続きです。
蝦夷討伐は蝦夷と蝦夷の戦いだった。っと言う事は日高見国の荒蝦夷達の神も鬼渡神である阿須波神なのか。
その通りです。
塩竃神社の正式名称は「志波彦神社・塩竃神社」となります。神社の社格では塩竃神社よりも隣接している志波彦神社の方が上なのです。この志波彦神社に祀られている志波彦神こそが鬼渡神・阿須波神です。
私の記憶が正しければ塩竃神社側は志波彦神に付いて、塩土老翁、鹿島神、香取神と共に国造りを手伝った神として祀られているとしています。
この話、半分嘘です。
志波彦神社・塩竃神社はは塩釜市の一森山に鎮座しています。この一森山ですが、この周辺の蝦夷の長である盛多賀嶋から取っていると考えられています。一般的にはアテルイの副官的に例えられているモレの事です。
この一森山はモレの一族の信仰の山だった。自分達蝦夷の神を祀っていた。
しかし、モレの一族である荒蝦夷は敗れた。
以前は10万人を超える朝廷軍に対し、4000人程度の荒蝦夷がゲリラ戦を繰り広げ荒蝦夷優位に進んでいたが、中国系の坂上田村麻呂が征夷大将軍に任命されてから事態は一変した。
戦国時代、兵士を職業として確立したのは織田信長である。それ以前は半農半兵士で、戦いは農閑期のみ行われていた。
坂上田村麻呂は織田信長よりも早く職業兵士制を確立した。荒蝦夷軍は農業を捨てられない。食料が無くなる。収穫期は戦えない。
しかも以前は兵士と兵士の戦いだった。だが、坂上田村麻呂は荒蝦夷の非戦闘員をも殺しまくった。それで荒蝦夷は戦いを放棄した。
朝廷軍は坂上田村麻呂を英雄視し神格化した。アテルイ・モレに500人の荒蝦夷が投降し、命を助けるように朝廷側に働きかけたと言われているが、それだったら最初から女子供年寄りまで殺さない。初めからアテルイ・モレらを殺すつもりだった。大嘘を付いて投降させたのだ。
その証拠に荒蝦夷の戦いは再開された。アテルイの子孫らは戦いを続けた。そこからも坂上田村麻呂はアテルイ・モレらを騙したことが想像できる。
話を一森山に戻します。
一森山にはモレの一族、荒蝦夷が信仰していた神が祀られていた。しかし、荒蝦夷は敗れた。
モレの一族が信仰していた神を祀る社は打ち捨てられた。それ以来、蝦夷の神は忘れ去られた。
続く。