ヌマンタの書斎

読書ブログが基本ですが、時事問題やら食事やら雑食性の記事を書いています。

自称アーティストに思うこと

2008-04-04 13:05:24 | 社会・政治・一般
私は狭量なのかもしれない。

なにが嫌いだって、自称アーティストという奴が嫌いだ。芸術というものは、人の心に感動を与えるからこそ価値がある。その作品に感動する第三者があってこそ、芸術という言葉は意味をなす。

自ら芸術家だと名乗るのは自由だが、真の芸術に値するかどうかは、その作品を評価した後にこそ決まるものだと思う。たとえ、いかな高い志を持って芸術の道を歩む決意をもっていたとしても、それを認めるのは評価に値する作品が存在してこそだと思う。

もちろん、かのゴッホのように生前はほとんど評価されず、死後に画家としての評価が高まった例もある。だから、現時点で評価されない芸術家が存在することは否定しない。

それでも私が自称アーティストを嫌うのは、逃避の手段としての自称アーティストが巷には溢れているからだ。実際に件pの道を歩んでいる人には自明の理だが、芸術創作の道は険しい。魂を削り、肉体を酷使し、それでも満足がいかない、頂点のない果て無き道程なのだ。

芸術の道はいくら歩もうと、満足のいく到達点に辿り着けるとは限らない修羅の道だと思う。

ところがだ、私の知っている自称アーティストたちは違う。仕事も満足にせず、さりとて創作活動に励むでもない。親のすねをかじるだけの者もいれば、女にたかる「ひも」もいる。共通するのは、自堕落な生活に似合わぬ高いプライドのみ。

中身なき自分を取り繕う虚飾の衣としての、自称アーティストなのだ。私はどうしても侮蔑の思いにかかられることを避け得ない。

もしかしたら、隠れて作品に奮闘しているのかもしれない。今は悩み苦しむ段階で、その後に創作活動に勤しむのかもしれない。その可能性はゼロではないと思う。

思うけど、その可能性はゼロでないだけで、小数点以下のものであることも間違いないと思う。可能性の低さに反比例して、そのプライドは高いことが、ことさら滑稽で仕方ない。

このような自称アーティストが生息できるだけ余裕のある成熟した社会なのかもしれないが、私は嫌悪感を隠すのが辛い。どんな生き方をしようと、それは自由だと思う。思うが、軽蔑される覚悟ぐらいは持つべきだ。

ところが不思議なくらい、この手の自称アーティストはプライドが高い。口先だけの芸術家である現実を指摘すると、多くの場合逆切れしてくる。だから黙っている。不快感を悟られぬよう、ポーカーフェイスに徹するが、心に不快感が積もるのは避け得ない。出来るなら、かかわりを持ちたくないと切に思う。

豊かな社会が生み出したものだと思うが、豊かさはえてして腐敗を招きやすいようだ。
コメント (11)
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