俺にはヤクザの友達がいるんだぜ。
そんなことを誇らしげに語る人は少なくない。ハッキリ言って馬鹿だと思う。
もちろんヤクザにだって友達はいる。私のみたところ、二種類の友達がいるようだ。ひとつは心のつながりを持つ友達だ。ヤクザ自身が大切に思う相手であり、数はあまり多くはない。
一方沢山いるのが将来のネタとしての「おトモダチ」だ。冒頭の科白を平気で口にするような奴が典型例だ。仕事をもってきてくれる相手であり、仕事自体になるかもしれない相手でもある。
この後者の「おトモダチ」の多さがヤクザの生活を(つまり稼ぎを)保証する担保となる。要するに飯の種だ。優しい笑顔で近づいて、後でいつでも咬み砕く。
だから、ヤクザとの距離感は難しい。私は育ちが悪いので、ヤクザを身近で見て育った。多分、普通の人よりは敏感だと思う。クラスメイトにも幾人かいる。行方不明の奴もいれば、出世して豪邸を構えるやつもいる。どうも死んでしまった奴もいるらしい。
ヤクザは派手だ。いい女を連れて歩き、札束で財布を膨らませ、品はないが高価な服装で肩で風きって街を闊歩する。
バブル崩壊以降、いくら勉強していい会社に入っても将来は安定しない。いくら頑張って働いても雀の涙の給料では、日々の暮らしを賄うのがやっとだ。夢も希望も抱けない社会ならば、一層のこと裏社会にデビューするほうがいいかもしれないなどと考える若者が増えるのも無理はない。
別にヤクザに限らないが、裏社会は激烈な競争社会だ。実力のない奴は、情け無用で切り捨てられ、踏みつけられる。成功者には莫大な見返りがあるが、それは安定とは無縁のあだ花に過ぎない。それでも若いうちはなんとかなる。
だが、老年を迎えたハグレ者の末路は厳しい。
私が長期の入院生活を送った二十代の頃に知り合ったQさんが、そんな一人だった。その素行の悪さから、幾つもの病院を渡り歩き、ついにこの病院に棲みついてしまった。実際トラブルを頻繁に起こし、渡り歩くというよりも追い出されて流れ着いた感が強い。
ひと目で堅気の人間ではないことが分った。あまりお近づきになりたくないタイプである。当時私は寝たきりの生活から開放され、一日中点滴に繋がれてはいたものの、その点滴をぶら下げる移動式の台にすがりながら歩行練習をしていた。
疲れて談話室で休んでいるうちに、そこでタバコを吸っていたQさんと話すようになった。当時病棟で若い男性患者は私一人だった上、彼のようなヤクザ者と普通に会話が出来る人も少なかったので、いつのまにやら懐かれるようになった。
会話といっても、ほとんどは彼の自慢話を聞かされるだけだ。私は子供の頃から銭湯などで、この手のヤクザ者と接することに慣れていたので、それほど苦ではなかった。
ただし、どれほど仲良くなっても、決して私から頼みごとはしなかった。あくまで彼の話を聞くだけにとどめた付き合いだった。ヤクザ者に借りを作ってはいけない。私はこの鉄則を頑なに守った。おかげで、一年近い入院生活の間彼との間でトラブルは、まったく生じなかった。
彼は時折、私に対して弱音を吐くことがあった。私は既に気がついていた。彼が組織の正式な構成員ではなく、よく言って下請け。つまるところ、使い捨ての便利屋扱いであったことに。
おそらくは若い頃は羽振りが良かったのは確からしいが、難病で衰弱したQさんの末路は悲惨だった。彼を世話してくれるのは90過ぎの母親だけだ。その母親が近くの病院に入院した時、Qさんの動揺と悲嘆は哀れとしか言いようがなかった。
事情を知っていたと思われる総婦長さんに頼まれて、いくつか雑用をこなしたことがある。あの病院で彼とまともに話を出来るのは、主治医のW助教授と総婦長と数人の看護婦を除けば私だけだったからだ。
知らず知らずのうちに、私は事情を知ってしまった。深入りするのが嫌だったので、或る程度距離を置いていたのだが、知れば知るほど悲惨だった。仕事も年金もない彼が、いつも財布に万札を入れていた理由も、それとはなしに分った。
おそらくは彼がトラブルを起したとされる他の病院での医療過誤がらみだと私は睨んでいる。でも、彼が表に出れない理由があることも、なんとなく分った。想像だけど、彼はあの病院に匿われていた気がする。
私の手元には、Qさんからもらった彼の名刺がある。上質な紙を使い、金色の紋章が入った立派な名刺だ。すごく偉そうな肩書きが書かれている。
その名刺に記載された住所に足を運んだことがある。路地の奥まったどん詰まりの地番だった。よくぞ潰れずに建っていると感心するほどのオンボロ家屋だった。人が住んでいる形跡はなく、何枚もの紙が張られていた。雨に濡れてその文面は読めなかったが、ろくでもない科白であるのは間違いないようだ。
はぐれ者の末路に相応しいボロ家屋であったが、Qさんがそこへ戻ることはなかった。私が二度目の入院をした時は、まだ意識があったのだが、三度目の時はもう意識はなかった。母親は既に亡くなっていたらしく、民生委員の方だけが世話をしていたらしい。
裏社会で生きていくことは、決して容易なことではなく、羽振りがいい時だけを見て判断できるものではない。そのことを忘れないために、あの名刺はしっかりと保管してある。私一人ぐらい、彼を覚えている人間がいてもいいとも思うよ。あれじゃあ寂しすぎるからね。
