裁判官「判決、三丁目のミケ。貴方は磯野家の夕食の秋刀魚を強奪し、あまつさえ追いかけてきた同家サザエに対して爪で引っかき傷害を与え、逃走に及ぶという犯罪行為を犯した。しかも反省のそぶりさえない姿勢には厳罰をもって臨まざるえない。故に絞首刑に処す。」
かくして、三丁目のミケは公衆の面前の下、絞首台に逆さづりにされて処刑された。
別に冗談ではない。中世から近世にかけてヨーロッパでは毎年数十件、このような猫に対する判決が下されたという。何故か?
歴史を学んでいると、どうしても派手な出来事に目を奪われる。ほとんどの場合、歴史を学ぶということは政治と戦争を知ることになる。これに文化と経済が多少加味されただけで歴史の学習は終わってしまう。
だから、なぜ猫を裁判にかけて、しかも絞首台に逆さ吊りにしたのか分らない。分らないから、ついつい現代人の常識で、当時の人々は動物虐待を好んでしていたと判断してしまう。これでは本当の事情は分らない。
中世から近代にかけて、猫や犬といった動物や鳥、あげくに虫に対してまで裁判が行われ、しかも判決まで出されて刑が執行されていたと言う。
現代人の感覚からすれば、おかしいとしか言いようがないが、当時の人たちの常識には叶う行為であったという。その当時の常識を支える歴史的経緯を探ったのが表題の新書だ。
科学的見地からと称して、歴史を塗り替えて(偏向させて)しまったマルクス歴史学からの脱却という意味では価値或る作品だと思います。
ただ、いま少し説得力に欠けるのは、著者が人間の残虐性などの暗い側面を敢えて無視する姿勢をとっているからでしょう。
断言しますが、今も昔も人間って奴は他者を苛めたり、蔑んだりするのが好きな生き物です。そこを無視してはいけないと思うのですが、著者は学者だけにそのような面を切り捨てて書いている。俗悪な内容になるのを避けたと容易に判断できてしまうのが残念です。
人間ってやつは、愛する家族を優しく抱きしめる手で、憎い敵を絞め殺す。愛おしい恋人を慈しむ瞳は、いとも容易に嫉妬と憎悪をたぎらした狂気の瞳に変貌してしまう。傷ついた友を優しく介抱するのと同じ手が、残虐な拷問をする手に替わることは珍しくもない。それが人間ってものなのです。
そこまで踏み込んだ上で、絞首台の上で苦しみもがく猫を見て、笑い転げる当時の民衆の気持ちまで踏み込めたなら、この本はもっと説得力のあるものになったと思うのです。ちと、残念ですね。
かくして、三丁目のミケは公衆の面前の下、絞首台に逆さづりにされて処刑された。
別に冗談ではない。中世から近世にかけてヨーロッパでは毎年数十件、このような猫に対する判決が下されたという。何故か?
歴史を学んでいると、どうしても派手な出来事に目を奪われる。ほとんどの場合、歴史を学ぶということは政治と戦争を知ることになる。これに文化と経済が多少加味されただけで歴史の学習は終わってしまう。
だから、なぜ猫を裁判にかけて、しかも絞首台に逆さ吊りにしたのか分らない。分らないから、ついつい現代人の常識で、当時の人々は動物虐待を好んでしていたと判断してしまう。これでは本当の事情は分らない。
中世から近代にかけて、猫や犬といった動物や鳥、あげくに虫に対してまで裁判が行われ、しかも判決まで出されて刑が執行されていたと言う。
現代人の感覚からすれば、おかしいとしか言いようがないが、当時の人たちの常識には叶う行為であったという。その当時の常識を支える歴史的経緯を探ったのが表題の新書だ。
科学的見地からと称して、歴史を塗り替えて(偏向させて)しまったマルクス歴史学からの脱却という意味では価値或る作品だと思います。
ただ、いま少し説得力に欠けるのは、著者が人間の残虐性などの暗い側面を敢えて無視する姿勢をとっているからでしょう。
断言しますが、今も昔も人間って奴は他者を苛めたり、蔑んだりするのが好きな生き物です。そこを無視してはいけないと思うのですが、著者は学者だけにそのような面を切り捨てて書いている。俗悪な内容になるのを避けたと容易に判断できてしまうのが残念です。
人間ってやつは、愛する家族を優しく抱きしめる手で、憎い敵を絞め殺す。愛おしい恋人を慈しむ瞳は、いとも容易に嫉妬と憎悪をたぎらした狂気の瞳に変貌してしまう。傷ついた友を優しく介抱するのと同じ手が、残虐な拷問をする手に替わることは珍しくもない。それが人間ってものなのです。
そこまで踏み込んだ上で、絞首台の上で苦しみもがく猫を見て、笑い転げる当時の民衆の気持ちまで踏み込めたなら、この本はもっと説得力のあるものになったと思うのです。ちと、残念ですね。