続きます。
常福寺でそんな想いをしたのは、住職と思える方の銅像を見たからです。
2つの銅像がありましたが、1つはメガネをしている。っと言う事は、近代の方だと思います。
何の為に住職の銅像を造ったのだろう。
僧侶らは厳しい修行をしていると思いますが、名声を得たいが為に修行しているのか。
銅像は神格化と言えます。自分は神になりたい。自分を信仰して欲しい。だから銅像を造って貰いたかったのか。
以前、「余命3ヶ月と言われたら、即身仏になろうと思っていた」と題して記事を書きましたが、これは私も少なからず自分を覚えて貰いたい。拝んで貰いたいとする意思がありました。
今考えてみると、私の骸を晒すなんて恥ずかしい事なんか出来ない。生きるのは辛い事。自分が死んだら綺麗さっぱり消え去るべきと考えています。
でも、仏教の方は、何時までも永遠に自分を覚えていて貰いたいのか。それって、途轍もない欲ではないのか。仏教の本質は欲なのではないか。欲の為に仏の道を選んだのか。
信仰を集めるには誰にも負けない論理を持つ事。間違いない仏の道を歩んでいる事が大前提だと思えます。だから自分と違う意見とは徹底的に戦う。そこに禍が生まれるのではないか。
私は僧侶さん達に嫌悪感は持っていませんが、何でも自分が正しいと言う考え方は相容れないです。やっぱり宗派と言うのが好きにはなれません。それは人間の判断ですから。
自分が正しい。自分の言う通りにしろ。
それは人それぞれの判断に任せるべき。人生に完璧な教科書なんてない。自分の判断で生きなければ、自分の人生とは言えませんからね。
それに、人間誰しも禍で有ります。私のせいで酷い目に遭った人もいる筈。私が存在しなければ、従兄も仙台には来なかったかも知れない。死ぬ事もなかったかも知れない。私は従兄にとって禍だった部分も絶対にある。そう言う意味では、どんな人間も罪を犯している。
一向一揆の一向宗は浄土真宗の事ですが、親鸞が存在しなければ2万人も死ぬ事はなかったかも知れない。
奈良の大仏だってそう。あんなものに金メッキほ貼り付ける為、蝦夷討伐を行なった。仏教の為に罪の無い蝦夷が殺された。その事実がある限り、100%仏教を信じる事は私には出来ないです。
そう言いながら常福寺に何度も参拝している。父方の浄土宗、母方の曹洞宗の墓参りをしている。
それは私が仏教徒だからなのでしょうが、自分でも釈然としないと言うか、一体なんでお寺に詣でるのか良く分からない。何かしら繋がれている感じがする。
繋がれている。
それは悪を制御する仏教の力と言うものでしょうか。仏教があるから、地獄に落ちたくないから、多少なりとも仏教を信じていると言う感じでしょうか。
色々考えましたが、しどろもどろです。何時もの如く何がなんだか分からなくなってまいりました。
あっ、そうそう。常福寺はこれまで、幾度かの火災に遭っているそうです。仏の道を歩んでいても災害に遭遇する。それは何故か。
私、近年知ったのですが、常福寺の旧参道に面する山林を私の母の名義で所有しています。そしてその旧参道には大山祇神社と彫られた石碑が鎮座している。
常福寺は1200年の歴史があるみたいですが、元々、閼伽井嶽は大山祇神が頂上に祀られていた可能性がある。
もしかしたら、閼伽井嶽の頂上から中腹に落とされてしまったのではないか。常福寺は大山祇神を調伏する為に創建したのではないか。そんな疑問が有ります。
次ぎは常福寺から旧参道を下って大山祇神社を参拝し、そこでの感覚を体現したいと思う。
体力的に困難でしょうけど、体現すれば何かが分かる。そんな気がしています。
ではでは。