旅に本は欠かせない。読む本を持たないで飛行機に乗ることは、拷問を受けている位辛いはずだったのに、この頃の飛行機は映画三昧。
リタイアしたら週に一度は映画と思っていた私、現状は年に一度か二度がやっとこ。テレビの映画も少なくなっていて・・・・というよりテレビをほとんど見ない生活をしているから。
読書より映画を見ていたら着いてしまった。ヨーロツパよりも2時間以上フライトが短い。
読み終わったら置いてこれる本を選んで持って行ったのに、これが面白くて持ち帰ってきてしまった。
「青年社長」・・・これは実在の有名な方のお話。 高杉さんの本はそんな題材でおもしろい。
「真田太平記」・・・図書館へ行っても次ぎのがなかなか返却されていなくて、間があいてしまった。 8巻以上が図書館に並べてなかったから、これで終わりと勇んで読んで行ったら、最後に「続く」とあった。
図書館の2週間の返却は辛いので、しばし図書館通いは休もうと思っていたのだ。
まさかと巻末をみたら、12巻まであることを発見。
しかし読み始めた以上は読まねばなるまい、というよりこれが面白いことと言ったらない。
図書館に行ったが8巻からがない。いつ頃返却の予定かと調べてもらったら、驚いたことに修理しているのだという。
どうりで。
ところがパソコンを叩いていた係りの方、文庫本ではなく単行本がありますが、と倉庫からだしてきてくれたのだった。
こちらもかなり読まれたらしく、かなり傷んでいる。
大河ドラマで放映された当時に読む方が多かったのだろう。
そんな訳で夜中の読書は今も続いている。
157 星の証言 夏樹静子 集英社文庫
158 159 青年社長 上下 高杉良 角川文庫
160 大逆転 高杉良 講談社文庫
161 有明の月 豊臣秀次の生涯 澤田ふじ子 廣済堂文庫
162 聖護院の仇討 澤田ふじ子 徳間文庫
163 真贋控帳 澤田ふじ子 徳間文庫
164 寂野 澤田ふじ子 徳間文庫
165 夜の腕 澤田ふじ子 中公文庫
166 黒染の剣 澤田ふじ子 ケイブツシャ文庫
167 暮しの手帳
168 真田太平記⑤ 池上正太郎 新潮文庫
169 真田太平記⑥ 池上正太郎 新潮文庫
170 真田太平記⑦ 池上正太郎 新潮文庫
171 ののはな通信 三浦しをん 角川書店
ののはな通信の本の装丁を見たら、クリスマスカードが連想された。
その昔、もう半世紀以上もまえ、軽井沢の従姉妹の家に行くと、5歳年上の従姉妹が持っていたクリスマスカードが別世界の物に見えた。
さすが軽井沢・・・・そんな昔がついつい懐かしい。
依田美恵子
軽井沢・佐久で建てる外断熱・省エネ住宅 中島木材の家
土曜日、朝には雨もあがりました。ベットの中で今日明日の仕事の予定を考えます。やりたい仕事をリストアップします。
畑に行ってお豆仕事は太陽と二人三脚ですので、午前中は、お座敷2つにお炬燵の用意です。その前に、夏中の埃をたたき出します。
ハタキをかけるという作業をしたくても、ハタキはとっくにリストラし、今は静電気で埃をとる現代版ハタキを使っています。
イスを持ち出し、欄間から額に長押に電灯、そして障子の桟もです。
掃除機をかけお炬燵の設置ですが、重い座卓が私一人では移動ができません。
夏座布団10枚のカバーをはがしこちらは洗濯機へ。
そして北側のアルミサッシの小窓10枚と網戸5枚を枠から外して、外流しで洗います。
取り外せないインプラスの樹脂サッシはそのまま磨きます。洗ったのが乾く間に枠の掃除です。
勝手口と食品庫のドア4枚まで、とりあえず終わりにしました。
昼休み、かぼちゃのいとこ煮と、さつまいもとリンゴの重ね煮、冷蔵庫の野菜を片っ端から揚げひたしに、水に戻した青ばつを片栗粉を付け揚げ甘辛くします。
1時半畑に出かけます。夫は「もみじ祭り」の準備でおでかけです。
夫が途中までやって行った大豆をこなします。
その後青ばつもこなします。
3時頃夫も来たので、無理をしても終わりにしたいと頑張りました。
けど・・・・夕食の準備をする余力が残っていませんでした。
かろうじて近所のマーケットで主菜だけ購入です。
