諸行無常なる日々。或いは鬼渡神と神々の源流。

呪われた家系を生きる私の人生観や日常。それに立ち向かう為の神道的な考え。そして因縁の鬼渡神、神々の源流について考えます。

閼伽井嶽薬師常福寺にて想う。その4

2021年02月07日 01時03分15秒 | 人生
続きます。

常福寺でそんな想いをしたのは、住職と思える方の銅像を見たからです。

2つの銅像がありましたが、1つはメガネをしている。っと言う事は、近代の方だと思います。

何の為に住職の銅像を造ったのだろう。

僧侶らは厳しい修行をしていると思いますが、名声を得たいが為に修行しているのか。

銅像は神格化と言えます。自分は神になりたい。自分を信仰して欲しい。だから銅像を造って貰いたかったのか。

以前、「余命3ヶ月と言われたら、即身仏になろうと思っていた」と題して記事を書きましたが、これは私も少なからず自分を覚えて貰いたい。拝んで貰いたいとする意思がありました。

今考えてみると、私の骸を晒すなんて恥ずかしい事なんか出来ない。生きるのは辛い事。自分が死んだら綺麗さっぱり消え去るべきと考えています。

でも、仏教の方は、何時までも永遠に自分を覚えていて貰いたいのか。それって、途轍もない欲ではないのか。仏教の本質は欲なのではないか。欲の為に仏の道を選んだのか。

信仰を集めるには誰にも負けない論理を持つ事。間違いない仏の道を歩んでいる事が大前提だと思えます。だから自分と違う意見とは徹底的に戦う。そこに禍が生まれるのではないか。

私は僧侶さん達に嫌悪感は持っていませんが、何でも自分が正しいと言う考え方は相容れないです。やっぱり宗派と言うのが好きにはなれません。それは人間の判断ですから。

自分が正しい。自分の言う通りにしろ。

それは人それぞれの判断に任せるべき。人生に完璧な教科書なんてない。自分の判断で生きなければ、自分の人生とは言えませんからね。

それに、人間誰しも禍で有ります。私のせいで酷い目に遭った人もいる筈。私が存在しなければ、従兄も仙台には来なかったかも知れない。死ぬ事もなかったかも知れない。私は従兄にとって禍だった部分も絶対にある。そう言う意味では、どんな人間も罪を犯している。

一向一揆の一向宗は浄土真宗の事ですが、親鸞が存在しなければ2万人も死ぬ事はなかったかも知れない。

奈良の大仏だってそう。あんなものに金メッキほ貼り付ける為、蝦夷討伐を行なった。仏教の為に罪の無い蝦夷が殺された。その事実がある限り、100%仏教を信じる事は私には出来ないです。

そう言いながら常福寺に何度も参拝している。父方の浄土宗、母方の曹洞宗の墓参りをしている。

それは私が仏教徒だからなのでしょうが、自分でも釈然としないと言うか、一体なんでお寺に詣でるのか良く分からない。何かしら繋がれている感じがする。

繋がれている。

それは悪を制御する仏教の力と言うものでしょうか。仏教があるから、地獄に落ちたくないから、多少なりとも仏教を信じていると言う感じでしょうか。

色々考えましたが、しどろもどろです。何時もの如く何がなんだか分からなくなってまいりました。

あっ、そうそう。常福寺はこれまで、幾度かの火災に遭っているそうです。仏の道を歩んでいても災害に遭遇する。それは何故か。

私、近年知ったのですが、常福寺の旧参道に面する山林を私の母の名義で所有しています。そしてその旧参道には大山祇神社と彫られた石碑が鎮座している。

常福寺は1200年の歴史があるみたいですが、元々、閼伽井嶽は大山祇神が頂上に祀られていた可能性がある。

もしかしたら、閼伽井嶽の頂上から中腹に落とされてしまったのではないか。常福寺は大山祇神を調伏する為に創建したのではないか。そんな疑問が有ります。

次ぎは常福寺から旧参道を下って大山祇神社を参拝し、そこでの感覚を体現したいと思う。

体力的に困難でしょうけど、体現すれば何かが分かる。そんな気がしています。


ではでは。








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閼伽井嶽薬師常福寺にて想う。その3

2021年02月04日 15時55分00秒 | 人生
続きます。

常福寺には、朱色が鮮やかな多宝塔が建てられています。私が子供の頃はありませんでした。

閼伽井嶽の見晴らしは素晴らしい。建築物も素晴らしい。だから人を惹きつける。それで信者も増えている。儲かっているのだなぁーと思います。

実際、常福寺の車庫には超デラックスなベンツが鎮座している。普通の人にはこんなクルマ、所有出来ない。ちょっと羨ましいかも。

否、私はでかいベンツが欲しい訳ではないのですが、あのベンツを見ると常福寺の経営は磐石。僧侶さん達の生活も安定していると思える。その点が羨ましいのです。

私の家は新聞販売業を営んでいましたし、私は証券マンだったこともあります。俗に塗れた生活で人間嫌いになり、生きる気力が失われている。ハッキリ言って鬱です。

もし私が僧侶だったら、今の精神状態にはならなかったかもしれない。このお寺の僧侶だったらお金に左右されない??人生が送れる。親との関わりも薄くない。豊かな気持ちでいられる。

