リュート奏者ナカガワの「その手はくわなの・・・」

続「スイス音楽留学記バーゼルの風」

岐路 (1)

2005年05月27日 06時06分33秒 | 随想
 大学2年生を過ぎたあたりから、名古屋市内を中心にいろいろギター関係の活動をするようになり、4年生にさしかかる頃にはそれなりの収入を得ていた。今では外国の有名な演奏家でも300人集めるのは大変だろうが、当時はその何倍も裾野が広かった時代、大して実力も経験もない若いギタリストでもそれなりに仕事があった古き良き時代だ。家庭教師をしていた分まで含めると、当時の普通の大卒者初任給より「月収」は多かったかも知れない。ところが、大学4年生の頃だったと思うが、その頃日本を襲ったいわゆるオイルショックの影響で収入が三分の二くらいまで落ち込んでしまった。それまでそこそこの収入があったので、大学卒業後はギターで生計を、と漫然と考えていたのだが、これほどまで世の中の影響をもろに受ける職種だとは愚かにも考えてはいなかった。大学も最終学年になり、進路を決定しなくてはいけなかった私は、ギターで生計を立てていく道をあっさりと捨てた。実はこの決定には、そのころ相当部分軸足を移しつつあったリュートの存在がある。もしギターのみを弾いていたのであれば、少しくらい収入が減ったくらいではその道を捨てることはなかっただろう。仕事にならないリュートの演奏活動は、ギターによる収入で支えていけるだろうと思っていたが、その考えは甘いと悟ったのだ。「リュート生活」を支えるためにはいっそ「定職」に就いた方がいいのではと思い選んだのは、比較的時間的ゆとりがありそうに見えた学校の先生だ。

音楽を始めたころ (5)

2005年05月22日 08時24分33秒 | 随想
 3月の本番はあっけないくらいすぐに終わった。緊張していて途中のことをあまり覚えていなかったといった方が正確かも知れない。中学校の吹奏楽部でトランペットを吹いていた私は、体育館のステージには何度か立ったことがあり、それなりのステージ度胸はあったつもりだったが、音が小さいギターの演奏は今までにない経験だった。底冷えのする体育館で、もの音一つしない中、4人が奏でる哀愁に満ちたメロディが流れていた筈だが、多分演奏はボロボロだっただろう。それでも予餞会終了後同級生たちは大いに賞賛してくれたので、面映ゆいかったものの、その暖かさが嬉しくもあった。これが記念すべき私の「デビュー」演奏だった。

音楽を始めたころ (4)

2005年05月20日 03時55分55秒 | 随想
 中学3年の初冬、ギターを始めてそろそろ1年くらい経とうとしていた頃、父親が校区の同級生を何人か集めて、アンサンブルをやろうと言い出した。3月の予餞会で演奏するのだという。その頃やっていたPTAの役員会の席で子供を自慢していい顔をしようとしたのが実際のところのようだが、そんな事情を知らない私は、少し不安はあったものの大いに乗り気になった。私が誘ってきた友人5人からなるグループは、年開けてからほぼ毎週家の写真スタジオで練習をすることになる。時期的には私も人並みに高校受験生ではあったが、当時のこと、励ましてくれる人こそあれ、とやかく言うような人は誰もいない。グループの編成は、マンドリン1台とあと4人はギターという非常に変則的なものだったが、それに合わせて父親が適当に楽譜を書いてくれた。曲は「鈴掛の径」という曲で、若い頃素人楽団でやっていた曲のようだ。今から思うと稚拙な編曲ではあったが、当時の中学生にはそれでも充分弾きごたえがあった。

音楽を始めたころ (3)

2005年05月17日 19時51分04秒 | 随想
 私が中学生になった頃は、世はいわゆるギターブームのまっただ中だった。素人ながら結構小器用な父親は、ヴァイオリンのみならず、ギターも少し弾くことができた。いつの間にか父親はギターを教え始めていて、何人かの「生徒」が家に出入りしていた。家は既述のように写真屋をやっていて、小さな写真スタジオがあったが、そこがレッスン場になっていた。私は内心楽器を弾いてみたくてたまらなかったのだが、ヴァイオリンのときのことがあるので、無関心を装っていた。その「ギター教室」は2年も経たないうちに生徒は来なくなってしまったが、その頃なんかのきっかけでギターを弾きたいという意志を伝えることができた。それがどういうときだったかはもう覚えていないが、父親は喜んでくれた。ただ、最初に簡単な手ほどきをした以外は、ヴァイオリンのときのようなレッスンはなく、時折演奏を聴いてくれるだけだったがそれで充分だった。既に楽譜を読むことができ、弦楽器の基本的な感覚は身につけていたので、ギターの奏法はほとんど抵抗なく身につけることができた。

