ヌマンタの書斎

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プロレスってさ タンク・アボット

2009-12-10 06:35:00 | スポーツ
歩く肉樽としか言い様がない。

厳密には、この人はプロレスラーではない。格闘家といえば聞こえは良いが、実際は喧嘩屋に過ぎない。しかも、恐ろしく強い喧嘩屋だった。

十数年前のことだが、格闘技の世界に突如ブラジルから異端の武道が名を挙げた。明治時代の不世出の柔道家、前田光世が世界放浪の末たどり着いたブラジルで柔術を広め、その流れを汲むグレイシー一族が突如として登場した。

ブラジルで行われていた「ヴァリー・トード」という試合形式において無敵を誇ったグレイシー柔術。この試合は、なんでもありとされ、打撃も寝技も関節技も認められる。もっとも噛み付きと目潰しは禁止されているが、それでも従来の格闘技に比べて、格段に自由度が高い。

この形式だと、寝技に弱いプロボクサーやキックボクサー、空手家はボロ負けだった。グレイシーのやり口は単純だ。タックルで相手を倒して、馬乗りになってタコ殴り。これだけ、本当にこれだけだった。正確には、締め技や関節技もあるが、馬乗りタコ殴りが一番印象的だった。

これは説得力があった。たしかに子供同士の喧嘩でも、相手を唐オて馬乗りの状態になれば、事実上勝利は確定したものだ。この馬乗りの体勢を「マウント・ポジション」と呼ぶ。いかに素早く、このマウント・ポジションを取るかが、グレイシー柔術の特徴だった。

このきわめて実戦的な戦い方ゆえに、グレイシー柔術とヴァリー・トードは世界に広まった。ただ、ショー・ビジネスとしては、いささか問題が多かった。素手での殴りあいは、殴られた側にダメージが大きく、タコ殴りの結果顔面が変形するほどのダメージを受けた選手が続出した。

あまりの陰惨さに、ヴァリー・トードの形式を禁じた国、州(主にアメリカ)が続出した。また、やられる一方だった打撃系の選手たちも、マウント・ポジションへの対抗策を編み出すようになった。このあたりから、総合格闘技という概念に進歩することになる。

総合格闘技の試合はショー・ビジネスとして集客力は確実にあった。たしかに戦い方はリアルなものであり、迫真性は増したが反面残酷でもあった。それでも、そのリアルさを楽しむ観衆は確実に存在した。そんな最中に登場したのが、アメリカのタンク・アボットだった。

巨漢でデブなアボットだったが、ただのデブではなかった。骨格に筋肉を分厚くまとわせ、その上に脂肪の鎧を覆ったような異様な体格だった。歩くドラム缶に思えたものだ。身長は180だが、体重が130キロを超えている。それでいて動きは俊敏であり、なにより短足だった。これが強みだった。

白人としては、いささか足が短かったが、その分重心が低く、相手のタックルを容易に受け止めてしまい、簡単には倒れない。それゆえ、マウント・ポジションを取られにくい。逆に相手のタックルを潰して、アボットが馬乗りになり相手をタコ殴り。それで勝利を重ねた。

問題はアボットが格闘家ではなく、喧嘩屋だったことだ。ボクシングやアマレスの経験はあるようだったが、その技量はそれほどたいしたものではない。むしろ本業は酒場の用心棒であり、その強面の容貌に相応しい残酷な打撃が印象的だった。

その圧倒的な強さゆえに人気も出たが、問題が多かった。いや、多すぎた。ファンや観客への暴行は日常茶飯事であり、私生活でもそれは変わらなかった。アボット・ガールズと呼ばれた女性ファンを引き連れてのご乱交も、人々の顰蹙を買ったが本人はどこ吹く風だった。

今だから分るが、この人は裏社会の人間であった。明るい日のあたる社会で、節度を持って生きていける人ではなかったと思う。試合とはいえ、この人は暴力を楽しんでいた。相手を傷つけることを当然に思い、手加減するよりも、ぶちのめすことを優先した。

それゆえ、ショービジネスの世界には馴染めなかった。いや、許される存在ではなかった。一時期プロレス入りもしたが、そこでも相手を徹底的にぶちのめす悪習は抜けず、結局追放された。

普通の感性では残酷すぎて、見るに耐えうるものではない。しかし、そのような残虐さを楽しむ人は必ず存在する。そのことを思い出させてくれたのがアボットだった。
コメント (2)
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