リュート奏者ナカガワの「その手はくわなの・・・」

続「スイス音楽留学記バーゼルの風」

リュートとの出会い (14)

2005年04月25日 08時27分14秒 | 随想
 その年の秋も半ばを過ぎた折り、大学の4年先輩の人でリュートを弾く人がいるということを人を介して知り、大学の学生食堂で会うことができた。その先輩、Nさんは当時もう卒業されていたが、実家は名古屋の人だ。彼は東京の情報にも詳しくいろいろなことを教えてもらった。話の中で、名古屋にリュートを製作し始めた人がいるという。その人は加納木魂という名前でお父さんもギターを製作していた人だとのことだ。私は非常に興味を持ち、Nさんに書いてもらった地図を持って加納氏の工房に向かった。

リュートとの出会い (13)

2005年04月23日 09時51分27秒 | 随想
 御殿場の講習会から帰って一ヶ月くらい後、1年半くらい前に野上三郎氏に頼んであったリュートがようやく完成、東京に取りに行った。私にとって記念すべき最初の楽器だ。当時まだ走っていた東海道線の急行「東海号」に乗り、昼過ぎに東京に着いて、道に迷いながらやっとの思いで野上氏の工房に到着したころは昼をかなり過ぎていた。私は、氏の工房の玄関ではじめての自分のリュートと対面した。氏の説明では、古楽器として軽く作ったとのことだが、なぜかその楽器を見て、御殿場でツァネッティの楽器を初めて見たときのようなときめきは全く感じられなかった。あとから思うとそれは多分楽器のデザインから来たものだったようだが、その第一印象は当たっていたようだ。家に帰って何時間も弾いてみても、一番よく響くはずのヘ長調の和音すら音楽的感情を乗せるほどは響いてくれない。おまけにペグの具合が全くよくない。氏の説明では、ペグの2カ所ある接点のうち、回すところから遠い方は、なめらかに回るように「遊び」にしてあるとのことだった。今から見れば、お笑いみたいな話だが、当時まだ楽器のことにそんなに詳しくなかった私は、言われてみてそんなものかと思ってしまっていたが、実際調弦が上手くできないので、この「一点支持」ペグではだめなのだとその時思った。せっかく長い間アルバイトして貯めたお金で買った楽器が期待はずれだったので、私の落胆は大きかった。リュートという楽器はこんなものであるはずはないという思いがあったが、その当時はまだ比べることのできる楽器もなく、確かなものとは言えなかった。これがリュートなのだと合理化する気持ちとそんなはずはないという気持ちの間で悩む日々が何日も続いた。

リュートとの出会い (12)

2005年04月20日 04時40分17秒 | 随想
 夕食の前にロビーで他の参加者と話をしていたら、どうもリュートを弾く人が何人か来ているらしい。食事後その人たちを探してもらい会うことができた。リュート奏者は二人で、ひとりはNさんもう一人はSさんで、共に私と同世代の人たちだ。この講習会ではじめて目にするチェンバロやヴィオラ・ダ・ガンバなどの古楽器に圧倒され、今の自分では古楽にまだ参加することができないという焦りとか疎外感みたいなものを覚えていたものだが、リュートを弾く彼らに会って話をしているうちに、古楽の世界に入っていく入り口が見えたような感じがした。お二人にはそれぞれの楽器を見せてもらったが、リュートというものを自分の手に取って見るのはこのときがはじめてだった。特に興味をひいたのはSさん楽器で、スイスのヴェヴェイに住む、サンドロ・ツァネッティ作の楽器だという。それは驚くほど軽く作られ非常にゆるい弦が張られていた。歴史的な手法で作られたリュートは軽くできており、ゆるい弦が張られているということは知識としては知っていたが、これほどまでとは知らなかった。もっとも現在の楽器製作水準からすれば、その楽器はまだ発展途上と言うべきで、本来はもう少し重量があり弦もそれよりは少し強めのものを張るべきなのだが、当時としては古楽器復元製作の最先端を行く楽器ではあった。

リュートとの出会い (11)