音楽を始めたころ (2)

2005年05月16日 06時59分21秒 | 随想
 この幼少期における2年足らずの音楽体験は、私の音楽における非常に重要な部分を形づくったと思う。惜しむらくは、もう少しつづけていたらよかったのだが、ある時技術的な問題で少し壁に突き当たり、父親の要求に応えられなかった私はヴァイオリンを弾くことを拒否してしまったのだ。内心は続けたいとは思っていたが、子供なりに結構頑固だった私は、父親の弾けという要求に頑として首を横に振った。どうしても弾こうとしない私を見て、父親は急にヴァイオリンを取り上げて部屋の隅の方に力任せに投げ捨てた。弦の張力がかかっていたヴァイオリンは投げられたショックでバラバラに壊れた。塗装されていない内部の木を露わにした私の小さなヴァイオリンを見たことは、得も言われぬショッキングな出来事だった。それ以来父親に対してはちょっとした心の壁が出来てしまったように思う。その数年後父親からまた少しギターの手ほどきを受けることになるが、それにもかかわらずその壁は結局父親が死ぬまで消えなかった。それは私が親から深く関わってもらった記憶がない(かといって虐待されていたわけでもないが)ことと結びついてしまったからかも知れない。とは言え、例えどういう理由で始まりどういう結果で終わったにせよ、幼少期にしかできない貴重な音楽修練をさせ、私の音楽的基盤を作ってくれた父親には感謝をしなくてはならないだろう。

音楽を始めたころ (1)

2005年05月13日 04時00分50秒 | 随想
 小学校に入って間もない頃、どういう因果か私はヴァイオリンを習うことになった。当時のわが家は極貧ではないにしても決して豊かではなく、ヴァイオリンを習うということとはおよそかけ離れた家庭環境だ。そんな家の子供がなぜヴァイオリンなのかというと、父親が若いころアマチュア楽団に入っていて、少しヴァイオリンをかじったことがあり、あるとき思いついて自分の子供に弾かせてみようと思い立ったようである。もとより、深いクラシック音楽の素養があるわけでもなく、父親のヴァイオリンは我流だったが、マンツーマンのレッスンは2年近く続いたように思う。レッスンといってもピアノの伴奏があるわけではなく、ホーマンという名前の教則本を順番に弾いていっただけだが、このときに覚えた読譜法は、後にギターを始めようとする際の敷居を驚くほど低くした。よく子供がやりがちなのは、音符を見て頭の中でドレミを言いながら弾く方法だが、私が身につけたのは、一定幅のアイ・スパンで少し先の楽譜を見ながら弾いていき、音符を図形的に見て楽器のポジションと対照していく方法だ。この方法は父親が教えてくれたと思っていたのだが、後日そうではないことがわかったので、何かの偶然で身につけたもののようだ。この頃ピアノ伴奏をきちんとつけて練習していれば、絶対音感を身につけたかも知れないが、それはなかった。ただ、440より少し低いDの音だけは覚えているので、その音はその頃に覚えたのかも知れない。古楽をするには絶対音感はかえってじゃまになることもあるので、それはそれでかえってよかったのかも知れない。

リュートとの出会い (18)

