諸行無常なる日々。或いは鬼渡神と神々の源流。

呪われた家系を生きる私の人生観や日常。それに立ち向かう為の神道的な考え。そして因縁の鬼渡神、神々の源流について考えます。

人の命を預かる怖さ。【常磐山元自動車学校津波控訴編】 その1

2015年01月18日 09時51分08秒 | 東日本大震災

私、歴史通を気取っていましたが、3.11の震災を経験して本当は故郷の福島県、そして現在住んでいる宮城県の歴史について、何も知らなかったのだと痛感しました。

一番は国道6号線です。津波は6号線ギリギリで止まったのですが、過去の津波に対応して造られた古道が国道6号線だったと言う事。

この6号線に沿って古墳が存在するのですが、これは古代の人は津波を避けて生活していた事を示していたのです。仙台からいわき市まで6号線は何度往復したか判りませんが、宮城県も福島県も先ずは津波ありきの土地だったと言えます。

神社仏閣も津波に侵食されない場所に鎮座してました。津波での甚大な被害は、昔からの記録を忘れてしまった事が一番の原因だったと、つくづく思いましたわ。

そしてこれは最近知ったのですが、宮城県の海岸線には何故か「釜」と字が付く地名が多い。確か十一面観音がゆり上げられたと言われる「閖上(ゆりあげ)」にも「釜」の字の地名があります。何故なのか。

私、考えもしなかったのですが今から約400前、1611年12月に慶長三陸地震が発生。3.11の大津波と同規模の津波が仙台平野にも発生していたのです。

今から1100年前の貞観地震による津波から、3.11の東日本大震災は1000年に一度の大震災とか言われてましたが、何の事はない、400年前にも大津波が発生し仙台平野の湾岸・海岸線にも来て多大な被害をだしていた。これ、仙台に住んでいる人でどれだけが知っていたでしょうか。多分、1000人に1人も知らなかったと思います。

そして当時の仙台藩初代藩主・伊達政宗は、慶長津波で海岸線の商業・農業を断念。津波の影響が少ない塩の生産のみを許していた。その塩を生産時に使われる塩釜から、「釜」の地名が残ったと言う事です。

それにしても不思議です。1100年前の貞観の大津波なら記録が余り残っていなくてもそれほど不思議ではありませんが、たった??400年前の慶長の大津波の記録、もしくは記憶が浸透していなかったなんて。しかも伊達政宗の時代です。あの独眼龍政宗ですよ。

伊達政宗に関する著書は多くあります。伊達政宗の慶長津波での政策はしっかりと記録に残っている筈です。それなのに私を含め仙台市民の殆どが知らなかったなんてチョット信じられません。何故広めなかったのか。知らしめなかったのか。

これ、まさかとは思いますが、仙台平野の海岸に大津波が来ていたと言う事を知られては困る人達がいて、その人達が影の運動を起こして400年前に大津波が来ていた事をタブー視していた。そして何らかの圧力をかけていたのではないでしょうか。

仮にそうだとして誰が圧力をかけていたのか。それは当然海岸線の地主が一番疑わしいです。

土地は財産です。自分の土地に過去、津波が何度も来ているなんて知れ渡ったら土地の価値は大暴落です。誰だって自分の財産の価値が落ちるのは嫌ですから、知れ渡るのを阻止していた可能性は高いと思いますね。

そして宮城県、仙台市の行政も困る筈です。400年前にも大津波が来ていたなんて知れたら、宮城県や杜の都・仙台市のイメージはガタ落ちです。

恥部を隠すのがお役所です。だから行政も慶長大津波に付いては語ってこなかったのではないでしょうか。

今から約35年前にも宮城県沖地震がありましたが、この時は運良く津波は来なかった。ただそれだけの事だった。30年前後の周期で大地震が発生する宮城県です。大津波もそれに合わせ発生する可能性が十分にある。それは知られたくないと言う意思があったように思えます。

仮に慶長大津波が東日本大震災規模の大津波と同じ規模だと仙台市民が知っていたなら、津波の被害が甚大だった荒浜の隣町である荒井に今度開通する地下鉄東西線の駅なんか造らなかった。造れなかった。もしかしたら地下鉄東西線も造られなかった可能性もあると思います。

震災を体験して行政に隠したいとする考えがあったと、どうしても思ってしまいます。

 

続く。

 

 

 

 

 

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