諸行無常なる日々。或いは鬼渡神と神々の源流。

呪われた家系を生きる私の人生観や日常。それに立ち向かう為の神道的な考え。そして因縁の鬼渡神、神々の源流について考えます。

井伊直政と永井直勝。その4

2017年06月30日 11時56分59秒 | 歴史

続きます。

永井直勝に絶交を言い渡された井伊直政はその後考えたと思います。永井直勝と言う男の事を。

十代前は源義朝を卑怯にも風呂場で討った長田忠敬。それを直勝は恥じ入っていた。その思いから自分に意見したのではないか。

直勝は何時も家康の側にいる。家康に命ぜられて自分の所に来たのだろうか。

そう言えば直勝は秀吉の朝鮮出兵の時、名護屋城で秀吉から池田恒興を討った、更には見識の高さから「比類なき勇者」として「豊臣」姓まで頂いている。しかし、石川数正の様に豊臣に走る事は無かった。家臣の鏡と言うべき男だ。自分が間違っているのか。

「神君伊賀越え」の時には実際には初代・服部半蔵は随行してなかった。永井直勝は伊賀や甲賀の人達にも精通している。その地にも詳しい。

事実、何故か直勝の父・長田重元が大浜でタイミングよく、船にて家康一行を迎えている。この場に逃れるのが判っていたようだ。これは全て直勝の仕事ではないのか。

安藤直次の命を救った件もある。あいつは命も出世も捨てている。あいつの清さに比べ自分はどうか。心が濁っているのではないか。

上様も高齢。あの歳で全ての判断が出来るものなのだろうか。もしや永井直勝は上様のブレーンなのでは。もう1人の徳川家康なのではないか。

直政がそう思ったかどうかは知りませんが、永井直勝はその12年後の大坂夏の陣で大阪城が落城しようという時、家臣が止めるもの聞かずに燃え盛る大阪城に単身乗り込んでいます。「自分は上様の目である。豊臣秀頼公の最後を確認するのは自分の役目だ」と叫んで。

いくら直勝の武勇が優れていたとしても、死を覚悟した相手方の城に単身突入するなんて死にに行くようなものです。それでも直勝は向った。そして秀頼の自害を確認し、無事に戻って来ています。豊臣の世の終焉を見届けた。それは家康そのものの意思と言えます。

直政は深く考えた。直勝の言葉を。全てにおいて直勝はもっともの事を言っている。道理は直勝にある。功を誇るのは忠義の士の道ではない。上様の拝領を不服として受けないのは恐れ多い事である。この直政、愚かであった。

そして直政は本多忠勝の元へ走り、直勝の苦言を語る。本多忠勝も「その通りだ。良き了見である」と発言。共に家康に詫びを入れ折紙を受け取っています。

もし直政が家康の折紙を受け取らなかったとしたら。私、幕末まで井伊家は続かなかったと思います。家康は三河からの家来に疑問を持っていた節もあるので。

家康から折紙を受け取った直政は永井直勝の元へ向い、「以前の言論、全て自分に咎がある。面目なかった。お前は真の友だ。どうか今まで通りの親交を続けて欲しい。この通りだ」と頭を下げ、友好の印として直政の宝であった「文殊の茶入れ」を直勝に渡そうとする。

直勝は「これまで以上の親交はこちらからもお願いする。しかしながらこの茶入れは天下の名品。貴殿の家宝ではないか。これは受け取れない」と。

直政と直勝は「受け取れ、受け取らない」の問答を繰り返し、「この茶入れは自分の心底の印である」とした直政の言葉に直勝が折れて、「文殊の茶入れ」を受け取ります。

その1~2年後、直政は関ヶ原の戦いでの鉄砲傷が元で死亡します。この「文殊の茶入れ」は死を悟った直政の覚悟だった。そして井伊家の行く末を永井直勝に頼んだのではないかと私は思っています。

このシーンが「おんな城主 直虎」で流れるなら名作になる。誰もが感動する筈です。私も見続けます。

この心が生き残る上で一番大切な事だと思いますので。

 

ではでは。

 

 

コメント (3)
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