いのしし くん。

政治、経済から音楽全般の評論
ultimate one in the cos-mos

使命がつくる誤審。  review start

2009-12-16 20:06:46 | 日記
 人間は生まれながらにして善なのか、悪なのか、哲学では性善説と性悪説の角度
の違う理論(ideologio)が存在する。これが法律上の問題となると、戦前の思想
教育もあり、「究極」の場面、段階では人間は純粋無垢、素直になりウソはつかな
い(まして、神や仏の神聖な前にでは)真実を述べるという性善説観念を前提とし
て、「自白」が法律(刑法)上もっとも有力で重要な証拠として採用されてきた。
自白偏重偏向主義だ。

 取り調べでは、検挙率をあげる結果主義、使命のもとに、物的証拠以上にただ
「自白」だけを重要証拠とするための、容疑者をひとりにした究極の密室(取調
室)での、強引な捜査による「自白」調書作成の偏向が繰り返されてきたと想像で
きる。

 戦前戦後の黎明期では、国家権力の権威主義が横行して、警察権力は犯罪検挙
の実績をあげることがステータスであり、使命としていたのだろう(本質的には、
間違いはない)。
 そのため物的証拠もなく、犯罪性にも乏しい関係者でも、少しでも関係性(話し
たことがある、一緒にいたのを見た証言程度でも)があれば容疑者として取り調
べ、強引に有力重要証拠の「自白」へと落とし込むことがあったのだろう。

 半世紀前の時代の事件で、再審の結果、無罪の逆転判決がいくつか(4事例)
あり、最近では足利事件でも科学的分析結果(DNA判定)そのものの誤りで、無罪
確定が確実な事件に続き、今、42年前の布川事件でも当時の重要目撃証言を検察
側が採用しなかった新事実により再審開始が決まり、他にも再審開始に向けて係争
中の事件も複数控えている。

 現行裁判では、自白の他に物的証拠が審判維持には必要不可欠との形象理論が
常識となっている。
 国家権力、権威主義のプロセス無視の結果だけがすべてのイデオロギー(ideologie)
が人間の尊厳を長年にわたって踏みにじってきた事実が、今、社会問題化し、問わ
れている。
 強引な落とし込む自白強要捜査、それにもとづく審判の誤りが、半世紀も経過し
なければ暴かれなかった、無実が証明されないところに、「人」が「人」を裁くむ
ずかしさがある。

 もとより、事件は発生し、被害者は存在し、そして加害者(犯罪者)も存在する
。半世紀にもわたる事件の再審の結果、当時の容疑者が無罪となった事件のあた
らしい進展は望みようもなく、半世紀前の捜査の稚拙(ちせつ)により、真実が解
明されない事実の及ぼす影響力の大きさに、驚くばかりだ。

 裁判員制度が開始されて、法廷では真実を解明する科学的、物的証拠のわかり
やすさ、事件との関連性について細心の配慮(display)がなされている。
 人が人を裁くむずかしさ、責任力、誤った場合の取り返しのつかない人生の苦渋
を心に込めて言うなら、裁判教育も資格も訓練も実績もある裁判官が全面責任をも
つ判決の裁判員制度だ。

 裁判員はそう心に決めて、込めて、使命などと言わずに対処すればいい。

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