そんなことを誇らしげに語る人は少なくない。ハッキリ言って馬鹿だと思う。
もちろんヤクザにだって友達はいる。私のみたところ、二種類の友達がいるようだ。ひとつは心のつながりを持つ友達だ。ヤクザ自身が大切に思う相手であり、数はあまり多くはない。
一方沢山いるのが将来のネタとしての「おトモダチ」だ。冒頭の科白を平気で口にするような奴が典型例だ。仕事をもってきてくれる相手であり、仕事自体になるかもしれない相手でもある。
この後者の「おトモダチ」の多さがヤクザの生活を(つまり稼ぎを)保証する担保となる。要するに飯の種だ。優しい笑顔で近づいて、後でいつでも咬み砕く。
だから、ヤクザとの距離感は難しい。私は育ちが悪いので、ヤクザを身近で見て育った。多分、普通の人よりは敏感だと思う。クラスメイトにも幾人かいる。行方不明の奴もいれば、出世して豪邸を構えるやつもいる。どうも死んでしまった奴もいるらしい。
ヤクザは派手だ。いい女を連れて歩き、札束で財布を膨らませ、品はないが高価な服装で肩で風きって街を闊歩する。
バブル崩壊以降、いくら勉強していい会社に入っても将来は安定しない。いくら頑張って働いても雀の涙の給料では、日々の暮らしを賄うのがやっとだ。夢も希望も抱けない社会ならば、一層のこと裏社会にデビューするほうがいいかもしれないなどと考える若者が増えるのも無理はない。
別にヤクザに限らないが、裏社会は激烈な競争社会だ。実力のない奴は、情け無用で切り捨てられ、踏みつけられる。成功者には莫大な見返りがあるが、それは安定とは無縁のあだ花に過ぎない。それでも若いうちはなんとかなる。
だが、老年を迎えたハグレ者の末路は厳しい。
私が長期の入院生活を送った二十代の頃に知り合ったQさんが、そんな一人だった。その素行の悪さから、幾つもの病院を渡り歩き、ついにこの病院に棲みついてしまった。実際トラブルを頻繁に起こし、渡り歩くというよりも追い出されて流れ着いた感が強い。
ひと目で堅気の人間ではないことが分った。あまりお近づきになりたくないタイプである。当時私は寝たきりの生活から開放され、一日中点滴に繋がれてはいたものの、その点滴をぶら下げる移動式の台にすがりながら歩行練習をしていた。
疲れて談話室で休んでいるうちに、そこでタバコを吸っていたQさんと話すようになった。当時病棟で若い男性患者は私一人だった上、彼のようなヤクザ者と普通に会話が出来る人も少なかったので、いつのまにやら懐かれるようになった。
会話といっても、ほとんどは彼の自慢話を聞かされるだけだ。私は子供の頃から銭湯などで、この手のヤクザ者と接することに慣れていたので、それほど苦ではなかった。
ただし、どれほど仲良くなっても、決して私から頼みごとはしなかった。あくまで彼の話を聞くだけにとどめた付き合いだった。ヤクザ者に借りを作ってはいけない。私はこの鉄則を頑なに守った。おかげで、一年近い入院生活の間彼との間でトラブルは、まったく生じなかった。
彼は時折、私に対して弱音を吐くことがあった。私は既に気がついていた。彼が組織の正式な構成員ではなく、よく言って下請け。つまるところ、使い捨ての便利屋扱いであったことに。
おそらくは若い頃は羽振りが良かったのは確からしいが、難病で衰弱したQさんの末路は悲惨だった。彼を世話してくれるのは90過ぎの母親だけだ。その母親が近くの病院に入院した時、Qさんの動揺と悲嘆は哀れとしか言いようがなかった。
事情を知っていたと思われる総婦長さんに頼まれて、いくつか雑用をこなしたことがある。あの病院で彼とまともに話を出来るのは、主治医のW助教授と総婦長と数人の看護婦を除けば私だけだったからだ。
知らず知らずのうちに、私は事情を知ってしまった。深入りするのが嫌だったので、或る程度距離を置いていたのだが、知れば知るほど悲惨だった。仕事も年金もない彼が、いつも財布に万札を入れていた理由も、それとはなしに分った。
おそらくは彼がトラブルを起したとされる他の病院での医療過誤がらみだと私は睨んでいる。でも、彼が表に出れない理由があることも、なんとなく分った。想像だけど、彼はあの病院に匿われていた気がする。
私の手元には、Qさんからもらった彼の名刺がある。上質な紙を使い、金色の紋章が入った立派な名刺だ。すごく偉そうな肩書きが書かれている。
その名刺に記載された住所に足を運んだことがある。路地の奥まったどん詰まりの地番だった。よくぞ潰れずに建っていると感心するほどのオンボロ家屋だった。人が住んでいる形跡はなく、何枚もの紙が張られていた。雨に濡れてその文面は読めなかったが、ろくでもない科白であるのは間違いないようだ。
はぐれ者の末路に相応しいボロ家屋であったが、Qさんがそこへ戻ることはなかった。私が二度目の入院をした時は、まだ意識があったのだが、三度目の時はもう意識はなかった。母親は既に亡くなっていたらしく、民生委員の方だけが世話をしていたらしい。
裏社会で生きていくことは、決して容易なことではなく、羽振りがいい時だけを見て判断できるものではない。そのことを忘れないために、あの名刺はしっかりと保管してある。私一人ぐらい、彼を覚えている人間がいてもいいとも思うよ。あれじゃあ寂しすぎるからね。