娘が逝って。

2014年09月08日 | 家族
この夏は何を見ても心に残りませんでした。すべてのものが色あせてみえていました。暑い夏なのか涼しい夏なのかもわからないまま、いつしか百日紅の花が目に付く季節を迎えていました。

 突然発病した娘と小学生の孫娘を佐久に連れてきたのは6月下旬。あれよあれよと病状の悪化する娘に、現代の医学に希望を託し、70日余り。

 昨日娘は愛する家族に見守られながら、黄泉の世界に旅立っていきました。39歳になったばかりでした。

 ベットの上から、わが足で一歩も歩くこともできず、一人で寝返りを打つことも困難になりながらも、9歳の娘と夫のために、最後まで頑張り続けたのでした。

 食べて栄養を付けなれば回復するという言葉を信じ、一口でも多くと食べる姿に、私は鬼気迫る思いがしたのでした。

 生きたい、生きていたいと願いながら果たせませんでした。

 大丈夫もうすぐ治ると励まし続けながら、私と夫はどれほどに泣いたことでしょう。

 痛みも身体をも代わってあげることのできない現実に立ち向かわなければなりませんでした。

 最後は移植しかないと言われて、私がドナーになりますからと願い出ましたが、それも果たせませんでした。

 従妹や叔母たちまでが、娘のためにドナーに手を挙げてくれました。

 臓器移植は神の世界に踏み込むことかもしれないと、自分の心の奥底にあったのに、わが子のこととなったら、なりふり構わず助かる可能性を求めた私です。

 人さまが子を亡くされた時本当にお気の毒だと思っていました。しかしそれが我が子が死からのがれないと知った日、そして看取った時、今までの自分の気持ちはあまりにも軽かったと知りました。とても口で表現できるものではありません。

 親より先に逝くのはなによりも親不孝なのです。

 心がくじけそうになる娘を支えるべく、病室の簡易ベットで多くの日々を過ごしました。ある夜「お母さん産んでくれてありがとう」とつぶやきました。

 さりげなく、「あなたのお母さんになれてよかったわ」とかわしましたが、どこかで死を意識しつつも、生きたい、死にたくないと叫ぶ心を感じたのでした。

 辛い闘病生活が終わりました。もう苦しまなくてもいいということだけが救いです。

 残された孫のために、私たちは彼女が独り立ちできるまで健康に気を付けていこうと思います。

 最後の最後までこれから建てる家のプランに手を入れ続けていました。この家で親子3人で暮らしたいと・・・・。

 てもそこに書かれた文字を私は判読できませんでした。

 ここしばらくブログを書くことができませんでした。あまりにも切ない日々でした。

 私たちの孫育ての日々の新たなステージが始まります。本当ついていけるでしょうかねえ・・・・。

 娘が今までにお世話になりました皆様に感謝申し上げます。ありがとうございました。

                              依田美恵子

軽井沢・佐久で建てる外断熱・省エネ住宅 中島木材の家                          


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