夕食後、干した座布団カバーをかけなければと言いますと、夫が「無理をしてはダメだ」と言います。
「俺は1週間単位でやることにしている」と言います。
なるほど・・・夫の1週間単位がせっかちな私の仕事が増えている原因なのだと、妙に納得。
やってもやっても次から次に仕事がある状態・・・・夫の言い分は正しい。
頭の隅には、この2日間の間に「つるし雛」と読みかけの「真田太平記」がかすらなかった訳ではないけれど、たどり着くこともできません。
日曜日、夫は「もみじ祭り」の本番でお出かけ。
朝食の用意をしながら、いただいた「ぼたんこしょう」で辛みそを1キロ作ります。これでいただいたものを無駄にしなくて心休まりました。
おまりの好天気に布団干しが急遽追加です。
私は、「大豆」と「青ばつ」の選別。さらにぺちゃ豆の殻を外す作業も。
この作業がほぼ夕方までです。
息子ファミリーが夕食にくるので、超特急で用意です。もみじ祭りのジンギスカンセットがメイン。
そこに新米の塩おにぎりを用意しました。
おばあちゃんの青ばつの甘辛と、おからが大好きな孫のために、この2つは欠かせません。
北信越大会を前にして午前と午後の練習と、練習場所の引っ越しで疲れた孫たちが何に食らいついたからと言えば、たらこの塩おにぎりでした。
たしかにおいしいけど。
大豆と青ばつの選別が終わり、夫に感謝された日でもありました。
依田美恵子
軽井沢・佐久で建てる外断熱・省エネ住宅 中島木材の家
にほんブログ村
にほんブログ村
エルミタージュ美術館です。
ネヴァ川にそって、薄緑の壁と白い柱が美しい・・・・まさに宮殿・・・大きな建物です。
この美術館は、ロマノフ朝のエカチェリーナ2世の輝かしい時代の冬の宮殿である。彼女が作らせたものではなかった。夫ピュートル3世をクーデターで廃して即位した女帝が彼女です。
1762年、彼女の即位する歳、夫の叔母が生前に依頼していた冬宮が完成したのでした。
そこに彼女はフランス人がよく言うという「隠者の庵・・・エルミタージュ」を建てることを注文し、出来たのがこれが小エルミタージュです。
その後増設したのが「大エルミタージュ」と宮廷人専用の劇場も建設。
さらに19世紀に「新エルミタージュ」が加わり、現在エルミタージュ美術館といわれているのは、「冬宮」とこれら4つの建物をいいます。
1837年に冬宮は火災に見舞われ、宮殿内部は焼失したが、わずか3年で復元し、内部はさらに豪華になった部屋もあったという。つまりそれほどロマノフ王朝の財力はすごかったということなのですね。
収蔵美術品の数が約300万点、全展示室を歩くと20キロメートル以上になるという世界屈指の美術館なのです。
残念なことはツアー客には時間がありません。本館別館含めて4時間です。
建物と美術品の両方ですから。
こちらも事前予約です。その時間まで広場で時間調整です。そこにはナポレオンとの勝利を記念した高い像が立っていました。この国地震がないので、中に芯が入っていないのだとか・・・・つまらないとこに感心しています。
それではこの美術館どこまで記憶しているかわかりませんが、走ってみます・
階段は白い大理石です。1階は世界各地の古代遺物や芸術品ですが、2階に行きます。
2階は19世紀までの西欧美術やロシア文化にまつわるものを展示しています。
ドアの半分が壁・・・開きません・・・という部屋がありました・・・・なぜそうなのか・・・・忘れました。
ピュートル大帝の間は、名前だけで実際住まわれていません。記念ということなのでしょう。18世紀にロンドンで作られた銀製の王座と装飾が赤なのが印象に残りました。
紋章の間は舞踏会に使ったのでしょう。シャンデリアのロウソクの裏に、19世紀のロシアの州の紋章が飾られている所から付けられた名前の間のようです。
部屋の真ん中に噴水のようなものは大きな石の飾りです。石の美しさを見せるものなのでしょうが、これだけの大作はそれだけで意味深いです。
1812年のギャラリーの間は、ナポレオンとの戦争に加わった英雄332名の肖像画が飾られています。奥行が55メートルある細長い部屋です。
