いのしし くん。

政治、経済から音楽全般の評論
ultimate one in the cos-mos

専門家というリスク。 risk like a expert

2011-03-21 19:29:05 | 日記
 (1)投資と投資効果というのは、それが「失敗」した時にしかはっきりとあらわれないし、認めないし、身につまされない。
 今回の未曾有の東日本大震災の被害総額が10兆円を超えると見られている。海岸沿いの海抜の低い地域では高さ10メートルもの類のない防波堤を築いていたが、想定外の大津波には効果もなくて、市全域が行政、住民もろとも壊滅した。

 防波堤以外に、地理、自然条件の置かれた環境を考えた安全避難、防災環境の確保など災害安全対策の「間違っても安全(fail safe)」への投資が必要だったのは、けっして結果論ではない。
 海抜の低い海岸沿い、崖の下、埋立地など「そこ」に住まわなければならないとしたら、安全で平和、安心な「生活現場」に「相当の投資」は必要になる。
 そうしないと、最大「生命」という、基準などと言う一定の投資では取り返しもできないリスク(risk)を負担させるし、払うことになる。

 (2)今回の福島原発事故では、地震には強くても津波に無防備だったという安全対策上の問題の結果として、すべての原子炉が「物理的」に廃炉として再利用は不可能になったし、何より国民「感情」、市民「感情」、住民「感情」が「それ」を許さない。

 この問題で国の損害賠償額が1兆円を超えるとみられ、また今回の災害を受けて初めて他の地域での原発が地震、津波対策としてあらたに1000億円(11基)の投資を見込む。
 それだけの「投資」を当初設計監理、建設事業費として安全管理対策に組み込まれていれば、投資効果はどうであったのか。
 専門的見地から、原発推進関係者には油断、甘さ、自負への反省はないのかだ。

 (3)都市計画、インフラ整備計画での投資と投資効果について、かかわる専門家はレベル毎の試算を示して最大限の投資と投資効果を示す「責任」がある。
 そうでなければ、後々になって途方もない災害被害、損害となって、その「能力」、「責任」、「予見予知」に取りようもない専門的リスク(risk like a expert)を背負うことを、明々、肝に銘ずべきだ。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする