ヌマンタの書斎

読書ブログが基本ですが、時事問題やら食事やら雑食性の記事を書いています。

イノシシの鼻息

2010-07-02 12:48:00 | 日記
野生動物が可愛いと聞かされると、どうしても違和感が禁じえない。

東京の新宿から神奈川の端の箱根湯本までを繋ぐ路線が小田急線だ。高校が小田急線沿線にあったこともあり、その小田急線を使って行ける山である丹沢にはずいぶんと通ったものだ。この丹沢山系の特徴は、秦野周辺の丘陵地帯から急激に盛り上がっていることにある。

ほぼ稜線が一直線に頂上まで登っており、急峻であり、吐息を荒くする激しい登山となる。そして稜線にたどり着くと、そこからは比較的なだらかな山稜が続き、標高のわりに展望のいい縦走が楽しめる。

丹沢のもう一つの魅力が、その急峻な山稜が彫り上げた流れの急な沢にある。遡行距離は短いが、傾斜が急なために幾つもの滝を抱えていて、沢登りには絶好のコースとなっている。

通常、山登りは稜線伝いに登ることが原則だ。この登り方が一番分りやすいし、また安全でもある。もちろん、稜線と稜線の間を流れる川を遡ることでも、登ることが出来る。

川沿いに進めば、水の補給が容易であるため魅力的なルートなのだが、川筋が細く激しくなり、沢と呼ばれるようになると、むしろ沢沿いに進むのは難しくなる。滝に行く手をふさがれたり、あるいは沢を渡ることが必要になるからだ。また沢筋は濡れていて滑りやすい。その上、雨水の流れ道でもあるためルートが崩壊しやすく、滑落などの事故も多い。

そのため、多くの登山道は沢筋が狭く厳しくなると、沢筋を外れて稜線を巻くように登ることが多い。一般的なハイキング用の登山道は、このパターンで登ることになる。

しかし、ある程度技術があるのなら、そのまま沢筋に登るほうが距離的には近いし、要は沢を登り詰めればいいので迷う心配もない。また夏場は日差しの厳しい稜線を進むより、樹林に囲まれた谷筋沿いに登るほうが楽だ。濡れることを覚悟していれば、むしろ冷たい沢に浸かりながら登ることだって可能だ。

この沢筋を登り、濡れることを当然のものと考える登り方を、沢登りと呼ぶ。どうも日本独特の登り方のようで、海外、とりわけ欧米では、このような登り方は存在しない。

日本の場合、急激な傾斜を持つ山が多く、その沢筋もまた急激で滝や回廊も多く、稜線伝いに登るよりも景観の変化が楽しめ、また岩登りの楽しみと、水遊びの感覚を楽しめることから広まった登り方だと思う。

さらに付け加えるなら、日本の暑くて蒸す夏では、この沢登りは格別の面白みがある。シャワークライミングと称して、わざわざ滝を濡れながら登攀するのも非常に楽しい。まさに山を遊びつくすに相応しい登り方だった。

私が初めて沢登りに連れて行ってもらったのは、高校生の時だ。OBの方にコーチを受けながら、丹沢の初心者向けの沢を登った。非常に楽しかった。まるでトンネルのような沢の回廊を、全身びしょ濡れになって遡上し、ザイルで確保してもらいながら滝を直登する楽しさ。まさに冒険の楽しみだった。

もちろん、その楽しさに比例してリスクもある。濡れた岩場を登るのだから、滑りやすく滑落事故は頻繁に起こる。また沢筋の道は崩壊しやすく、落石の危険や迂回の技術も必要となる。実のところ、山での事故の半分ちかくは沢筋で起きる。とりわけ多いのは、沢筋を下る場合の事故だ。登るよりも下るほうが難しい。これは登山者には常識だが、なぜかそれでも下りでの事故はなくならない。

そう教わった時は、分っていて、なんで事故を起すのだろうと不思議に思っていた。だが、経験を積むうちに分ってきた。下りは、登りに比べてペースが速くなる。早く下山したいとの思いから、無意識にペースが上がり、疲労度が思考力を減退させ、注意力が散漫になる。そんな時に事故は起こる。

あの時もそうだった。

予備校の夏休みに、OBとして高校の後輩を連れて丹沢の沢を登った時だ。私もそうだったが、初めての沢登りの楽しさに我を忘れた後輩たちが、何度も滝登りをしたがるので予定よりも時間を食った。

日帰りのつもりだったので、幕営道具はもってきてない。夕暮れが迫ってきたので、急いで稜線を下っている時に後輩が足を挫いた。その場で三角巾をつかって患部をしばり、即席の杖を作っていたら日が暮れてしまった。

幸いヘッドライトは全員持参していたので、仕方なくペースダウンして暗闇の中を足元を照らすわずかな光を頼りに下る。やがて分岐点に到着した。ここから稜線伝いに下れば2時間で降りれる。しかし沢沿いの道なら1時間だ。

こんな時は通常、稜線の道を行く。夜間なのだから安全優先が大原則だからだ。しかし、このときは精神的にゆとりがなかった。誰もが早く下山したがった。

幸か不幸か、その沢沿いの道は昨年登った道であり、私も含めて数人が覚えている道でもあった。30分ほど急斜面を下れば、後は傾斜もゆるく歩きやすい林道にぶつかるだけだ。

迷ったが、早く下山したがる後輩たちの要望もあって、暗い沢筋へ下ることにした。この急峻な岩場の下りは、怪我人を中心に全員が力を合わせての行動となった。平坦な沢沿いの道に下りた時は、思わず全員が座り込むほどの緊張感だった。

沢の水音がする小道で一休みして、後はなだらかな下りだけだなと、皆で談笑していた時だった。背の高い笹薮に囲まれた小道の先に小さな動物が飛び出してきて、我々の目の前で急停止した。

瓜坊だった。

まだシマ筋がくっきりと浮き出た猪の子供を瓜坊と呼ぶ。見た目が可愛らしいのはもちろんだが、子豚のような可愛い声で啼くことで知られている。

やばい!

子供の猪が単独で行動しているはずがない。ちかくに母親がいるのは間違いない。「おお、可愛い~」などと騒ぐ後輩たちをたしなめ、大慌てで避難場所を探す。母性本能から怒り狂った猪とのご対面は、真っ平御免である。

とりあえず小道のわきのブナの木の周りに集まり、様子を伺う。なんとなく嫌な感じがする。ただならぬ雰囲気に呑まれたのか、後輩たちも息を潜めて黙り込む。昼間ならイザ知らず、星のあかりもまばらな暗闇の下だと、背筋を凍らすような恐怖が、じわじわと迫ってくる。

沢側の笹薮の向うに、なにか居る。耳をすますと、ブフォブフォと鼻息がする。興奮していることだけが分るが、どうも一匹だとは思えない。数頭いるようだ。ますます危険だ。猪に襲われて、その牙で肉を引き裂かれた登山者の話は聞いたことがある。走って逃げられる相手ではない。

おそらく数分、藪を挟んでにらみ合ったと思う。その時だった、後輩の一人がなにやらザックを探っている。なにをしているんだと訝ると、なかからロケット花火を取り出した。どうやら遊ぶつもりで持参したようだ。これは使える。

手分けして数人で、いっせいにロケット花火を藪に向かって撃ちはなった。キーンという高周波音とともに小さな爆発音が一斉に響き渡った。

次の瞬間、笹薮が大きく揺らめくと、少なくとも5頭以上の猪が飛び出してきた。5頭?いや、二桁はいたかもしれない。暗闇に響き渡る地響きと、星明りにぼんやり浮かぶシルエットから、かなりの大型の猪だと思えた。

幸い、私たちがいる方向とは、それて走り去ったので、被害はなかった。・・・と思ったら、我々が残しておいたザックがいつのまにやら引き裂かれ、なかのスナック菓子などが食べつくされていた。いったい、いつやられたんだ?

ほんの数分の出来事であったが、私たちは唖然呆然の体で、しばし虚脱状態に陥ったほどだ。すると一人のお腹がキューと音を立てた。

「先輩~、腹減りました~」と情けない声でぼやく後輩に爆笑。たしかにみんな、空腹であることは間違いない。緊張のあまりに、空腹さえ忘れていたのだろう。

もう大丈夫だと判断して、荷物を分けて沢沿いの道を麓まで下り、最終便のバスで駅にたどり着き、そこの食堂で空腹を満たした。帰りの小田急線の車内では、でかい鼾をかく奴がいて眠れなかったが、改めて誰一人怪我なく下山できたことに安堵のため息をもらしたものだ。

野山では、我々人間こそが侵入者。本来の住人である野生動物の敵意を買って当然なのだと思い知らされたものです。
コメント (12)
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