そこにあるアレクサンダー1世は騎乗の姿です。その帽子がナポレオンの肖像画で見たことのある、あの帽子をやはりかぶっています。
当時の流行りだったのでしょうか。
大玉座の間・・・・まさに広い。大理石とブロンズの飾りで、床の寄木細工の木は30種だとか。この床当然当時のままではありません。ハイヒールが一番強敵なのだとか。
玉座の上の鷲の紋章はシルバーの刺繍でした。
謁見の時、座っているのは皇帝だけなんですって・・・・なるほどです。
パピリオンの間はアラブの影響を受けた装飾ときいた覚えがありますが、全然記憶に残っていません。エカテリーナ2世の愛人たちが暮らしたのだとか。
「小エルミタージュ」2階に空中庭園がありました。この季節でしたが、それなりにお花が咲いていました。
それをツアー仲間のお一人とと眺めた後、にわとりの金の時計の説明に加わったところで、「スラれたみたい」とそのお一人が声を上げました。
ほんの一瞬のことでした。
空中庭園を写真に撮る際バツクの口を開けたままにしていたのだとか。
金の時計の前は混雑していたけれどもね。
ガイド氏が初日、ロシアは治安がいい国ですが、スリがいない訳ではありませんので、くれぐれもと言っていました。
このにわとりの金のからくり人形、実物は決められた時間でしか動きません。その隣でビデオが廻っていて、楽しくて2度も見てしまいました・・・もちろん自由時間になってからですが。
廊下には中性ヨーロッパの宗教関係の作品が展示されています。
ラファエロの回廊はバチカン宮殿の回廊を手本にしています。12人の若い人をバチカンに送り学ばせてつくったものとか。
あまりに1度にたくさんの物を見過ぎました。
やっばり記憶が曖昧です。
ここまでとします。
夕食はビアーホールでした。ジョツキは1リットルものしかありません。
さすがに・・・・私でも1リットルは飲み干せませんでした。
きのこのスープに豚肉のソテー・丸ごとのゆでじゃがいものバター添え・紫キャベツの酢漬け・温められたパン・アイスクリームと紅茶
ここて初めてパンをおいしくいただきましたよ。
お肉のソテー、塩コショウではなく醤油味にしたらと思いましたよ、これ絶対当たるかもと。でもパンには合わないか。
いつもはレストラン貸切状態のツアー専門のレストランばかりでしたが、この夜だけは賑やかなビアホールで、音楽も付いてロシアに来たなという雰囲気に浸れたのでした。
考えてみたら、現地の人と話したり・・・・当然ロシア語だめだけれど・・・・する機会もなく、観光客ばかりしか見ていませんでした。
それではまた。
依田美恵子
軽井沢・佐久で建てる外断熱・省エネ住宅 中島木材の家
今にも雨が降りそうな気配の中9時にサンクトペテルブルク市内観光です。
台風24号の進路が気になります。地の果てまで来ているのに気が休まりません。
市街に入る前の地域は最近開発されたところで、建物に高さ制限もないようです。コカコーラ・チューインガム・ウオッカの工場が見えます。
勤務する人は平日は9時からだかと。
街の中心は駐車場がないとか・・・・・そうでしょうね。
聖イサーク寺院に向かいます。
その手前にピュートル大帝の青銅色の像があります。青銅と言われていますが、ブロンズなんだとか。
20世紀まで、フィンランドはロシアの一部だったなんですって。ヘルシンキにはロシアの皇帝の像が立っているのだとか。
広場の中で「松の実」を売っています。超大忙しで走りながら買い求めます。
松の実を見たら、絶対買うのは私です。山椒のペーストに作る時の必需品なのです。我が国で買うと、べらぼーに高いから。
聖イサーク寺院は、街で一番大切な教会なのだとか。クリスマスの時ミサが行われる、と。
着工から40年かけて、完成したこの寺院、内陣は4000㎡、収容人数14.000人。奥行110m、幅97m。その青銅の上には101mの高さに金色のドームが見えます。
聖堂の横は運河で、水がとうとうと流れています。運河を入れて写真を撮るといい感じです。本当にこの街はいたるところに運河があります。
中には入りません。宗教美術の宝庫なのでしょうが、ツァーの悲しさです。バスに乗ってその外周の花崗岩の柱を眺めました。重さ114トンの柱が全体で112本使われているそうです。
