話を坂上田村麻呂に戻します。
田村麻呂は金の採取・採掘をしながら蝦夷と戦う戦法を取ります。
その兵力は4万人。現地で金を採取して兵糧や兵士の賃金を賄いながら戦うのなら4万人の兵力が理想的だったと思われます。
過去、10万人を動員しても勝てなかった訳ですが、その4万人の兵は農勢期を気にする事無く常時戦える兵です。それでも蝦夷兵の10倍の規模となります。こうなると蝦夷もたまったものではありません。万策尽きたと言えます。
田村麻呂・アテルイの時代は蝦夷だって農耕をしています。縄文時代の様に狩猟オンリーではなく、農耕が生産の主力です。戦を続けていては田畑を耕せない。食料が供給出来ない。つまり暮らしていけないし戦えないのです。
そうなると大和朝廷側に投降する蝦夷が続出します。大和朝廷側に投降した蝦夷は熟蝦夷。投降せず最後まで戦った蝦夷は荒蝦夷と呼ばれています。
田村麻呂は最後に駄目押しの策を講じます。何と投降してきた熟蝦夷を大和朝廷側の兵士として、最前線で仲間だった荒蝦夷と戦わせたのです。つまり目には目を。蝦夷には蝦夷をです。
かつての仲間同士を戦わせる。この発想は蝦夷には理解出来なかったと筈です。蝦夷は良い意味で社会主義・共産主義の国です。皆で助け合う種族なのです。
アテルイ・モレは仲間と戦う事は出来ないと判断したのでしょう。最後まで戦っていた500人の蝦夷達と共に田村麻呂に投降。大阪まで連れて行かれて全員が処刑。蝦夷側が全面降伏した訳ではありませんが、これが一応の決着となりました。
田村麻呂は帰順したアテルイら蝦夷兵を平城京に連行。アテルイ達の武勇と器量を惜しみ、「戦後の蝦夷統治に尽力させるべき」と助命を嘆願したそうですが、貴族達に「野生獣心、反復して定まりなし」との判断で、田村麻呂の意向は聞き入れられず泣く泣く処刑されたとなっています。
私、これはチョット疑問です。
蝦夷同士を不条理に戦わせた田村麻呂が、アテルイ達の助命を願い出たとは思えません。一応の決着は確かに着きましたが、まだまだ蝦夷との戦闘は続いているのです。アテルイの息子もアテルイの死後も戦い続けています。アテルイ等を奥州に帰すなんて考えられない。それが危険なのを一番知っているのは田村麻呂です。私はこの話は田村麻呂を奥州の英雄にする為のフィクションだと思います。
その理由は青森県の「ねぶた・ねぷた祭り」一説で証明出来ますが、この話は今回は飛ばしまして次回書きたいと思います。
つづく。