いのしし くん。

政治、経済から音楽全般の評論
ultimate one in the cos-mos

過失と危険運転。 accidental and dangerous driving

2013-02-21 19:30:38 | 日記
 (1)12年4月に亀岡市で起きた19才の無免許運転車の暴走による集団登校中の児童ほか10人の死傷事件は、防ぎようのない無謀運転事故として戦慄を覚えた。事情がわかるに従って、加害者少年は無免許運転の常習者(habitual criminal)でしかも事故前の2日間で5時間余りしか寝ておらず(報道)、事故当時は遊び疲れての居眠り運転だったことがあきらかとなり、何んともやるせない理不尽さ(unreasonableness)に驚かされた。

 未成年者の常習無免許運転を「放置」した親、関係者の「責任」は大きいが社会問題となることはなく、加害者少年は自動車運転過失致死傷罪、道交法違反(無免許運転)で起訴された。

 (2)免許制度は、一般よりも高い技術と判断、責任の必要な特定活動、行動での安全性確保、維持のための必要制度であって、これに無免許で活動、行動することは不正行為の意図(intention)や意思(mind)が前提となる反社会的行為(anti social action)ということだ。

 無免許運転がそもそもその他の要因で「過失(accidental)」と判断されるにいたる要素にはない。この裁判で、地検は「運転技術はあり、未熟運転には当たらない」(報道)としているが、はなはだしい論理展開の間違いだ。
 免許制というのは個々の実質能力を前提とした判断ではなくて、広く能力に法定統一基準にもとづく責任のとれる高い技術、機能力を認めるものであり、実質能力差のことではない。だから取得年令制限も設けている。

 (3)東日本大震災でも医師免許のない者が偽(いつわ)って往診をくり返していた事例もあり、「過失」などと言えるものではない意図的、反社会的医師法違反そのものだ。
 日本の刑法は報復主義ではなく罪刑法定主義だから、犯罪の意図、意思、認識、目的が判断、判定基準となる。意図も意思もなく結果として犯罪を犯せば、過失ということだ。

 常習無免許運転者がそれを「危険運転(dangerous driving)」と認識していた行為なのか判断、判定となる。
 「常習」無免許運転者が一様にこれを重大な反社会的違法行為、危険行為だと認識していたかとなると、判断は分かれるところだが、実際、免許を取得、所持せずに無免許運転をくり返していることから「運転過失」の論理、範疇(はんちゅう)以前の問題で、違法性は十分予見できる範囲(常習)のことと考えられるところであり、まして地検の「運転技術はあり」は法律論、裁判論としては論外のことだ。

 (4)遊び疲れての居眠りによる「過失」など考慮する以前の問題だ。それでも未成年者の加害者処分を弁護側は少年院保護処分と主張したが、裁判長は刑事罰が相当と判定した。
 しかし、刑期が求刑を下回ったのは裁判長の「(加害者が)反省し後悔し、(重罪を)躊躇(ちゅうちょ)せざるを得ない」(報道)というものだった。

 日本の刑法は報復主義ではないから、被害者感情とのズレはいつもあるが、常習無免許、遊び疲れての無謀居眠り運転で幼子、胎児の死亡を含む被害に遭った人々は、これを「過失(accidental)」では浮かばれない。

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