の為、臨時派遣隊司令官として清国に派遣された。同年9月から翌年6月まで、北清連合軍総司令官幕僚として作戦会議で司会を務め、英、独、仏、露、北京官語を駆使して調停役となる。明治35年(1902年)5月から11月までイギリスに出張。
明治37年(1904年)2月、大本営参謀に就任し、同年6月からの日露戦争では満州軍総司令部参謀として、それまでの経験を活かして諜報部において手腕を振るう。特に、満州馬賊を率いて戦った「遼西特別任務班」「満州義軍」の総指揮を行ったことは、一般にあまり知られていない。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます