「”選択療養(仮称)”への懸念に応える」という規制改革会議の文書は、何を言っているのか分からないお役所言葉ではなく、Q&A形式で明快に書かれていることを評価したい。その分、欠点もすぐに分かる。
「全国統一の中立の専門家による有効性・安全性等の確認」という言葉が出てきて、それが「選択療養」の前提だという。ここで言う「専門家」とは誰のことなのだろうか?専門家が有効性と安全性を確認できたら、それがエビデンスであると見なすらしい。だがそもそも、エビデンスの証明には膨大な時間と労力がかかるから、とりあえず「選択療養」をという考え方が出てきたのではなかったか?自己矛盾である。(海外のガイドラインに掲載とか2編以上の査読論文では、とてもじゃないがエビデンスとは言えない。この程度でOKなら、製薬会社は新薬を売り込むのに苦労はしない。)
「患者と医師の間には情報の非対称性がある」という指摘に対して、また「中立の専門家」が患者にエビデンスを提供するから、非対称性の解消に役立つとある。ここにも安易な楽観主義が見られる。素人と玄人の間には、絶対的に埋められない非対称性があるから、玄人は玄人として存在しうるのだ。(この欄の「玄人と素人」参照。)
「中立の専門家」がどこぞの有名教授を指しているとしたら、有名教授が「私は(この療法を)安全で有効だと思う」という意見を「エビデンス」として採用することになる。だが、こうした「権威の意見」を鵜呑みにするのではなく、客観的に検証しようとする態度が実はEBM(エビデンス・ベイスト・メディシン)の発端なのである。規制改革会議のエビデンス理解は時代錯誤と言わなくてはならない。
記者の「具体的に”選択療養”を求めているのは誰か?」という質問に、議長が客観的データをもってしてではなく、感情をもって反応せざるをえなかったのは、規制改革会議のエビデンスの軽視、ないし素人的な限界を示しているのではあるまいか?
規制改革会議はなまじ「EBMの推進」なぞ唱えなければよかったのだ。最初から「感情が大事だ」と言ってくれていれば、自己矛盾は生じなかったはずである。(事実、感情は大切である!)
反論があれば承ろう。ただし、本名までは要らないが、立場を明らかにされたい。
「全国統一の中立の専門家による有効性・安全性等の確認」という言葉が出てきて、それが「選択療養」の前提だという。ここで言う「専門家」とは誰のことなのだろうか?専門家が有効性と安全性を確認できたら、それがエビデンスであると見なすらしい。だがそもそも、エビデンスの証明には膨大な時間と労力がかかるから、とりあえず「選択療養」をという考え方が出てきたのではなかったか?自己矛盾である。(海外のガイドラインに掲載とか2編以上の査読論文では、とてもじゃないがエビデンスとは言えない。この程度でOKなら、製薬会社は新薬を売り込むのに苦労はしない。)
「患者と医師の間には情報の非対称性がある」という指摘に対して、また「中立の専門家」が患者にエビデンスを提供するから、非対称性の解消に役立つとある。ここにも安易な楽観主義が見られる。素人と玄人の間には、絶対的に埋められない非対称性があるから、玄人は玄人として存在しうるのだ。(この欄の「玄人と素人」参照。)
「中立の専門家」がどこぞの有名教授を指しているとしたら、有名教授が「私は(この療法を)安全で有効だと思う」という意見を「エビデンス」として採用することになる。だが、こうした「権威の意見」を鵜呑みにするのではなく、客観的に検証しようとする態度が実はEBM(エビデンス・ベイスト・メディシン)の発端なのである。規制改革会議のエビデンス理解は時代錯誤と言わなくてはならない。
記者の「具体的に”選択療養”を求めているのは誰か?」という質問に、議長が客観的データをもってしてではなく、感情をもって反応せざるをえなかったのは、規制改革会議のエビデンスの軽視、ないし素人的な限界を示しているのではあるまいか?
規制改革会議はなまじ「EBMの推進」なぞ唱えなければよかったのだ。最初から「感情が大事だ」と言ってくれていれば、自己矛盾は生じなかったはずである。(事実、感情は大切である!)
反論があれば承ろう。ただし、本名までは要らないが、立場を明らかにされたい。