2005年05月07日 03時33分53秒 | 随想
 こうして集めた膨大な量のマイクロフィルムはプリントしなければならないのだが、上手い具合に私の家は写真屋をやっていて、暗室にこもりせっせと「焼き付け、現像、定着、水洗、乾燥」を繰り返した。そして出来上がったプリント(マイクロフィルム専用の薄い印画紙を使った)は家が取引をしていた業者に製本してもらった。その4年後、オランダ、デン・ハーグの佐藤豊彦氏のお宅に滞在させてもらったときに、彼の部屋の片隅に引き伸ばし機があるのを見て、みんな同じ事をやっているのだと妙に感心したことがあった。まだ、普通のコピー一枚が30円から50円くらいした時代のことだ。当時今みたいにファクシミリの出版物は多くなかったし、あっても高価だった。このDo it yourself方式ならほぼ望みのソースが安価に手に入れることができる。自分でやりさえすれば、そういうことが可能な環境はすでに存在していたのだ。ちなみに必要経費は、専用印画紙1枚約11円、薬品類一枚あたり約数円、マイクロフィルム1コマ10円(大英博物館の場合。まだ1ポンドが800円!くらいした時代だ)、製本代数百円で、100ページくらいの写本だと3000円弱だ。こうして集めた楽譜から何曲かはコンサートでも弾くようになり、徐々にギターからリュートに重心を移していった。そして1974年12月の四日市でのコンサートを最後に人前ではギターを弾くことはなくなり、リュートに専念することになる。

リュートとの出会い (17)

2005年05月05日 00時39分49秒 | 随想
 ついに楽器としてのリュートを手にしたわけだが、そのころ何回か来日したドイツのリュート奏者、ミヒャエル・シェーファー氏の講習会に参加したり、佐藤豊彦氏による現代ギター誌の連載などを読んだりして演奏法を研究した。ただ、当時ははギターを弾いていたこともあって爪を使っていたし、何より基本的なタッチはギター的だったと記憶する。楽器を演奏するためには楽譜が必要だが、それに関しては意外にも困ることはなかった。今でもそういうことをしているアマチュアは少ないようだが、オリジナルタブラチュアのマイクロフィルムをヨーロッパの各図書館や博物館から取り寄せたからである。一番最初に、まだ東京・渋谷にあった「ギタルラ社古典楽器センター」でオックスフォード大学出版から出ていた、オリジナルの写真版付きエリザベス朝リュート音楽曲集を買った。それの巻末に出典一覧が書かれていて、その所在場所にマイクロフィルム購入希望の手紙を書いたのだ。最初に手紙を書こうと思ったのが大英博物館だったが、困ったことに住所がわからない。しかし有名な博物館だから、名前だけでも行くだろうと思い、The British Museum, Englandとだけ書いて送ったら約3週間後にマイクロフィルムが届いたのは実に驚きだった。以降、出典一覧にあるソースを片っ端から集め始めた。現代版の楽譜を買うときも、出典一覧がきちんと書かれているものを買うことにしたし、大英博物館には蔵書リストを請求したりもした。(きちんとした蔵書リストがあったのは大英博物館だけだったが)さらには、リュートのためのオリジナルソースリストである、「ラウテ・テオルベ・キタローネ」(エルンスト・ポールマン著)という本があることを知りそれも早速購入した。

リュートとの出会い (16)

2005年04月30日 04時25分42秒 | 随想
 晴れて加納氏の楽器を買うことになったのはいいのだが、実はお金のことなんぞ何も考えないで決めてしまったことなのだ。いや正確にいうと自分の楽器を売ってお金を作ることを考えていたことはいたのだが、今でもそんなに演奏人口が多くない楽器のこと、当時はもっと少なく、冷静になって考えると、売ってお金を作るということはあまりにも都合がよすぎることだと思えた。しかし、何という幸運か、ある人の紹介で野上リュートを欲しいという方が現れ、驚くことに加納氏の工房を訪れて1週間後には氏のリュートを買うための資金をほぼ手にしていた。

リュートとの出会い (15)

2005年04月28日 05時49分29秒 | 随想
 加納氏の工房は、大学がある区と同じ区内の住宅街にあり、そう遠くはなかった。バス停からは近いはずだが、少し道に迷ってしまい、結局氏の工房の裏の空き地から直接工房に入ってしまった。突然入ってきた私に、氏は驚いたようだったが、事情を話すときさくに中に入れてくれた。工房でさっそく氏が試作したというリュートを見せてもらった。その楽器の表面板は少し色が濃く、ルーマニア産のスプルースを使っているとのことだった。弾かせてもらうと、自分のリュートとは全く異なり、きちんとコントロールできる音が出ることに驚いた。そんなことに驚くとは全く笑い話だが、これが当時の現実だ。嬉しくなった私は何曲もその楽器を弾いていた。弾いているうちに何とかこれを自分のものにしたい気持ちが心の底からわき起こって来た。だが氏はこれは試作品で非売品だという。しかし私の熱意が伝わったのか、氏はついにその楽器をゆずることに同意してくれた。