諸行無常なる日々。或いは鬼渡神と神々の源流。

呪われた家系を生きる私の人生観や日常。それに立ち向かう為の神道的な考え。そして因縁の鬼渡神、神々の源流について考えます。

父が亡くなった病院の前でバイクのタイヤがパンクした。その1

2023年03月03日 13時16分16秒 | 出来事
私の人生に付きものなのは負の奇跡です。あり得ない負の偶然が重なるのです。

否、私だけではない。私の親族にも起きている。従兄弟も二人の自殺者が出た現場で事故死した。こんな偶然は考えられない。やっぱり引っ張られたと思う。従兄弟は気が優しいし。

「事故死は半分自殺」と臨床心理士は語ったが、極論を言うと気が抜けていたから事故を起こす。気が優しいから魔に狙われる。

人生で一番大切なのは気。病も気からと言いますが、気が強ければ魔も跳ね返せる。事故も起きない。鬱病にもならない。

身体から気が抜けたら死体と同じ。気こそが心のエンジンだと思います。

さて、3月1日、全国健康保険に頼んでいた書類が郵送されて来たが、不備だらけで使い物にならない。それでまた発行を頼みに向かった。場所は仙台市役所の隣。

時間はかかったが、再発行して郵送する。今度は間違いない。そう言ってくれた。

それで次は太白区の水道局にバイクで向かう。

イオンを過ぎ、七十七銀行本店を過ぎ、五橋へと愛車ヤマハメイトT90を走らせる。

そしたら少しバイクの安定感が落ちた。どうしたんだと思っている内に車体が揺れだした。パンクだ。河北新報社の直前でバイクを停車した。

調べてみたら後ろのタイヤの空気が全然ない。

仕方がない。行きつけのバイク屋まで押して帰るか。多分、5~6キロはあるけど。

パンクしたバイクを手で押して歩く。横断歩道を渡り来た道を戻る。そして気が付いた。バイクがパンクした瞬間の場所が、父親が亡くなった終末医療の病院の前であることに。

暫し呆然とする。こんな偶然があるのか。父は死んでも私に禍を齎すのか。

私は死んでも父と一緒の墓には入らない。私は親に恵まれなかった。親がいなければ鬱になることも無かった。あの男を父に持って本当に運が無かった。

第一、浄土宗に命を狙われた家系なのに、浄土宗のままでいるのはおかしい。現に浄土宗の総本山である増上寺の中で私の家系の者が殺されているのだ。宗家の永井直勝の様に曹洞宗に改宗すべきではないのか。

だから私は父の墓には参拝していない。これからも参拝する気もない。父の墓を見たらハンマーで墓石を打ち壊したくなる。

だが、弟の子の遺骨も入っているからそれば出来ない。

父の墓を目の前にすれば心が乱れる。鬱が酷くなる。絶対に行くつもりは無い。


つづく。
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