114トンってどう量ったのかなあー、なんてしもじもはろくでもない想像力を働かせています。
血の上の教会に行きます。なんでこんな不気味な名前なのに、教会自身は華やかさも感じられたのでした。
農奴解放令を発したアレクサンドル2世が1881年にここで暗殺されて、それを悼んだ息子のアレクサンドル3世が、暗殺された場所に建てさせたものだといいます。
午後はエルミタージュ美術館観光です。昼食は美術館の中のカフェで各自調達です。
サンドイッチにデザートのケーキまで買い込みましたが、あまりのボリュウムにデザートまでたどり着けません。
パン自体が日本の食パンとは違うのね。そこを勘案しないとね。
それではまた。
依田美恵子
軽井沢・佐久で建てる外断熱・省エネ住宅 中島木材の家
にほんブログ村
にほんブログ村
「諏訪地方の停電引き起こした倒木」「カラマツ『根返り』原因か」の見出しで、さらに「『直根』なく風に弱い」の副見出しが付いていた。
9、10月の台風で茅野市などに数日間の広域停電を起こした倒木は、戦後造成されたカラマツの人工林だったことが、専門家への取材で分かった。という報道であった。
そこまでだったら、なるほどと納得したのかもしれないが、その後に続いた「植林されたカラマツは苗木段階で、地中に太く伸びる『直根』が生産効率を上げる目的で切られているものが多い」とあった。
「成長すればするほど重心が高くなり、強風によって根ごと倒れる『根返り』が相次いだとみている」
まさしくう~んだわね。
私の仕事は材木屋だったから、卒業して会社に入って以来、10年前まで「カラマツ・唐松」一辺倒という時代を過ごした。
唐松に対する愛着はひとしおである。
その私ずっと信じていた。唐松は向陽性と言って、根が浅いので根元に太陽が当たらないと、強風で倒れやすい。だから適切な間伐が必要なのだと。
昭和55年の台風で東信地区の唐松は、まさにベタに倒れた。それも台風の風の向きそのものに倒れたから、早く言えばあっち向きこっち向きで、その山の木を片付けるのに、何年も要したのである。
昭和55年と言えば、戦後の荒廃した山に植林したもので、間伐期を迎えている頃で、まだ使える木が少なかったから、カラマツはソ連から輸入していたのである。
正確に言えば唐松以外にもたくさんの木材が我が国にやってきていたのであるが。
ソ連カラマツを略して「ソ唐」と言っていた。ぼちぼち間伐が必要な時期に来ていたが、国内の間伐した木よりも、海を渡ってさらに陸路を走って来る「ソ唐」の方が安いと言う事情があり、ますます国内の間伐は進んでいなかったと思う。
その台風の前年、当社はその安い「ソ唐」を止めて、国内の唐松に切り替えていたのであった。
なぜかと言われれば、海を渡ってくる唐松は時間がかかっているので、皮が剝けないのである。
その頃から土木用材に「皮剥き」が求められるようになってきた。丸太は乾いてくると皮が剥げ落ちて、現場はその掃除を嫌がるようになっていったのだろう、だから出荷する前にと。それと長い時間を経てくるソ唐は見栄えが非常に悪いのであった。
ソ唐は冬場は我慢したとしても、夏場で苦労してしまうのだった。
国産材への転向は同業者からバカかと言われたが、先を見た選択であったと思う。
千葉県の構造改善事業で使う土木用材に、メーカーの制作したまだ何号機というレベルの皮剝き機を導入して、「皮剥き」した製品を出荷すると、後は右に倣えのようになった。
海の無い長野県で内陸製材でソ唐を使っていたこの地も、昭和55年の台風以後、ソ唐から国内の唐松に一斉に変わっていったのであった。
そうしなければ倒木の処理が進まなかったからである。
先人が植林した木を1本でも多く市場に出したい・・・・それがその当時の私の気持ちだった。
いやいや私の愛してやまなかった唐松が倒れやすいのは、「直根」をカットしていたからかもしれないなんて。
これが本当だとしたら・・・・・ものすごい複雑な気持ちになった。
かって長野県は唐松の苗木の産地だった。東北・北海道に苗木を売ってその当時いい商売をしたのだと思う。
そして間伐・伐期を迎えて、長野県はそのライバルとなった東北・北海道の唐松で苦しむこととなったが。
いつしかその唐松がお荷物となり、唐松の植林がごくわずかになって、苗木を作る人も少なくなった。
現在苗木を生産している農家では、苗を選別する時点で、「根切り機」を使っていて、その際直根を切っているという。
これを手作業に変えて直根を残すことは、経営的に難しいと言う。
災害に強い森づくり・・・・・とんだところに伏兵がいたものだと思った。
森林税・・・・こんなところに使ってほしいな。
啓蒙活動のパンフレットなんか作るよりいいと思うけれどな。
カラマツというとソ唐を連想するので、私は国産材は唐松と分けてしまう。
依田美恵子
軽井沢・佐久で建てる外断熱・省エネ住宅 中島木材の家
にほんブログ村
にほんブログ村
なんかおもしろそう、と参加を決めました。
そして当日生徒が8名集まりました。
材料もご用意いただき、作品の下絵まで書いていただいています。
生徒は楽しいところだけ描かせてもらいます。
チョークアートのチョークは学校の黒板のチョークではありません。「オイルパステル」と言って、クレヨンより柔らかいです。
グラデーションなどの色合いは、自分の指を使って色を混ぜ合わせます。
光沢は白のチョークを使うのが特徴かもしれません。
みなさん、どこかで必ずこの作品を見られていると思います。
レストランの入口や、結婚式のウエルカムボードで。
まだ新しいアートですが、一度お試しさせていただいただけですが、なかなか奥が深いように思えました。
なんたって先生の作品がすばらしいです。
うちの会社の社長の4人の娘と愛犬を先生が描いてくれました。それがまさしく似顔絵の如くそっくりなんです。
それが才能なのでしょうが、実際自分でやってみると、まさしく先生の実力がすごいことがよく分かりました。
でも私は・・・・塗り絵まさしく塗り絵を楽しむつもりで楽しんじゃうことにします。
実に楽しいからです。
先生はお教室を持たれていますが、公民館での次回のお教室は11月15日夜7時から2時間です。材料もご用意してくださいますので、空身でいいです。
材料代込みのお値段がありますが、私がここでそれを書いていいのかわかりませんので、控えさせていただきます。
ご興味のある方は、個別に私までご連絡くださいね。
何を描いたかって・・・・ハロウイーンを前に「かぼちゃ」を2個描きました。
家族に「とってもよく描けているね」と、評価いただきましたよ。皆さんの作品の方がもっと上手だったけど、とりあえず我が家では単独なのでいいことにします(笑)
依田美恵子
軽井沢・佐久で建てる外断熱・省エネ住宅 中島木材の家
にほんブログ村
にほんブログ村
歴史を時間系列で見学しているわけではないので、頭の中がごちゃごちゃしています。
1721年に完成したこの夏の宮殿。ピヨートル大帝はサンクトペテルブルクでは質素な宮殿に住んでいましたが、スェーデンとの戦争に勝利したことを祝ってここに建てた豪華な宮殿です。
黄色の壁に白い柱と窓枠です。ベルサイユ宮殿に似ているのだとか、いや似せて作ったと言うことかも。
どの宮殿を見ても、パステルカラーと白の組合せが多いですが、とっても品の良さを感じさせられます。
といいつつ金メッキのキラキラもたくさんありますが。
全体で800万㎡という敷地です。その中央に大宮殿が建てられ、正面テラス前の階段を流れ落ちる滝から、まっすぐフィンランド湾へ続く水路は、ピュートル大帝自身のアイデァだそうです。
ここには150以上の噴水があります。これらの噴水が丘から水を引くことにより、自然の水圧で噴水されているのが驚きです。
広い庭園には何本もの道が通っています。それもパリの市街地のように4方8方にと規則的にです。その道の両側には菩提樹が植えられ、上下の葉が切りそろえた並木です。
菩提樹、花は小さいけれどもいいハチミツが取れるのだとか。
アダムとイブの噴水が対をなした位置にあります。噴水にはそれぞれ名が付いています。
大噴水が宮殿の下のところに3つありました。その真ん中のが21メートルで一番高いようです。
スウェーデンとの21年間の戦争で勝利した記念に建てた金メッキの像は、ライオンを殺す人の彫刻でした。
スウェーデンの紋章がライオンだったからです・・・・・すごい発想ですね。
この宮殿も第2次世界大戦で破壊されましたが、噴水は比較的早く回復したのだそうです。
破壊された状態の写真が展示されていました。戦争中アダムとイブの像は地中に埋めて隠していたのだそうです。
皇帝より人気のあったエカチェリーナ2世は、この宮殿内の建物に幽閉されました。夫が暗殺されたあと、男装してサンクトベテルブルクに戻り、2度とこの宮殿に戻らなかったのだとか。もちろん噴水もキライだったとか。
宮殿はバルト海側の海岸に接していました。カモメがたくさん舞っていました。
埋め立てでできたこの町の海岸に砂浜はありません。
ベンチに座ると水が出てくるいたずら噴水を添乗員さんが、2度も実演してくれました。他にも道の両側から、突然に飛び出す噴水もあったりです。
数々の意匠をこらした噴水がいっぱいです。、
噴水の季節が終わるとツアーは宮殿の見学になるそうです。
この日の夕食はピロシキ・ポルシチでした。
長くなるのではしょります。
依田美恵子
軽井沢・佐久で建てる外断熱・省エネ住宅 中島木材の家
にほんブログ村
にほんブログ村
朝NHKワールドで台風情報を見ます。950パスカルがさらに940パスカルに成長すると言っています。こんなにしっかりとした目を持つ台風知りません。
長野は2時間で650mmの雨予報です。
NHKワールド英語放送です。
朝9時プーシキンのエカテリーナ女帝の夏の宮殿観光へ出発です。
プーシキン市は詩人のプーシキンからきているのでしょうか。彼はロシアで一番有名な詩人のようです。
サンクトペテルブルクは道路は混んでいません。道路脇もきれいです。
この町が出来た由来を考えれば、本当に平らで山はありません、標高70メートルが一番高いのだそうです。
宮殿近くは、素敵な家がたくさん建っていて・・・・軽井沢みたいに思えました。
楽隊が私たちを見て、日本の歌を演奏してくれます。
宮殿の見学は時間予約ですので、その前に宮殿のお庭の見学です。イギリス式庭園で、池を掘り、その出た土で丘を作ってあります。
とっても広いのです、何もかも規模が違います。お庭というより、きれいに整備された森です。宮殿の大きさもはんぱではない大きさです。
森の中には、リスが走り回り私たちを喜ばせました。
唐松まさにソ連唐松の大木があり、樹齢何年なのかと感無量で眺めました・・・・ハイ私材木屋でもありますから。
庭園の中にはいくつかの建物が散在します。クラッシック式ギリシャアテネ様式で、まさにギリシャそのものの建物、湖のほとりのボートの順番待ちをするのに使ったのかしらというイタリア式の建物。
そして湖の対岸には、イスラム教の教会風の建物が見えます。18世紀トルコとの戦争の勝利記念として、ここにトルコ風呂を作ったのだといいます。
湖にはカモがのどかに泳いでいて、エサを求めて寄ってくるのです。
奥に進むと「エルミタージュ」という皇帝の隠れ家というか、プライベートの建物がありました。
堀に囲まれ、当時は跳ね橋だったとのこと。
宮殿の中には風呂がないのでと、ここがお風呂だったという建物もありました。
湯冷めしちゃうよね、という話がでたら、ここは夏の宮殿だからね、と言うことで納得。
ちなみにロシア人は入浴する習慣があるけれど、フランス人にはなかったと言う過去をモスクワのガイド氏が語ってました。
いよいよ宮殿に入ります。
入口でまた別の楽隊が入場待ちする人の国籍を見てその国の歌を演奏してくれています。もちろん小銭やお札を差し上げます。
宮殿はブルーの壁とと白い柱が連続していて優雅な建物です。
柱には男性が頭で建物を支えている像が付いています。
この宮殿には大きな部屋が3つありました。舞踏会用ですね。
この宮殿18世紀初め、ピョートル大帝が皇妃エカチェリーナの宮殿として創建したものですが、1756年に娘の女帝エリザヴェータは豪華なバロック様式の宮殿に改築しました。
55もの続き部屋がある建物です。
彼女はキラキラした美しいものが好きだったようです。
ドレスは1度きりしか着用せず、死後、未着用のドレスが3000枚も残ったのだとか・・・・・イメルダ婦人の先輩がいたようです。
大きな部屋にはオランダのタイル貼りの暖炉があり、その白地に紺で描かれた絵は2つと同じものがありません。
ピョートル大帝の死から37年後に即位したのが、エカチェリーナ2世です。
エカチェリーナ2世はドイツ人です。「私は、ピョートル3世とではなく、ロシアという国と結婚するのです」
夫に失望した彼女は、夫が即位すると、クーデターをおこしたのでした。
彼女の治世は「ロシアで国民がもっとも幸福だった時代」と言われているのだとか。
このホールで謁見も行われていて、日本の「大黒屋光太夫」もここでエカチェリーナ2世と謁見したのです。
半年前位にこの「大黒屋光太夫」吉村昭著を偶然読んでいた私は、ここで歴史がつながりました。
天井は平らなのですが、だまし絵で曲がっているように見えます。
実はこの宮殿ドイツ軍に破壊され、金箔や琥珀は略奪されて、40.000点の美術品が12.000点しか救出されなかったということです。
戦後大修復され、外観はほぼ復元されていますが、内部はまだ修復が続いていました。
琥珀の間・・・・溜息が出ました。バルト海の琥珀が5トン使われたとのことです。廃棄率もすごいから。
琥珀も産地で色が違うのですね。
絵画の間・・・壁を全面17~18世紀のイタリアの作品で隙間なく埋め尽くしていました。壁に絵をあわせてカットしたりしています。
階段には、中国や日本の壺や皿が飾られています。
寄せ木細工の床です。それを保護するために全員靴カバー着用です。
今回行った美術館・博物館もコートはクロークへ預け、A4サイズ以上の鞄やバックは持ち込めません。
昼食はジャガイモサラダとビーフストロガノフとアイスクリームでした。
続きはまた。
依田美恵子
軽井沢・佐久で建てる外断熱・省エネ住宅 中島木材の家
にほんブログ村
にほんブログ村
水道水が飲めないから、水の確保は必定である。
今回ホテルに1本ずつのお水があったし、レストランでも1本ず付いて、お持ち帰りOKだつたから、困ることはなかった。
現地リサーチにはスーパーや市場が一番なので、素直にうれしい。
列車に乗る前に全員コンビニで飲み物やおやつをゲットしたのだったが、車内を廻っていた車掌さんではない方が、「持ち込みはダメ、食堂車や車内販売を使って」と添乗員に言ったと言う。
でもねえー、もう飲んじゃっているものね。
それではと、食堂車の視察にでかけたら、本当に小規模で車両半分ばかりで立食であった。
ここでボルシチとワインをいただいた。ボルシチはチンしてくれたのだけれど、サワークリームもたっぷり付いておいしかった。
モスクワを出発する時は激しい雨だったが、10分程走ったところで青空が見えてきた。さらに20分走ったあたりから郊外に入った感じになり、別荘らしき戸建が見えるようになった。400㎡位を借りられるのだとか。
車窓から見える大地はあくまで平らで、農地の廻りには林が続いている。
飛行機雲が白く尾を引いている、そして西の空に彩雲らしきものが見える。
今まで青空が見えていた東の空が真っ黒な雲に覆われ、それが雨となって降りていくのがわかる。
しばらく走ったらその東の空に虹が現れた。それも二重にである。それもたちまち消えまた青空が現れてと、車窓から見える空は勢いよく変わっていった。
1時間ばかり走って夕焼けが見えた頃、添乗員さんが一人ひとりに、日本から持参したというおやつをくれた。
まあーなんと添乗員さんとは、ここまでお気遣いせねばならないものかと思ったものである。
1日目の夕食にはポン酢、昨日は一人ひとりにウエットテッシュだった。
ポン酢はともかく、旅の間は荷物を増やしたくはない私にとって、遠慮したいものでもあったりする。
列車が湖の上を走って行く。まさしく窓の左右は湖である。これ映像で見たわ、まさにその景色が窓の外に広がっている。
6時過ぎ日没を迎えた。日の出から入りまで、ちょうど12時間というところである。
