諸行無常なる日々。或いは鬼渡神と神々の源流。

呪われた家系を生きる私の人生観や日常。それに立ち向かう為の神道的な考え。そして因縁の鬼渡神、神々の源流について考えます。

狩野英孝の実家、櫻田山神社。【武烈天皇編】 その2

2014年04月10日 02時15分29秒 | 神道
続きます。

武烈天皇は「妊婦の腹を裂き、胎児を見た」、「人の指の爪を剥ぎ、芋を掘らせた」、「頭髪を抜いて人を木に登らせ、その木を切り倒して殺した」、「人を池に放り込み、三刃の矛で刺し殺した」、「人を木に登らせ射殺した」「女と馬に・・・させ、あーして、こーした」、「昼夜問わず酒宴を開き、贅沢三昧した」等々、日本書紀に書かれています。確かにその文からは「邪」であると言えます。

しかし、その上の文には「皇太子の時代から長じて罪人を罰し、理非を判定する事を好んだ」、「法令に通じ、日の暮れるまで政治を執り、世に知られずにいる無実の罪も必ず見抜いた」、「控訴の審理は、誠に的を得ていた」等々記載しているのです。

これって変ですよね。一方では暴君、又一方では名君として書かれているのですから。多分、暴君だったというのはでっち上げだと思います。そのでっち上げの理由を述べる為、一連の流れを語ります。

先ず、当時大臣を務めていた平群真鳥が国政を牛耳っていた。そして即位前の武烈天皇の抹殺を図った。武烈天皇はそれを察知し、大友金村に平群氏の討伐を命じた。そして平群氏は滅亡した。

武烈天皇は10歳で即位したが18歳で崩御。子供はいなかった。

大友金村は蘇我氏の血筋である継体天皇を担ぎ上げた。

大友金村はその後、継体天皇政権時に新羅から賄賂を受け取るなど外交上で失敗。失脚した・・・・・っとなります。

ここで注目なのは平群氏と蘇我氏は武内宿彌の子孫である事です。簡単に言うと親戚なんですね。つまり平群氏討伐を命じた武烈天皇と継体天皇は敵同士となります。

そして18歳で亡くなった武烈天皇は暗殺された可能性があると思います。

誰が殺したか。怪しいのは当然蘇我氏です。多分、実行犯は大友金村でしょう。大友金村は賄賂に弱いようですから、金で頼まれたのでしょう。その後、継体天皇を連れて来てますしね。用無しになって失脚させられましたけど・・・・・・。

この説の裏付けは櫻田山神社が示していると思います。武烈天皇の側近だった狩野英孝の祖先が武烈天皇の死後失脚し、こんな遠い宮城県の栗原市まで流されて来てますからね。

暗殺した武烈天皇の側近なら、殺すか流すかしてないと心配な筈です。それが証明です。

それに櫻田山神社に八幡神・応神天皇が合祀されているのもその証明になると思います。応神天皇は継体天皇の五代前の先祖ですので。

つまり暗殺されたから祟神となる。それを応神天皇の力で抑えようとの考から、合祀されたと考えられます。

暴君にしたてのは、当然、蘇我氏でしょう。天皇の血筋と入っても血の薄い継体天皇を持って来た訳ですから、先代の武烈天皇を暴君に仕立てた方が言い訳が出来ます。仕方が無かったのだと・・・・。

それ故、武烈天皇が気の毒です。殺されて暴君に仕立てられりゃ、菅原道真公よりも酷い目にあったといえます。そりゃ祟りますよ。それだけ当時の人々は祟りが怖かったし、継体天皇側も罪悪感があった。

そして側近だった狩野英孝氏の祖先も武烈天皇を守れなかった悔やみから、武烈天皇は丁重に祭り上げなければならない。そして遠く離れた栗原の地に櫻田山神社を建立した。これも証明になると思います。

だからこそ、狩野英孝氏が「桜田山神邪」と名乗るのが気になっていました。櫻田山神社の宮司の息子がそれはないと思います。ホント、判らないです。悪い神様だと思っているからなのでしょうか。

いや、もしかしたら本当に暴君で側近だった狩野英孝の祖先が・・・・・。だから櫻田山神社を・・・・・・・。

そんな事は絶対に無いと私は確信しています。しかし、こればっかりは当時の狩野氏の先祖に聞いてみないと判らないですわね。

狩野英孝氏に対しては、出来る事なら武烈天皇側近・狩野家の現在の当主なのですから、それを証明するためにも武烈天皇の名誉回復に尽力して貰いたい。武烈天皇を研究し、世の中に広めて頂きたいと思っております。

勿論、私の説が正しかったらの話ですが・・・・・・。


ではでは。















コメント (4)
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