続きますね。
さて松倉勝家ですが、肥前島原藩の二代目藩主です。大変見栄張りなのか、幕府に対して媚を売っていたのかは知りませんが、実質4万石程度の石高なのに自分で検知して10万石の石高を誇張。農民にも10万石に対しての年貢を徴収してたんです。
当然、4万石なのに10万石分の年貢なんて農民は払えません。こんなんじゃ農民は生きていけない。それでなくても親父の松倉重政の代から、年貢を払えない農民には残酷な拷問・処刑を課していた。
さらに幕府からキリシタン弾圧を示唆され、これまた良い所を見せたいのかキリシタンの迫害を強化。結果、島原の乱を引き起こします。
島原の乱では天草四郎時貞率いる反乱側が殲滅。37000人と言われる百姓が皆殺しです。幕府側も8000人以上が戦死。その責任を取らされて松倉勝家は斬首となっています。
まっ、松倉勝家のエエカッコしいと自分中心の考え、百姓を人とも思わない心、無謀な藩政の為、45000人以上の命が消えたんですから斬首も当然でしょう。本当にとんでもない馬鹿だし、悪党だと思いますわ。
その松倉氏の血が副編に流れているのであれば、当然キリスト教徒を毛嫌いする。故に副編が松倉氏と何らかの関わりがあるのではと考えました。
こんな副編の話ですから、多少なりとも身贔屓なところがある筈です。副編の話はその点を多少考慮しなければならないと思います。
それでは話します。簡単にですが長崎に原爆が投下された経緯を。
時は昭和20年8月9日。原爆を積んだB-29は北九州の小倉を目指してました。勿論、小倉に原爆を投下する為にです。
しかし、小倉上空は天候が悪く朝霧がかかって視界が悪かった(火災による煙との説もあり)。どこに原爆を落としていいのか判らない。10機のゼロ戦も追撃に向かって来ている。燃料の問題もある。機器も故障した。それで急遽、計画を変更し、B-29は長崎市に向かいます。
長崎市では天候観測機から天候は良好との報告があったが、到着してみれば積乱雲が出ていて視界がすこぶる悪い。長崎市の景色が見えない。原爆投下予定地点が判らない。しかも原爆投下のB-29同士でニアミスするアクシデントが発生。接触寸前となり、切羽詰まった状態に。
そうこうしていたら雲の切れ目が見えた。燃料の問題がある。一刻の猶予も出来ない。それで原爆投下予定地点を無視しし、雲の切れ目を目がけ原爆を投下。
そして原爆により長崎市は人口24万人中、7万4千人の命が奪わた。長崎市の約三分の一の人口が失われる事となりました。
続く。