2005年04月18日 01時26分33秒 | 随想
 講習会は静岡県御殿場市の東山荘というところで行われた。会場にかなり遅れて到着したせいか、入り口あたりにはあまり人気が感じられなかった。もう各コースごとに分かれてレッスンをしているようだ。荷物を自分たちの部屋に置き、早速ヴィオラ・ダ・ガンバのコースが行われている離れに行った。中に入るとセーラー服を着た高校生くらいの女性がレッスンを受けていた。レッスンの内容は大変アカデミックで、地方に住んでいてそういった雰囲気に触れたことのない私は、はじめは自分が場違いなところにいるように感じられ、すこし居心地の悪さを感じたものだ。この講習会は、公開で行われた古楽講習会としてはおそらく日本で一番最初のものだと思われるが、現在斯界で大家とか重鎮とされている方々が講師や受講生として大勢参加されており、さながら「梁山泊」の体を成していた。レッスンを受けていたセーラー服の女性は高校生時代の平尾雅子氏だ。

リュートとの出会い (10)

2005年04月15日 22時58分00秒 | 随想
 1972年の3月頃、新聞の片隅にある小さな記事を見つけた。それには「失われたバッハの曲を再現する風変わりな講習会・・・」とある。詳しく読んでみると、バッハは4つの受難曲を書いたが、そのうち2曲は失われた。その2曲のうちのひとつ、マルコ受難曲に関してはバッハが他のカンタータにいくつか流用しているので、ある程度は再現が可能だ。本講習会で再現されたマルコ受難曲の何曲かを復元楽器で演奏し、歌ってみる・・・という大変刺激的な内容だ。早速書かれてあった住所に手紙を書いて要項を取り寄せた。要項は程なく届いたが、問題が一つあった。自分が参加すべきコースがないのだ。当時はギターしかひけず、受講するコースにはギターはなかった。はたと困ったが、ふと見ると講師の中に大橋敏成氏の名前があった。氏の名前はレコードの解説やいろんな雑誌の記事で目にしている。何かの記事で読んだことだが、氏はリュートにも関心が深いらしい。自分ができることとの接点はここしかないと思い、ヴィオラ・ダ・ガンバクラスを聴講することに決めた。一人で講習会に行くのは少し心細かったので、ギターを弾く友人のYをさそって参加した。

リュートとの出会い (9)

2005年04月08日 00時26分49秒 | 随想
 1971年夏、私は自動車の運転免許証を取得すべく県の運転免許センターに通っていた。その当時は、学科試験と実技試験に通れば即免許交付という時代で、自動車学校に行かずに「一発合格」をねらっていたのだ。ただ現実は厳しく、そんなに都合よく1回で合格するわけがなかった。何回も何回も朝早く起きて再チャレンジしていたが、何回目かの朝、FMラジオでバロック音楽の時間という番組を聞きながら準備をしていら、担当の皆川達夫氏が、アルバムとしては世界で初録音というバロック・リュートのレコードを紹介していた。演奏は日本人の佐藤豊彦氏、曲はヴァイスのニ短調組曲。皆川氏の解説によると、楽器は昔のリュートを忠実に復元したもので弦もそれにふさわしい低張力のものを使っている由。その演奏を聴いたときはそれが新しい時代のバロック音楽表現の幕開けとさえ思ったものだ。佐藤氏のことは少し前から現代ギター誌を通じて知っていたが、彼の演奏を聴くのはその時がはじめてだった。その後、人を通じて彼とコンタクトを取るようになり、1976年には彼を訪ねてオランダのデン・ハーグに行くことになる。

リュートとの出会い (8)

2005年04月03日 09時19分19秒 | 随想
 ちょうどその頃、中学校の同級生宅でバロック・リュートのレコードをはじめて聴いた。彼がたまたま買ったレコードを一緒に聴いていて偶然耳にしたものだ。レコードのレーベルは忘れてしまったが、「都市と宮廷音楽」というような名のシリーズのドレスデン編に1曲だけ録音されていた。曲はヴァイス作曲ファンタジア、演奏はオイゲン・ミューラー・ドンボアだ。ヴァイスのファンタジアはギターで弾いたことがあったが、その響きの違い、解釈の違いに驚いた。高校生のとき、ヴァルター・ゲルヴィヒによるリュートのレコードを聴いたときに、ブリームとは異なる何か「本物らしさ」に惹かれたが、ただゲルヴィヒの演奏は技術的には未熟さが感じられた。それに対してドンボアのバロック・リュート演奏は確実なテクニックと洗練された音楽性を備えていた。ギターでそのファンタジアを弾いていたときは、オリジナルの響きはいったいどんなものなのかが分からなかったが、思わぬことでバロック・リュートの響きを知ることになった。ドンボアはその2年後に2枚組のバロック・リュート演奏のレコードを録音することになるのだが、その演奏よりファンタジアの演奏の方がずっとすばらしいと今でも思う。

