ヌマンタの書斎

読書ブログが基本ですが、時事問題やら食事やら雑食性の記事を書いています。

QED百人一首の呪 高田崇史

2009-12-02 09:42:00 | 
子供の頃から活字中毒だった私だが、不思議と詩はあまり好まない。

ただし、漢詩と和歌はけっこう気に入っている。短い文節に表現力の限りを尽すがゆえに、むしろ却って印象が深く心に刻まれる。

だが、振り返ってみて思うのは、暗記教育の素晴らしさだ。和歌も漢詩も暗誦させられた。とにかく覚えていれば良かった。考えることを優先して、暗記を軽視する向きがあるが、私は暗記教育を大事なものだと思っている。

文法はもちろん、意味さえもかなりあやふやなのだが、それでも十代の頃必死で覚えた和歌や漢詩は今でも思い出せるほどだ。私の国語力を支える基盤の一つになっていると思う。

少し暴言を吐かせてもらうと、高校までは古文で文法を学ぶ必要はないと思う。むしろ、沢山読んで古典に馴染ませ、古代から続く日本語の原像を記憶の奥底に眠らせるほうが意義ある教育だと思うのだ。

あの「る らる す さす・・・」とか「ず ざら ず ざり」とかの古典文法の勉強には、どれだけウンザリしたことか。文法を知ることにより、より深い理解が伴うことは分るが、そんなことは大学でやればいい。あれは専門教育に属することだ。まあ、文法を出題したがる大学受験問題こそが悪いのだがね。

あの文法暗記が嫌で、古典を嫌いになった人は案外多いと思う。その最右翼たる私なんざ、大学受験の時古典の勉強は一切放棄した。ほかの科目(世界史)で稼いで合格したる!と妙な意気込みにこだわり、かえって偏差値を下げていたことは隠せぬ事実だ。

その後、社会に出てからは古典から遠ざかるばかりで、一時期の暗号ブームの頃を除けばほとんど忘れていた分野であった。その後ブログを始めてから、いろんな人たちのブログで様々な本の紹介があり、私もおぼろげに多い出したのが古典俳句の世界。

表題の作品は、アメリカ・ミネアポリスで研究生活を送る「Patriotsファンのわし」さんのブログでしばしば取り上げられていたことから関心を持った。未読の本の山に囲まれているため、なかなか手を出せずにいたが、ようやく読むことが出来た一作でした。

ミステリーとしては上出来だと思うが、なにより百人一首を題材に使ったことが新鮮だった。ただ、ちょっと困ったことに、私があの時代の俳句を上手く詠めなくなっていたため、いささか消化不良気味。

思い出してみると、私が一番好きだったのが新古今和歌集であり、藤原定家はお気に入りの一人だったはず。それなのに、読解力不足から十分に楽しめないのはいささか忸怩たる思いがある。多分、小倉百人一首でカルタ遊びを正月に毎年やっていた頃なら、今よりももっと楽しめただろうと確信できる。

つまるところ私の教養不足がこの本を十分に楽しめなかったことの原因だ。これは情けない。俳句とは、日本人を縛る言霊信仰の源流といって良いと思う、その最高の専門家でもある藤原定家の想いを十分把握できないのは、日本人として実に悔しい。

いつかリベンジで再読すれば、もっと楽しめるはずだ。それまでの課題にしておこう。
コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする