私のブログのタイトル「諸行無常なる日々。或いは鬼渡神と神々の源流」ですが、鬼渡神とはどんな神なのか語っていませんでしたね。
忘れていた訳では無いのです。一言では説明が出来ないし言い切れない。何と言いましょうか、まるで連想ゲームなのです。連想に連想が重なり、もうワケワカメになっちゃっています。難しいんですよ。だから誰も研究が進まないでいる。
いやいや、大変判りやすく説明している方がおりまして、その人の二番煎じで書いてもしょうがないかとの思いがありました。だから具体的には語って来なかったんですが、タイトルがタイトルだから上手くは説明は出来ないけど、ここらでちょっくら「こんなもんだよ」的に、あっさりと語って置きたいと思います。それでは始めます。
先ず私は鬼渡神と称していますが、二渡、仁渡、三渡、見渡、荷渡、根渡、仁和多利、神渡、三輪渡、庭渡等々、多くの表記があります。
鎮座している場所の特徴なのですが、私の故郷である福島県いわき市の三和町永井にある永井神社(以前は鬼渡神社、神渡神社、三輪渡神社と呼ばれていた)を例に挙げますと、田圃を見渡せる小高い山の中腹にあります。
私が現在住んでいる仙台市泉区に鎮座する仁渡神社の場合も田圃の中に鎮座しています。何故に田圃が近くにあるかと言うと、鬼渡神は水分神だから。水を分配する神は当然田圃に水を配る訳です。そして仁渡神社も天之水分神・国之水分神を祀っています。辻褄が合います。
私がこれまで鬼渡神を調べてきて判っている事は、大半の渡系の神社は川や沼、泉、海に近い場所に鎮座している事です。「渡る」は「川や海など水の上を通過する」と言う意味ですから、水辺に近い場所に鎮座しているのは当然だと思いますね。
因みに私は塩竃の志波彦神社に鎮座する志波彦神は、もう一つの代表的な鬼渡神である阿須波神だと信じているのですが、それを証明する場所がどこかにあるのではないかと考えていました。
そして偶然、津波で流されて転居した一森寿司を探していて立派な公衆トイレの前に小さめの石柱を発見。「祓戸社」と彫られていた。急いで公衆トイレ周辺を探索して湯殿山権現の石碑を背にした祓戸社の祠を発見しました。
その祓戸社に祀られる祓戸四神のお一人である瀬織津姫も代表的な鬼渡神です。そしてこの祓戸社は今は水が流れていないが、祓川の側に鎮座している。そして志波彦神社・塩竃神社の鎮座する一森山は昔は海の真ん前だった。
その事を踏まえて考えると志波彦神社も鬼渡神社であると言えるのではないかと思います。神社関係者には申し訳無いですけど。
話を水分神に戻します。水分神は水をお分けしていただいている神。つまり灌漑の神です。その灌漑の神が塩竃に隣接する利府にも鎮座しています。伊豆佐比売神社の三島溝咋姫です。
溝は水の通路。つまり灌漑です。ここも田圃を見渡せる小高い山の上に鎮座しています。そして瀬織津姫がルーツと思われる「悪玉伝説」が伝わっている。
これも鬼渡神を紐解く事例だと考えていますが、怖くて語れません。何れ精神をを集中してどう語ればお怒りにならないか考えてから書きたいと思います。
つづく。
日本の文化としては言わなくてもその感性を持っている範囲であれば自然に危険から回避してやってこれた。
ただ今の時代、子供を見ていても言わないと分からない、親にも教わっていない。相手の様子を見て深追いしないという文化がだんだん廃れ、神社の神域にも入ってしまう方が増えやむ負えなくフェンスなりをと。
皮の細工を勉強していた時の自分に似ているなあと思いますね。先生に聞いて覚えようとする、相手の作業を見ていない、タブーをタブーと思えないと。
先人たちの努力をこの前文学の中での作者の葛藤などとても苦労してきた方へのリスペクトをしないといけないと思いますね。
そういう葛藤が一番わかる綱永井さんのお役目はとても大事だと思います。長い目でみて神の怒りを鎮め穏やかに進める指針を持てるような時期がくる事を願っています。事象が何か変化を起こしてくるといいですね。無理しちゃダメですよ、その時まで。1723
私は大変残念ながら負の奇跡が起きやすい人生を歩んでいます。故に人よりどうしても臆病になります。
人には人の生き方があります。世の中法則は余り当てにならない。でも地元の神社は震災について伝えていた部分が多岐にわたってありました。神社の伝承は信じられる。震災を経験してつくづくそう思いました。