モスクワからサンクトペテルブルグまで400キロであるが、途中の停車駅は2つだけである。
8時23分到着
モスクワ駅は街の中心の日本でいえば銀座みたいなところにあるらしい。
駅のプラットフォームも歩道もみんな石畳である。
1703年この町を作ったが、今の建物は19世紀の物らしい。現在は会社やホテルになっていて、一般の住居としては使われていないようだ、
建物の高さは法律で決められている。ライトアップされた建物が趣を醸し出している。
街は川や運河が多く、北のベネチアと言われていると言う。
2~3日前に満月だった月が、かの地でとても大きく見えた。
この日遅い夕食をとって部屋に入ったら、NHKワールドが見れると言う。
時に日本列島は台風の24号の直撃を受けていたのである。
地の果てまできて心配しても仕方がないけど気になるんだなあー、と。
続きはまた。
依田美恵子
軽井沢・佐久で建てる外断熱・省エネ住宅 中島木材の家
にほんブログ村
にほんブログ村
こちらは年に2回咲く桜のお話です。
長野牧場の年に2回咲く桜が咲き始めました。
年々木が成長してきているので、見るボリュウムもアップしています。
まだ葉が多いのであまり目立ちませんが、これから1ケ月位うまくいくと見ることができます。
傍を通ることがありましたら、是非ご蘭になってください。
ここ1週間精力的にポスティングに歩いていました。
あちこちで庭師さんが入っていますし、それぞれのお宅で庭の手入れをしているのも見かけました。
我が家でも、本日は夫が裏庭の手入れを始めました。下草・・・・我が家のこごみやミツバにふきなど・・・を先日刈り取ったのは私です。
それを見たちーちゃんが、見違えるように・・・・と言いました。
ちーちゃんでもそう思うのね。
庭師さんがお出での時、庭に出てびっくりしました。私たちの結婚記念樹の五葉松が根元から伐られていました・・・・夫です。
今年少し弱りました・・・原因は・・・・思い当ることがあるのです…根元に繁殖したドクダミを退治したくて除草剤を散布したのは私です。
庭師さんに記念樹だったのよ、と話したらびっくりされたけど。
伐ってもいいかなあーと相談されたんですって、まさかそうとは知らないからと。
実はこの記念樹は2代目。本物は結婚した当初すぐに枯れたらしい、びっくりした父は同じような大きさの木を求めて植えたのだと、かなり経ってから知ったのでした。
まあ―今更記念樹ごときで夫婦別れもあるまいしね。
子供が生まれ時、とか結婚した時の記念樹が配布されることがあります。
我が家でもご多分に漏れず、みんなが我が家の庭へ持ってきます。
息子は槇、娘はかいどう・・・・孫たちは・・・・と。
これが気がもめるのね。
もう絶対記念樹たるものは植えない、と夫と話すのでした。
ここにきて、庭木を減らしてきているのです。だけど記念樹には手が付けられません。
ポスティングをしていて見て思います。居間の前の大きな木を伐ったら、部屋が明るくなっていいだろうな、とか。庭全体が鬱蒼として家全体が日陰になっている家を見ると、そう思わずにはいられません。
半年位前から、果然雰囲気が変わったお宅がありました。庭の大きな木を伐られたのです。昨日奥様が庭の手入れをされていましたので、明るくなりましたねとお声がけしました。
しばらく留守にしていたから。とのことでしたが、それにしても庭木を整理しただけでこんなに変わるのかとという思いがしたのでした。
道端の除草剤で枯れた草を抜いていらしたおばあちゃんに「ここまでお宅なのですか」とお聞きしたら、「ここからあっちまで」と指差されました。
思わず「大変ですね」と。「やだねえ~、本当にやだねえ~」と。ハイハイわかりますよ、庭の草取りは年寄の仕事ですもの。
80代後半と思われるおばあちゃんには、この広いお庭はさぞかしご負担なことと思いました。
もう絶対庭は狭いほうがいい、と思っている私です。
そういいつつも・・・・明日は庭の木の下をもう1度きれいにしたいと思っているのです・・・・畑仕事も気になるけれど。
依田美恵子
軽井沢・佐久で建てる外断熱・省エネ住宅 中島木材の家
にほんブログ村
にほんブログ村