心豊かに人に説法して生きていけるなら、楽で良いなぁーと思っちゃうのです。

逆に僧侶さん達に、新聞販売業や証券マンを経験して貰い清廉な心であり続けられるのか確かめたい。

僧侶の修行も辛いでしょうが、人の悪の心に接するのケースも少ないでしょうし、人に騙されたりもしないと思います。世の中の俗に塗れる方が、私的には辛い様に感じます。

でも、私は仏教を知らない。故に仏教を完全に信じられない。自分の仏教に自信がなければ人に説法なんて出来ない。やっぱり私には無理か。

仏教には宗派がある。お互いに自分が正しいと言い張っている。

私も神道をテーマにしてこんなブログを書いているが、自分が正しいと言い張るまでの自信がない。

否、仏教だって本当は誰も理解していないのではないか。日本の仏教は誤訳だらけだし。

キリスト教だってヘブライ語を英語に訳して、それをまた日本語に訳する。旧約聖書の十戒だって、本来の意味合いとはかなり違う意味に誤訳されている。

仏教だって三蔵法師が天竺に旅して仏教の聖典、仏典を手にして中国に戻った訳だが、サンスクリット語を中国語に完璧に訳すのは無理だ。それを日本語に訳すのも。

例えば竜。本当はコブラ。インドのコブラの事である。しかし、中国語にはコブラを示す文字がない。それで象形文字で「蛇の王、冠を被った蛇」の意味である「竜」の字を当てた。

さらに装飾で竜をあしらう為に、王符と言う者が発案した竜の姿が龍。その装飾の龍が竜として中国、朝鮮に広まり、日本に伝来した(言っている意味分かりますでしょうか)。

新羅の文武王が亡くなる直前、龍神を宿して日本を襲うと発言。

龍神が日本を襲う。恐怖する日本。

その恐怖から行基により目には目を、龍神には龍神をで日本にも龍神信仰が広まったが、龍などいないのである。本当の仏教では、あれはコブラなのだ。そして神道での龍はタツなのだ。日本古来のタツと龍が集合してしまったのだ(言っている意味、分かりづらいでしょうね)。

神社仏閣で龍神をあしらっている社をよく見かけるが、コブラは見かけない。本当はコブラでなければならない。それにタツの場合、姿など無い(見えませんから)。

神社もお寺も間違っている。其れを知ってしまうと、私が僧侶となっても堂々と説法など出来はしない。全てにおいて真実と確信できなければ仏教を信じきれたものではない。

私には無理だ。


続く。

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閼伽井嶽薬師常福寺にて想う。その2

2021年02月02日 13時39分04秒 | 人生
続きます。

お坊さん二人が通り過ぎて行く。そしてお堂の襖が開く。その瞬間、ワァッっと驚く数人の声が・・・・・。

小心者の私は急に発せられたその声に驚き、肺活量6600ccを誇る大声でワァッーと叫び、後ろによろめく。

その私の大声で、また前の数名がワァッーーーーと恐怖の声をあげる。

私は暴風雨の中、デカ過ぎる迷彩色のレインポンチョを頭から被っている。

その私を妖怪とでも思ったのか、お堂から出て来た参拝客達が驚きの声をあげた。

その声に私も驚き大絶叫。その私の驚きの大声で、またまた参拝客が驚きの声をあげたのだ。

折角、有り難い説法を聞いていただろうに、私の姿に驚いて皆忘れてしまったのでないかな。申し訳けない。私は仏敵なのかも知れないなぁー。

説法を聞いていた参拝客が帰り、お堂に向かい一人参拝する。何も言う事は無い。願いも無い。私の穢れが薄まればそれで良い。穢れが消える事は無いだろう。

私自身が穢れでもある。穢れが0になる時は死ぬ時だ。

常福寺には四国八十八箇所を簡略的に回れる仕組みとなっている。八十八の小さな観音様等々の石像が鎮座している。一度全ての石像に手を合わせたが、中々大変だった。

本当に四国八十八箇所を回るのはその1000倍以上大変。心からの信仰心がなければ、出来ないだろうなぁー。

そう言えばお堂の周りにも仏教の著名人??の名が彫られていた。

私の父親が41歳の時に尋ね知ったのだが、41番目は南光坊天海だった。詳細は言えぬが、私はこの方の名にチョッと関わりがある。

そう言えば我が宗家・永井直勝と南光坊天海は徳川の家臣で、共に日光東照宮の造営で協力している。

南光坊天海は会津の出身。永井直勝の叔父の永田徳本も山形で修験道の修行をしていた。その関係で徳川に仕えたのかも知れん。

でも変だな。常福寺は真言宗智山派の筈。そして天海は天台宗。どこに繋がりがあるのだろうか。

そう言えば常福寺は徳一大師が開基。よく分からないなぁー、宗派って奴は。

宗派は人の判断に寄り生じる。判断に寄り仏教に違いが出る。そして宗派間で争う。

中には宗派でカリスマ性と権力を持つ者が現れる。信者はその者を神として崇める。その者は自分を神であると錯覚する。或いは神たらんとして神を演じる。そして自分の権利をおびやかす者を攻撃する。

織田信長は一向一揆で2万人の信者を殺したが、もし宗教者を迫害しなければどの様な世界になっていただろうか。

宗派ごとに神を演じる者が現れ、信じれば救われるとして日本の政治を行なうのか。宗派で日本の政治の覇権争いをするのか。

うーん、公明党が政権を握るようなものか。池田大作を神として崇めている感じになるのか。

織田信長が一向一揆の信者を皆殺しにして、人の心に「仏教は武力を持つべきではない。仏教は戦をすべきではない」と言う考え方が生じた。それは少なからず幸いだったのではないか。

豊臣秀吉、徳川家康がキリスト教を日本から排除しなかったら、日本はスペイン等々の植民地になっていた可能性もある。

キリスト教信者やキリシタン大名は神社仏閣を焼き払い仏教徒を殺し、50万人の日本人女性を爆薬と引き換えに奴隷として海外に売った。

宗教には戦争兵器としての側面がある。だから政治に関わらせてはならない。麻原彰晃の尻尾みたいな奴らは、いくらでも居る訳だし。


続く。
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