いのしし くん。

政治、経済から音楽全般の評論
ultimate one in the cos-mos

プレーヤーとスペクテーター。  player and spectator

2009-12-13 19:46:23 | 日記
 スポーツに限らずコンペティション(competition)というのは、プレーヤーと
スペクテーターとの思惑は必ずしも一致しない。
 プレーヤーには、コンペは目的であり、勝負であり、能力(capacity)の到達点
(summit)である。結果的には、自己満足というものは存在しない。

 結果がすべてであり、到達点(summit)であり、しかも無限ではないが、また次
の目的(target:目標)が見えてきて、コンペの連鎖(chain)が始まる。プレーヤー
にとっては、周知で緻密な戦略(strategy)、作戦(operation)があり、それを機能
するフィジカル・キャパシティ(physical capacity)を高めるトレーニングがある。
 自己満足という到達点は無いかわり、一般的には排他的(exclusive)である。
よく言う、相手を認めて讃えることは、フィジカルキャパシティに余裕のある場合
のことで、プレーヤーが認めるキャパシティ(力量)のことではない。

 スペクテーター(観客)は、プレーヤーが持ち得ないすべてのパラドックス(paradox
逆説:inside out反転)をスタンダードにする。正々堂々とか(大事なこと)、フェア
にとか、十二分にとか(プレーヤーは当然がんばっている)、結果よりも(結果その
ものも大事)プロセスでの完成されたパフォーマンスの醍醐味を期待する。

 スポーツでいえば、事前に相手を研究して、出方を予測して、それに効果的なフ
ォーメーション(formation)を準備して、場合によっては、裏をかき、誘い込み
、油断させて結果を出すこともある。それもプレーヤーのキャパシティとして評価
となる。

 プレーヤーのキャパシティにも、(1)周到で緻密な戦略、作戦、戦闘(実行)基
本のオペレーションプレー(戦略的)と、(2)フィジカルキャパシティを基本に全
面強調したフィジカルプレー(機能的)のふたつの流れがある。
 日本のプロ野球では適応できなくても、米国大リーグでけっこう対応できるキャ
パシティがあるのも、その適応型セオリー(theory)。
 
 (1)政治と国民、(2)経済と社会、(3)プレーヤーとスペクテーターのキャパシティ
が、融合(fusion)し、混ざりあえる到達点(summit)がプリンシパル・ゴール
(principalgoal:あるべきゴール)だ。
 戦略、作戦のオペレーションプレーの評価がもてはやされる政治、経済、社会で
、ネイティブ(native)でヒューマン(human)な生き方もある。

 核兵器廃絶に向けた中国との協調を模索する政治課題は重要だが、天皇会見
のルールを無視した戦略的政治プレー、核持ち込みの沖縄密約での文書隠ぺい、
廃棄のオペレーションプレーと、スペクテーター(国民)にはパラドックス(paradox)
な政治プレーの特集が続く。

 年末をむかえて、上場企業の早期退職者は2万人を超えて(バブル経済崩壊
以来の7年ぶり)、JR年末年始予約が19%減少し、高速道路の渋滞が昨年の
1.5倍と予想されている。

 クリスマス、正月と、「非日常」の楽しみではあるが、一度、移動しない「日常」で
迎えて、この政治、経済、社会でのプレーヤーとスペクテーターのパラドックスを
、見つめ直してみるのもいいのではないか。
 

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