リュートとの出会い (7)

2005年03月17日 01時10分48秒 | 随想
 大学受験で1年くらいギターから遠ざかっていたが、大学が合格したあとすぐギターを再開した。ギターによる活動は始めの頃は大学の中だけにとどまっていたが、大学の2年生を過ぎたあたりから次第に学外での活動が増えてくるようになった。中部日本ギター協会主催の「ギター新人演奏会」に出たり、若手ギタリストのグループ「ぐるーぷアンダンテ」で活動を始めたのもこの頃だ。そのころは、もちろん古典派の曲、ロマン派、20世紀初頭の曲も弾いていたが、高校生の頃から特に興味を持ち始めたリュートのレパートリーはその当時の名古屋の若手ギタリストの中では少し特異なものだったかも知れない。先の「ギター新人演奏会」ではジョン・ダウランドのウォーシンガムとJ. S. バッハのフーガ(BWV1000)を弾いた。ウォーシンガムはカール・シャイトの編曲を用いたが、バッハはギースベルトによる資料を基に自ら編曲した。バッハのフーガに関しては当時はまだセゴビアのアレンジを絶対視する人も多く、「新人演奏会」の第一次予選では自編曲自体を問題視する審査員もいた。編曲はセゴビア編のように3弦や4弦のハイポジションでいわゆる「泣かせる」音を使わず、リュート曲のように、できるだけ低いポジションで長い弦の響きを使ったり、カンパネラ風の音階を多用したものだった。さらにセゴビア編はBWV1001を元にしているが、私の編曲はヴァイラオホによるタブラチュアのBWV1000が原曲であり、これらは何カ所か異なっているところがある。これらのことに対して審査員の何人かは違和感を感じたのかも知れなかった。

リュートとの出会い (6)

2005年03月15日 18時45分43秒 | 随想
 高校2年生も3学期を迎えるころから大学受験の準備をすることになり、その期間はギターの演奏はおろか音楽を聴くことさえもあえて遮断することにした。本当は音楽関係の勉強がしたく、その方面に進学したかったが、そのことがかなえられるような家庭環境でもなかった。そのことは少なからず私を落胆させたが、「とりあえず」英語を専攻することにした。英語を学んでおこうと思ったのは、比較的得意であったこともあるが、いつか将来音楽を外国で勉強するのに役立つかも知れないと考えたからだ。自分がこれからやっていくことにどんな形であれ音楽との接点を全く見出せないのはあまりにも空しいと感じたのだ。

リュートとの出会い (5)

2005年03月13日 00時40分26秒 | 随想
 ジュリアン・ブリームによるリュートのCDを初めて聴いたのもちょうどその頃だ。一番最初に買ったレコードは、タイトルは忘れてしまったが、ヨーロッパ各国のルネサンスリュート音楽を集めたものだ。レコードの解説は、ヴィオラ・ダ・ガンバ奏者の大橋敏成氏が執筆したもので、その内容はアルヒーフレコードに勝るとも劣らない充実したものだった。レコードに納められた曲の中には、バクファルクとかモリナーロといった現在でもそんなに多くは録音されていない作品もあり、内容的には大変興味深いものだ。ただこのレコードは彼の中心レパートリーからは少し離れたところにあり、彼はイギリスの曲を中心にレコーディングしているということを知るのはもう少しあとだった。ブリームの演奏はしっかりした技術で手堅くまとめられていたが、時折聴かせる爪を立てたスル・ポンティチェロの下品な音には閉口した。彼は私が高校2年生のときに来日し、名古屋でも公演を行ったので聴きに行った。愛知文化講堂で行われたそのコンサートは、私にとって初めて来日演奏家の演奏を聴くもので、大いに期待して会場に向かった。コンサートは二部に分かれ、第一部がリュート、第二部がギターだった。コンサートの冒頭、彼が演奏しようとするリュートを見て私は少なからずがっかりした。それは優美とはほど遠い、まるで大きなうちわを思わせるような不格好な楽器で、加えて時折彼が得意そうに見せるスル・ポンティチェロの下品な音と合わせて、それは私の頭の中にあるリュートというものとはかなりかけ離れたものだと思った。